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9, 哀しい恋心

 中元さんはこの数日間、ずっと病院にいました。

 そしてある人のお見舞いをしていました。その人はご存知の通り、白川悟くんです。


 白川くんはこの数日、容態が悪くなっていました。担任の先生から聞いたところによると、中元さんはそのことで白川くんのご家族から、連絡をもらっていたみたいなんです。


 中元さんは白川くんのご家族と一緒に、病床の白川くんにつきっきりになっていました。病院が閉まる夜間になると、中元さんは白川くんの家でお世話になっていました。

 中元さんが僕と会った日からもずっと学校を休んでいたのは、それが理由だと担任の先生から聞きました。


 正直なところ、僕はなんとも言えない気持ちになりました。

 重い病気にかかっているはずの白川くんのことを、うらやましいとさえ思いました。

 僕も中元さんに毎日寄り添っていてほしいと思いました。


 他の誰にも言えないことですが、たぶん僕は中元さんのことを好きになっていたんだと思います。

 自分の人生を変えてくれたかもしれない中元さんに、僕はいつの間にか心を惹かれるようになっていました。

 だからこそ、僕はたとえ残りの人生が短いかもしれない病床にあっても、白川くんに対して嫉妬を感じない訳にはいきませんでした。



 そんな時、僕はミケさんとお知り合いになりました。

 僕は、中元さんに会えないと分かりきっていたとしても、毎日のように中元さんの家に通うようになっていました。

 もしかしたら、荷物を取りに戻ってきた中元さんと会えるかもしれない。そのようなはかない期待を持っていました。


 あるいは、白川くんが入院している病院の近くまで何度も足を運びました。

 でも、病院に行ったからといって必ずしも中元さんに会える訳ではありません。

 むしろ中元さんと白川くんが仲良さそうに一緒にいるところを目撃して、激しい嫉妬に駆られてしまうかもしれない。

 だから、どうしても病院の中まで入る勇気は持てませんでした。


 そんなふうにして、あてもなく中元さんの家に通う毎日が続きました。

 そこで僕は、同じく中元さんに会いにきていたミケさんと、何度も顔を合わせるようになりました。

(注:その時には既に私もそこにいた訳だが、死角になっていたせいか、杉本君は私の存在には気がつかなかったようだった)。


 僕は、思い切ってミケさんに声をかけてみることにしました。

 ミケさんは最初こそ猫に話しかける僕に驚いていましたが、中元さんを大切に思っているもの同士、すぐに仲良くなりました。


 ミケさんは突然いなくなった中元さんのことを心配していました。そこで僕は、自分の知っていることをミケさんに教えてあげることにしました。


 ミケさんはとても驚いていました。そして、うまく言葉にできない複雑な気持ちになっていることを教えてくれました。

 ミケさんにとっても、中元さんはとても大切な存在でした。その中元さんに、自分ではない大切な存在ができたことの寂しさを感じていました。


 そして彼女の幸せを願っているミケさんにとって、中元さんの取っている選択が正しいものなのかという疑念もありました。

 余命いくばくもない彼に深く肩入れすることで、その存在を失った時に抱くであろう喪失感を想像すると、悲しくなってしまうとミケさんは言っていました。


 しかしミケさんにとって白川くんも大切な存在になっていました。

 中元さんを介して白川くんとも知り合いになっていたミケさんは、いつしか白川くんの家にも出入りをするようになっていました。

 そして白川くんの深い優しさと孤独に触れていたミケさんは、中元さんが白川くんのことを大切に思っているその気持ちを、深く理解できるようになっていました。


 だから、もしその先に大きな喪失感が待っていたとしても、今のこの瞬間を大切にしていたいという中元さんの思いは、ミケさんにも痛いほどよく分かりました。

 中元さんを大切に思うからこそ、ミケさんは二つの思いに板挟みになりました。そしてひどくつらそうな表情を浮かべていました。


 その気持ちは自分にもよく分かりました。しかし、同時に想像しないわけにはいきませんでした。

 もしも中元さんがこんなにも想いを寄せている相手が自分であったなら。

 そのことをどうしても想像してしまうのです。その不謹慎な苦しみが罪悪感となって僕の心にのしかかってきました。


 その気持ちをミケさんは理解してくれました。

 自分は同性のしかも人間ではなく猫だから、その苦しみに本当の意味で共感することはできない。

 けれど、その苦しみがどれほどつらいものであるのかという想像はとても容易いと言ってくれました。


 僕はミケさんの前で、気がつくと泣いていました。

 誰かの前で涙を見せても良いと思えたのは、自分にとって生まれて初めてのことでした。

 そして自分の苦しみをこれほど深く理解してもらえたのも、生まれて初めてのことでした。


 僕はミケさんと相談して、中元さんと白川くんのことはこのまま遠くから見守ることにしました。

