8, 最愛の人でした
依子さんが経験した塗炭の苦しみを、杉本君はまるで自分のことのように受け止めた。
それは時間を経るほどにいっそう彼の心に重くのしかかることになった。
それ以来ずっと彼の心から彼女の語ったその情景は離れなくなった。
そしてその情景が心によみがえるたびに、彼は苦しくなって涙を流した。
それは、あまりの苦しさに何も手がつかなくなるほどだった。
私が校舎の階段で出会った時、彼はその情景に苦しんでいたのだった。
私はそこで今まで感じたことのないような形容しがたい感情の奔流を自分のなかに見出した。それは憤怒とか後悔とか絶望とかの色々な感情が激しく入り乱れた、恐ろしく強大な何かだった。
私は自分の妻のことを思い出していた。
ある朝、変わり果てた彼女を見つけた時の情景を私は思い出していた。その時の言葉にならない絶望感を私は思い出していた。
その時と同じ出来事が依子さんの身にも起きようとしている。あるいは今まさに彼女はその瀬戸際に追い詰められているのかもしれない。
私は居ても立ってもいられなくなって依子さんのもとに駆け出していた。
彼女の身にもし何かがあったらどうすればいいのか。私はそのことばかり考えていた。
もし彼女が私の妻と同じようなことになっていたとしたら。私は、恐怖と絶望に打ちひしがれそうになりながらひたすら走りつづけていた。
妻はなぜ死ぬことを選んだのか。私は今もなおそのはっきりとした理由が分からずにいた。
なぜ彼女は死んでしまったのか。なぜ私は彼女の支えになることが出来なかったのか。なぜ私は彼女の絶望に気づいてそこから救い出せなかったのか。
それは私が今まで、何度も繰り返し自分自身に問いかけてきたことだった。
そして今まで一度もはっきりとした答えを見出せずにいることだった。
私は、妻が残した日記のもう一冊を思い出していた。
それは彼女が、私と出会った頃から書きためていた、彼女にとって数少ない後に残された心の断片のひとつだった。
死にたいと私は思った。
どうしてかは分からない。ただ何となくそう思う。
消えたいという方が正しいのかもしれない。
実際に死のうと考えているわけではない。ただ生きることが無性につらくなってしまうのだ。
このぼんやりとした絶望感を彼は分かってくれるだろうか。
はじめは分かり合えると思っていた。だから彼と一緒になった。
でも、最近になってふと思う。私たちは本当に分かり合えているのだろうか。
私が感じていたはずの固い絆は、ただの幻想だったのだろうか。
私は彼の考えていることが次第に分からなくなってきた。同時に、孤独がひしひしと押し寄せるようになってきた。
私はひとりだ。最近になってよく思う。たまらなく心細い気持ちになる。
その不安定な気持ちを彼の存在では癒せなくなってきた自分がいる。
私はどうすればいいのだろう。死にたいという気持ちとどう向き合えばいいのだろう。
今夜の彼は夜勤で家に帰ってこない。夜を私はひとりで乗り越えなければならない。
無事にひとりで明日を迎えられる自信がない。というより、明日の朝を迎えることがとても怖い。
生きていることそのものが私にとってはなぜかとても怖いのだ。そして、その理由を説明できないことがいっそうのこと怖いのだ。
私はどうすればいいのだろう。
今にも消えてしまいそうな私を、一体どうすればいいのだろう。
お願い、誰か私を助けて。この孤独から私を救い出してほしい。
あるいは彼の気持ちを教えてほしい。
彼と一緒にいるだけで孤独が不思議と癒やされていたあの頃に戻りたい。
彼と心から通じ合っていると思えていたあの頃に私は戻りたい。
どうしてこうなってしまったのか。
彼と一緒になったはずなのにどうして孤独は癒やされないのか。どうして彼と一緒にいることでむしろ孤独は深まっていくのか。
この悲しみはもはや救いようのないものなのか。この絶望をこれからずっと私は抱えていかなければいけないのだろうか。
私はどうすればいいのだろうか。
死にたい気持ちとどのように付き合っていけばいいのだろうか。この苦しみからは永遠に抜け出すことができないのだろうか。
お願い、誰か私を助けて。お願い、あなた私を助けて。私はあなたしか頼れる人がいないのだから。
そうやって口に出せたらいいのに。そうやって言葉にできたらいいのに。
私はなんだかよりいっそう悲しくなった。
私は悲しかった。特に理由はなかった。
何も理由はないけれど、何もかもが悲しかった。
朝起きる。一日が始まる。
それだけで私は悲しくなってしまう。世界のあらゆるものごとに私は絶望してしまうのだ。
世界とはなぜこういうものなのだろうか。私とはなぜこのような存在なのだろうか。
