第二章 ~『弟さえいれば・・・』~
静かな夕暮れの中、長い一日を終えた雪華は、重厚な木門を押し開け、屋敷に帰り着いた。
庭の石畳を進み、玄関の扉を開いた彼女は、疲労を浮かべながら、廊下を進んで談話室へと足を運ぶ。
静けさが漂う落ち着いた空間には、長机を囲むように椅子が並べられている。机は木目が美しく、磨き上げられて艶がある。椅子は緩やかに傾いた背もたれが、長時間座っても疲れないように配慮された作りになっていた。
「李明様、いらっしゃったのですね」
談話室には先客がいた。家令の李明である。落ち着いた姿は、室内の柔らかい空気とよく馴染んでいた。
「雪華がそろそろ帰って来る頃だろうと思ってね。丁度、お茶を淹れたところなんだ。よければどうかな?」
「では、折角なので頂きますね」
李明が急須から茶を注いでくれる。無駄のない所作は彼の性格が滲み出ていた。
「少し熱いから、冷ましてからどうぞ」
雪華は静かに椅子に腰を下ろすと、出された茶杯を受け取る。口に含むと優しい苦みとほんのりとした甘さが広がり、雪華の心に安らぎをもたらしてくれた。
「癒やされる味ですね……」
「気に入ってもらえたようで何よりだよ」
湯気の向こうにいる雪華の顔をじっと見つめる李明の瞳には、優しさが宿っている。その気遣いが、自然と言葉になって口から溢れる。
「何かあったのかな?」
李明がさりげなく投げかけた問いだが、声は落ち着いていた。そっと寄り添うような声音に、雪華は一瞬だけ目を伏せると、茶杯の縁を指で軽くなぞる。
「やっぱり李明様には見抜かれてしまいますね」
「僕でも分かるほどにお疲れだからね。後宮で何が起きたんだい?」
「実は……」
雪華は礼房で起きた出来事をありのままに伝える。三ヶ月以内に縁談相手を見つけられなければ、国が見繕った相手と強制的に結婚しなければならないことや、呂晃という男に絡まれたこと。苦難を語るに連れて、李明の表情は見る見る内に曇っていく。
「大変だったね」
「本当に苦労するのはこれからです。なにせ相手を見つけられなければ、知らない人と結婚しなければならないのですから」
「国から紹介された人が、良い人の可能性もあるけれど……さすがに運否天賦が過ぎるね」
「そのリスクは取りたくありませんね」
呂晃のような男をあてがわれた場合、取り返しのつかないことになる。安易な賭けに出るわけにはいかなかった。
「弟が……華凌がいれさえすれば……」
雪華はぽつりと呟く。行方不明になってしまった彼のことを思うと、心が締めつけられるような感覚に襲われる。
「華凌は聡明で、武術の腕にも秀でていたからね。彼がいれば次期領主について悩むこともなかっただろうね……」
雪華の婚姻はあくまで領主となる男性を探すための手段でしかない。正当な後継者である華凌さえ見つかれば、無理に好きでもない相手と結ばれる必要もなくなるのだ。
「どこかで元気にやっているのでしょうか……」
「雪華……」
死体はまだ発見されていない。だが行方不明になってから一年以上が経過しているにも関わらず、屋敷に姿を現さないことから望みが薄いことは雪華自身も理解していた。
「微力ながら僕の方でも調査してみるよ」
「お願いします」
結果を期待できないと知りつつも、弟の生存を諦めきれない雪華は小さく頷く。二人の間に無言の決意が漂い、互いの意思を確認するようにしばし見つめ合っていると、屋敷の入り口から騒がしい気配が伝わってきた。
「お客様でしょうか?」
「確認してみようか」
雪華と李明は軽く頷いて立ち上がると、廊下を進んで門庭へ向かう。外へ出ると、目の前には見慣れない馬車が堂々と停められており、厚い漆塗りの車体は陽光を受けて鈍く輝いている。
(あの馬車はいったい……)