 二人だけの世界に僕の存在が邪魔をしてはならないと思ったからです。

 それは僕にとってかなり苦しいことでした。


 本当は今すぐにでも中元さんに会いにいきたい。彼女の隣で二人きりで同じ時間を過ごしたい。

 それが僕にとっての強い気持ちでした。でも、それは望んではならないことだと思いました。


 中元さんにとっての幸せは何かと考えた時、そこに自分の居場所は見当たりませんでした。

 彼女の幸せと自分の欲望は、どこまでも混じり合うことのないものだと分かりました。


 その気持ちをミケさんは理解してくれました。そしてそれこそが本当の愛ではないのかと言ってくれました。

 自分の幸せを捨象してでも相手の幸せを守りたい。それは立派な愛の形ではないかと自分のことを慰めてくれました。


 でもそれは愛することの中で最もつらいものではないかとも、ミケさんは言ってくれました。

 その中にわずか中学生の自分が入っていくことのつらさを、ミケさんは深く理解してくれました。その言葉に僕は少しばかり救われた気がしました。


 それからも僕は中元さんの家に通いました。でもそれは中元さんに会いに行くためではなく、ミケさんと話すためでした。

 いつしか僕とミケさんは、中元さんへの一方通行の想いをひそかに慰め合うようになっていました。


 僕たちは二人で病院に行ってみたことがありました。やはり、どうしても中元さんのことが気になってしまったからです。


 とは言っても、病院の中まで入った訳ではありませんでした。近くの公園の木陰から、二人並んで病院の建物を眺めていただけでした。

 その時、僕らは中元さんについていろんな話をしました。お互いに知らないことがまだまだあることを実感しました。


 ミケさんは家での中元さんについて色々なことを教えてくれました。

 複雑な家庭環境も含めて、日頃の中元さんの苦労を聞き、僕はどうしても気持ちが落ち込まない訳にはいきませんでした。

 同時に、時々中元さんが見せる楽しそうな様子を聞いて、嬉しくもなりました。


 しかし、中元さんが楽しそうにしているときにはいつも白川くんの存在があることを知り、複雑な気持ちにならざるを得ませんでした。

 やはり中元さんが幸せを感じるためには、白川くんの存在が不可欠なのだろうと思いました。

 そして、白川くんがいなくなってしまった後の中元さんの気持ちを考えない訳にはいかず、暗澹たる気持ちになったことを覚えています。


 僕からはミケさんに、学校での中元さんの様子を教えてあげました。とは言っても、僕から教えられることはあまり多くありませんでした。

 それでもミケさんは、学校での制服姿の中元さんに想いを馳せて、楽しそうな表情を浮かべていました。


 僕らは中元さんについての話をしながら、当てもなく病院を眺めていました。

 するとしばらくして、病院から中元さんが一人で出てくるのを見かけました。

 その時の中元さんは遠目から見ても、どこか疲れているように見えました。

 僕は彼女のことが心配でたまらなくなりました。それはミケさんも同じでした。

 そこで僕らは意を決して中元さんのそばに行き、話しかけることにしました。


 中元さんは、突然現れた僕らに最初はとても驚いていました。

 それでも僕らが彼女を心配して声をかけたことを知ると、それを打ち消すかのように満面の笑顔を見せてくれました。

 その笑顔は彼女にとって精一杯の作り笑いだったと思うのですが、やはりどこかぎこちないところがありました。

 それでも彼女の笑顔は、僕にとっては十分に素敵なものに見えました。

 そして中元さんは、僕らにその思いの丈の一端を垣間見せてくれました。


 僕が中元さんに疲れてないかを聞くと、彼女は「大丈夫だから」と言いました。

 でもそう言う彼女の様子は大丈夫そうには見えませんでした。

 彼女の目は明らかに疲れていました。その目から生気は失われ、以前に見せていた強い輝きはそこにはありませんでした。

 彼女の肩は落ち込み、その背は一気に老け込んだかのように曲がっていました。

 以前の彼女と違って、その時の中元さんは、僕には何だかやけに小さな存在に見えました。


 同時に僕は思いました。彼女の口にした「大丈夫だから」と言う言葉は、本当に大丈夫な人だったら絶対に口にしない言葉だと。

 もし本当に大丈夫だったら「なぜそんなことを私に聞くのだろう」と素直な疑問を持つのではないかと。

 しかし、彼女の様子にはそういった素振りを認めませんでした。


 僕は彼女のことが心配になりました。そしてそのことを僕は正直に言葉にすることにしました。

「本当に大丈夫? とても疲れているようで心配だよ。少し休んだ方がいいよ」

 でも彼女はただ「大丈夫だから」を繰り返しました。その言葉にはどこか苛立ちすら含まれているように思いました。


 彼女のことが心配でたまらなくなった僕は、今度は強い口調で迫りました。


「中元さんは絶対にしっかり休まないと駄目だ。そうしないと白川くんの前に中元さんの体が壊れてしまうかもしれない。もしそう言うことが起こったら、白川くんのためにも絶対にいけないことだと僕は思う」


 彼女は最初とても苛立たしい表情を浮かべました。

「自分のことなんか放っておいてくれ」とでも言うような表情でした。

 けれど、やがて彼女は涙で目を潤ませるようになりました。


 しばらく自分の中で考えを巡らせた後で、彼女は言いました。

「分かった。杉本くんの言う通り、家に帰って少し休むことにする」


 その時、僕は思いました。

 おそらく彼女も、無意識のうちに疲れて休みたがっていたのではないか。

 その無意識を自覚していたからこそ、彼女は僕の言葉を聞き入れてくれたのではないかと。


 そうして僕らは一緒に中元さんの家に向かいました。

 彼女の足取りは少しおぼつかないものに見えました。前に足を進めるたびに、彼女の体はふらふらと揺れているようでした。


 ある時ついに彼女は倒れそうになりました。

 僕はとっさに彼女の身体に手を差し出しました。そして倒れかかった彼女の身体を、僕は自分の手で直接支える形になりました。

 僕はその瞬間、ひどく緊張しました。全身に冷や汗が駆け巡っていくのを感じました。何しろ、彼女の胸にしっかりと手を触れてしまったのですから。


 でも、そうして僕がとっさに身体を支えたことに対して、彼女は何も言いませんでした。

 僕は、彼女がどう思っているのかを知りたいと思いました。いま起きたことだけでなく、日頃から彼女は僕のことをどう思っているのか。

 僕は、彼女の自分に対する感情を全く読み取ることができませんでした。


 それは僕をいつも不安にさせました。中元さんは一体、僕のことをどう思っているのだろう。

 僕は、そのことをとても知りたいと思いました。どうしても知りたくて仕方がなくなってしまいました。


 でも、僕はその気持ちをぐっと心の内に抑え込みました。

 今はそれを持ち出すべき時ではない。それはあまりにも今この場に相応しくない、不謹慎なものだと僕は思いました。


 家にたどり着くと、彼女は自分の布団に倒れるように眠り込んでしまいました。

 僕は彼女の寝顔をそっと覗き込んでみました。彼女はとても安らかな顔をしていました。

 そのことに僕はほっとしました。睡眠によって今までの彼女の心労が少しでも癒されたら。僕はそう思っていました。


 同時に、僕は思いました。

 彼女の寝顔に手を触れてみたい。そして彼女に少しでも温もりを分け与えてあげたい。

 自分なんかの温もりでは到底不十分かもしれないけれど、それでも少しでもいいから彼女の冷え切った心を温めてやりたい。


 でも僕は結局、彼女に触れませんでした。それは、自分勝手にやってはいけないことだと思いました。

 彼女はそもそも他者の温もりを必要としていないかもしれない。

 白川くんとの絆によって、彼女は十分に温もりを感じているのかもしれない。

 そこに自分という他者が土足で踏み込んではいけないのではないか。


 僕はとたんに、彼女のことがとても遠い存在に思えました。

 彼女は今こうして自分のそばに眠っていながら、その心はここからずっとはるか遠くにあるのではないか。

 そのことを思うと僕はとてつもない寂しさに襲われました。

 彼女と自分の線は、永遠に交わることがない。彼女はどんどんと先へ進み、自分は彼女の残骸のもとに取り残されていく。


 僕はその孤独にいたたまれなくなって外に出ました。

 外ではミケさんが僕のことを待っていてくれました。僕はミケさんの前で再び泣かない訳にはいきませんでした。



 その日の夕方、中元さんは目を覚ましました。


 僕はミケさんと一緒にずっと庭で過ごしていました。

 その時は、ミケさんと並んで庭の片隅にしゃがみ込んで、一緒に白い花を眺めていました。

 なぜなら、その上で季節はずれの蝶が花の蜜を吸っていたからです。


 僕は昔から生き物が好きでした。

 植物や昆虫などいろんな種類の図鑑をよく眺めていましたし、外に出かけて実際に生き物たちを探し回ることも子供の頃にはよくしていました。


 最近はなぜかあまりそういうことをしなくなっていました。