雪華が疑問を感じていると、馬車の扉がゆっくりと開いて、中から男が降りてくる。獰猛な目つきと、無骨な佇まいは見間違えるはずがない。礼房でひと悶着あった呂晃である。乱暴に扉を閉めると、彼は雪華に向かって不敵な笑みを浮かべた。
「さっきは世話になったな。再び、会いに来てやったぞ」
「私はあなたに用はありませんが……」
「そういうな。良い知らせを持ってきてやったんだからな。喜べ、貴様と俺の結婚が決まったぞ」
突然の宣言に、雪華は眉間に皺を寄せて睨みつける。
「妄想なら頭の中でお願いします」
「クククッ、失礼な貴様でも俺の優秀さが理解できるように説明してやる。聞いて驚くなよ。俺は領主代行を務めたことがあるのだ!」
「私もありますよ」
「な、なにっ!」
「話はそれで終わりですか?」
「ま、待て待て。ここからが本題だ。その実績をどうにか活かせる場が欲しいと後宮にアピールした結果、貴様が期限内に夫を見つけられなければ、俺が結婚相手となり、新しい領主となる約束を取り付けたのだ」
「そんな馬鹿な約束……」
あまりに理不尽だと言い切るよりも前に雪華は抜け穴に気づく。
仮に相手が見つからなかったとしても、李明と結婚すれば最悪の結末は避けられる。だがそれを見越していたかのように呂晃は笑う。
「あ、そうそう。俺との婚姻を避けるために、身近な相手を選ぶのは止めておけよ。後宮で働く知人に根回して、相応しくない相手の場合は拒絶するように言い含めてある。無駄に時間を浪費するだけだからな」
呂晃はしてやったと傲慢な笑みを浮かべる。その様子を見つめながら、雪華の胸の内に冷たい反感が渦巻いていく。
(やられっぱなしは癪ですね)
反撃の一手はないかと思案していると、雪華の耳に微かな話し声が聞こえくる。その声の主は、車体に繋がれた二頭の馬だった。
馬たちが話していたのは呂晃に対する不満だ。その内容を耳にした瞬間、雪華の口元にふっと笑みが浮かぶ。その小さな嘲笑に気づいた呂晃は、不愉快そうに険しい目つきで雪華を睨みつける。
「何がおかしいんだ?」
呂晃が問い詰めると、雪華は馬たちが話していた内容を思い出しながら、冷静に言葉を返す。
「領主代行をしていたとのことですが、結果は芳しくなかったようですね」
「な、なんだとっ」
「遊んでばかりで、領地を滅茶苦茶にしたとのことで……領民たちからも放蕩息子と馬鹿にされているとか」
「誰がその話を!」
「出元はどこでも構わないでしょう。大切なのは私との婚姻を望む動機です。自分の生まれ育った領地で領主になれないと見切りをつけたあなたは、それでも権力の味を忘れられなかった。だからこそ、後宮の友人たちに根回ししてまでこの縁談を無理に進めようとしたのです」
雪華の指摘を受け、呂晃の顔に怒りが色濃く滲んでいく。そこに反省の色はない。なら容赦する必要はないと、追い打ちをかけるように続ける。
「私との縁談を得るために友人たちに土下座までしたそうですね」
「~~~~ッ」
呂晃は唇を強く噛み締めていた。屈辱的な過去を思い出し、プライドが深く傷ついたのだ。
「私利私欲のために婚姻を望むような人と結ばれる気はありません。どうぞお引き取りください」
「こ、この借りは必ず返すからな!」
呂晃は怒りに任せて吐き捨てるように言い放ち、踵を返したその瞬間、隣の馬が大きく鼻を鳴らして前足を高く掲げた。
急な動きに驚いた呂晃は、足元を見失い、よろめいてしまう。必死に体勢を立て直そうとするものの、つま先が石畳に引っかかり、そのまま前のめりにバランスを崩して倒れてしまった。
「くっ……何だ!」
呂晃は顔を真っ赤にし、地面に手をついて立ち上がる。そんな彼の様子に、隣の馬が鼻をふんっと鳴らし、どこか嘲るような視線を向けていることに、雪華だけが気づいていた。
「お、覚えてろ!」
呂晃は馬車に乗り込み、逃げるように雪華の元から去っていく。その姿を見つめながら、雪華はこれから起きるであろう波乱を覚悟するのだった。