 でも花の上の蝶を眺めていると、子供の頃に抱いていた生き物への高揚感を久しぶりに思い出すことができました。


 それは僕にとってとても懐かしい感覚でした。

 まだ中学生の自分がこういうことを言うのもおかしいかもしれませんが、本当に懐かしい気持ちを感じたのです。

 それは何だかとても切ない気持ちでもありました。


 僕がしばらく蝶を眺めていると、ミケさんは後ろを振り返り、じっとそちらに視線を向けていました。

 最初はそのことに気が付かなかったのですが、ミケさんにつられて後ろを振り返ると、そこには寝起きの中元さんがいました。


 彼女の髪は寝癖でいろんな方向に跳ね上がり、いかにも眠たそうに目を細めていました。

 僕はその無防備な彼女を見て、むしろ胸が高鳴るのを感じました。

 出来るなら彼女のことを自分の手で守ってやりたい。彼女の姿は、僕をそういう気持ちにさせるものでした。


 僕は中元さんに「おはよう」と声をかけました。

 彼女は眠たそうに目を細めたまま、笑顔を返してくれました。

 そして「何をしているの」と彼女は僕に訊きました。

 僕は「猫と一緒に蝶を見ていたんだ」と答えました。「花の蜜を吸っている蝶の様子をじっと見ていると、何だか面白いんだよね」


 中元さんは「私も見たい。隣で一緒に見てもいい?」と言ってくれました。

 僕は「もちろん」と言い、体をずらして彼女のためにスペースを空けました。

 中元さんは僕のすぐ隣に来て、地面にしゃがみ込みました。そして新鮮な表情を浮かべて、蝶が花の蜜を吸う様子をじっと眺めていました。


 一方のミケさんは、そんな僕らの様子を離れたところから見守っていました。

 おそらくミケさんは、二人きりでいたい僕に気を遣ってくれたのだと思います。


 僕は何だかとても幸せな気持ちになっていました。この二人だけの時間が永遠に続けばいいのにと思っていました。

 でも、それが叶わないことだというのは分かっていました。

 だからこそ僕は、今この時間を大切にしたいと思いました。そしてこれから先の未来も、このささやかな幸せを胸に生きていければと思いました。


 その後、僕らは一緒にごはんを食べることになりました。お腹がすいた中元さんは、軽食を作りはじめたのですが、同時に僕の分まで作ってくれたのでした。

「二人分でも対して手間は変わらないから」

 それが彼女の説明でしたが、僕はもちろんとても嬉しい気持ちになりました。


 中元さんは手際よく料理を始めました。僕はその背中をぼんやりと眺めていました。僕は幸せな気持ちになっていました。

 でも、もし中元さんが自分の恋人や奥さんだったら、この幸せな気持ちを毎日のように感じることができるのに、と寂しい気持ちにもなりました。

 それが叶わないことだと分かっていたからこそ、僕はこのささやかな瞬間を大切にしたいと思いました。


 中元さんが作ってくれたのはオムレツでした。

 見た目がふわふわできれいにまとまっていただけでなく、一口食べただけでとても美味しいオムレツだと感じました。

 食事を済ませると、僕は家に帰ることにしました。

 いつまでも中元さんと二人きりで一緒にいるのはよくないと思ったからです。


 中元さんが今日はこのまま自宅に泊まっていくことを聞いて、彼女のことが心配だった僕は、一緒にこの家に泊まろうかとも迷いました。

 でも中元さんは、睡眠と食事で元気を取り戻したように見えたので、僕はやはり家に帰ることにしました。

 ミケさんは中元さんの家に残るのではなく、帰路につく僕の方について来てくれました。


 僕らは帰り道の途中でいろんな話をしました。と言っても、話題はいつも中元さんのことでした。

 僕は改めてミケさんに、中元さんへの想いを打ち明けました。


 自分はやはり彼女に恋をしているということ。

 叶わないと知りながらも一緒になりたいと望んでいること。

 彼女の心がとても遠くに感じてしまうこと。

 白川くんへの気持ちを知りながら彼女のことを好きでいるのはつらいこと。


 それでも僕は彼女への気持ちを心の中に留めておくことにしたということ。

 自分より相手の幸せを優先したいと思えたのは人生で初めてだということ。

 今は二人の幸せを心の底から祈っているのだということ。


 そんな僕の話を、ミケさんはいつまでも黙って聞いてくれました。

 そして僕の気持ちに共感してくれました。

 僕は話を聞いてくれたミケさんに感謝しました。おそらく自分ひとりでこの気持ちを抱え込んでおくのは、僕には耐えられなかったと思います。

 ミケさんはそれから朝が来るまでずっと僕のそばに寄り添ってくれていました。


           ※


 わたしは死にたいと思いました。

 悟くんが死んでから、わたしはそのことばかりを考えるようになりました。

 と言うのも、もしわたしが死んだら、悟くんとまた会えるかもしれないと思ったからです。


 悟くんは少しずつ、しかし確実に死へと向かっていきました。その進行を誰にも止めることはできませんでした。

 話すことも覚束なくなっていく悟くんを前に、わたしは追い詰められていきました。いよいよその時が近づいているとわたしは思いました。

 そして悟くんが死んだと知った時、わたしは自分も死にたいと思いました。



 悟くんは一時期はむしろ快方へと向かっていました。

 声や表情には少しずつ張りが戻り、手足の筋力も戻っていき、体調は以前よりもむしろ良くなっていくようでした。

 一時は退院できるかもしれないというところまで回復していました。


 その日、悟くんはわたしやご家族と一緒に退院の準備を進めていました。

 退院後にはあれをしたい、ここに行きたいという話で盛り上がっていました。

 しかし悟くんは突然、血を吐きました。初めは痰に少しだけ血が混じっている程度でしたが、次第に喀血は止まらなくなっていきました。


 わたしは全身から血の気が引いていくのを感じていました。

 すぐに担当の医師や看護師たちが駆けつけ、緊急処置の運びになりました。

 わたしたちは病室から追い出され、ただひたすら不安に苛まれて廊下で待機していました。


 悟くんは何とか一命を留めることになりました。

 しかしその日以来、悟くんの病状は一気に悪くなっていきました。

 全身の筋力が落ち込み、顔の表情は苦悶に満ちていました。うまく声を発することもできず、やがて呼吸もままならない状態になっていきました。

 その頃の悟くんはただ苦しむためだけに毎日を生きているようなものでした。


 わたしはあまりのつらさから、悟くんを次第に直視できなくなっていきました。

 そしてわたしは、悟くんの死に向き合うことが怖くなり、ある日ついに病院から逃げ出してしまいました。

 それはちょうど病院の外で、杉本くんと遭遇したあの日のことでした。


 杉本くんがいなくなってからのわたしは、家にずっと引きこもっていました。

 毎日ひたすら布団に閉じこもり、現実を直視することから逃げていました。

 食欲はなく、風呂にも入らず、わたしはくる日もくる日も何もせず、ただ一日を浪費して過ごしていました。

 わたしは次第に自分自身が荒廃していくのを、ただ黙って見送るだけでした。


 悟くんのお母さんから電話がかかってきたのは、そんな毎日を送っていたある日のことでした。わたしは電話で悟くんが死んだことを伝えられました。

 はじめは何も考えられませんでした。ただ来るべき日が来てしまったという事実をぼんやりと確かめるだけでした。


 しかし次第に狂おしいほどの後悔がわたしを襲いました。

 わたしはあれほど好きだった悟くんの死を看取らなかった。悟くんの死からわたしはあろうことか逃げ出してしまった。

 その後悔がわたしを苦しめるようになりました。


 わたしは眠れなくなってしまいました。そして悟くんの死から逃げた後悔に襲われるたびに、わたしはトイレに駆け込んで胃の内容を嘔吐しました。

 わたしは絶望しました。

 悟くんが死んだという厳粛な事実以上にわたしを苦しめたのが、現実を直視できなかった自分のあまりの弱さに対する絶望でした。


 わたしは絶望のあまり、自分の身を破滅させようとすら思いました。

 ある時わたしは自分の腕を切り落とそうと思い、包丁を手にしました。

 しかし、自分の命を自分の手で終わらせようとする身勝手さにかえって辟易し、わたしは苦しみを終わらせるために自分の命を絶つことすらできませんでした。


 それからのわたしはその代わりに、自分の心が死んでいくのをただぼんやりと眺めていました。

 その後、わたしは悟くんの葬式に出ました。悟くんは冷たくなっていました。

 悟くんの姿をわたしは直視することが出来ませんでした。


 葬式にはたくさんの人が来ていました。

 悟くんはその性格から友達のとても多い人でした。いろんな人たちから彼は慕われていました。

 悟くんの両親の関係者も含めると、葬儀場はたくさんの人たちで溢れかえっていました。

 でもわたしのことをよく知っている人は、そしてわたしと悟くんの関係を知っている人はほとんどいませんでした。

 わたしは奇妙な疎外感を抱いていました。わたしはここにいてはいけないとすら思いました。


 葬式に参列している間、わたしは人知れず、何度もめまいや吐き気に襲われました。

 悟くんの死でこれほどまでに傷ついているのは自分だけなのではないかという気がしました。

 参列している人たちの表情がどれも平然としているように見えました。そのことで怒りすら湧いてくるほどでした。

 もちろん実際は、皆さんとても悲しまれていたと思うのですが、当時のわたしはそのことに想像を巡らす余裕を持っていませんでした。


 わたしは棺桶の窓から冷たくなった悟くんの顔を覗き込んでみました。

 でもわたしは悟くんの姿を、現実感を持って直視することが出来ませんでした。

 どこか別の世界で起こっている出来事としか感じられませんでした。


 わたしはやがて、視界が大きく回転するのを感じました。強烈なめまいに襲われたのでした。

 わたしはまったく立っていられなくなり、その場に倒れ込んでしまいました。

 後から聞いたところでは、どうやら少量の嘔吐もしていたようでした。


 わたしはいつの間にか意識を失っていました。

 気づいた時には遺族用の控室で、わたしは布団を敷いた上に寝かせられていました。

 悟くんのご両親は忙しかったので、わたしの面倒は悟くんの叔父さんが見てくれていました。

「大丈夫?」と声をかけてもらいましたが、わたしは返事をする気力もなく、無愛想な態度しか取れませんでした。


 目を覚ましたわたしは、気がつくと頭痛に襲われていました。物事を考えるには支障が出るほどの痛みが頭の中で響いていました。

 わたしは思うように身体を動かすことが出来なくなっていました。というより、身体を動かすための気力を見失っていました。

 姿勢を正して座ることすら出来なくなっていたわたしは、火葬場に参列する気力もありませんでした。

 わたしは悟くんの叔父さんの車の中から、立ち上る煙を眺めているだけでした。 


 火葬が終わると、わたしは叔父さんの車で先に家まで帰ることになりました。

 無言で運転している叔父さんの車の後部座席で、わたしはずっと横になっていました。

 悲しみに暮れながら、何も考えることができず、わたしは車の気持ち悪い振動に身を任せているだけでした。

 吐き気とめまいだけは、いつまでもわたしの中でくすぶりつづけていました。


 家に帰ると母親の姿は見えませんでした。

 葬式に戻るために叔父さんはいなくなり、わたしは家の中にたった一人とり残されました。

 普段はあれほど狭苦しく感じていた自宅が、この時はやけに広く感じました。


 自分は本当にひとりぼっちになってしまったのだと、わたしはこの時にようやく実感が湧いてきました。

 わたしは悟くんが死んでから初めて、ようやく涙を流しました。

 わたしは声を出すことなく、日が暮れるまでずっと涙を流しつづけていました。

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