世界のすべてが私には色のない張りぼてに見える。何もかもが生気を失って感じられる。
自分自身でさえも私は現実のものとしてうまく捉えられなくなる。
私はどうして生きていなくてはならないのだろうか。どうしてただ苦しい思いをするためだけに毎日を生きなくてはならないのだろうか。
つらい。悲しい。すべてが虚しい。
私は今日も生きていることが嫌になる。毎日が嫌で嫌で仕方がないのだ。
私は消えてしまいたくなる。理由なんか分からない。そもそも理由があるのかどうかもよく分からない。
それなのに私はなぜか、ただただ生きていることが嫌になるのだ。
私はどうすればいいのだろう。
どうすればこの無間地獄のような毎日から抜け出せるのだろう。
そもそも抜け出せる日など来るのだろうか。
未来に希望など持ちようがない。これ以上、何に期待すれば良いのだろうか。
幸せになりたくて、私は人生を頑張ってきた。
そして思いつく限りのことを、その中で私のできる限りのことを、私は一所懸命に頑張ってきた。
そして手に入れてきたつもりだった。
私には愛すべき家族がいる。生活に困らないお金もある。友だちも多くはないけれど大切な人たちがいる。仕事だってやりたいことをやりがいを持ってやってきた。
それなのにこれ以上、何を求めれば良いというのだろうか。
そして私はどうしてこんなにも虚しいのだろうか。どうしてこんなにも悲しくて仕方がないのだろうか。
私は消えてしまいたいと思う。死んでしまいたいと思う。
だからと言って実際に死ぬ準備をしているという訳ではない。むしろ死ぬことすら億劫なのだ。
死ぬことすらも虚しく思えてしまうのだ。
私はどうすれば良いのだろうか。
その答えが見つかる日は来るのだろうか。そもそもその答えすら、私は本当に求めているのだろうか。
私は、悲しくて仕方がない。虚しくて苦しくて仕方がない。
ねえ、あなた。あなたはその答えを知っているのだろうか。それすらも私にはどうでも良いことに思えた。
何もしたくなかった。
やる気が起きないのとは違う。何もかもが嫌になるのだ。何もかもが虚しく、そして何もかもが歪に見えてしまう。
何をしたところで意味がないのだと思えてしまう。私は何に対しても拒否してしまう。世の中の全てに対して吐き気を催してしまうのだ。
私は、基本的な欲求まで見失ってしまったように思える。食欲、性欲、睡眠欲、どれをとってもはっきりしない。
欲求がないわけではないのだけど、それを満たそうとするための意欲が私の中に見つからないのだ。
私はこれで生きていると言えるのだろうか。私は本当に生きた人間なのだろうか。それすら疑わしく思えてくる。
私はまるで干涸びた化石のような毎日を生きている。自分が生きているという確かな実感を持てないでいる。
なんと空虚なのだろうか。
私の中心にあるのは虚無だ。
私は何もない空間にただ浮いているだけの存在だ。意思のないはずの植物の方が私よりもはるかにまともに生きている。
私は何をしているのだろうか。虚しい。ただただ虚しくて仕方がない。
何もしたくない。そもそも何をする権利も私にはないのだと思えてくる。
私はそもそもこの世界に生きていて良いのだろうか。
何を生み出すこともせず、ただ漫然と何かを消費するだけの生き方に果たして意味などあるのだろうか。
私はむしろ罪悪な存在ではないのだろうか。
生きていてはいけない存在なのではないだろうか。
ただ生きているだけで世界に迷惑をかけるような存在ではないだろうか。
ああ、生きていることそのものが苦しい。私は消えてしまいたい。
このまま露のように跡形もなく消えてしまえたら、どれほど私は救われるだろうか。どれほど世界は浄化されるだろうか。
私はどうして今も生きているのだろう。どうして苦しいと訴えながらのうのうと息をしているのだろう。
私なんてさっさと死んでしまったらいいのに。
私がこの世界に存在している意味などない。むしろ世界にとって私は害悪でしかない。
死にたい。今まで何度も繰り返しそう思ってきたのに私は今もまだ生きている。
死ぬための勇気すら私にはないのだ。
情けない。前に進むための力もないのに、後ろに退くこともしない。なんて私は情けないのだろう。
いっそのこと、誰か私をひと思いに殺してはくれないか。どうやら自分の力では死ぬことができないようだから、代わりに誰かが私を終わりにしてくれないだろうか。
死にたい。私は消えてしまいたい。私はこの世界から退場することでしか救われない。
いやそうじゃないと誰かが言うかもしれない。だとしたら私はどうしたら良いのだろうか。
その答えを、その誰かはきっと教えてくれないのだろう。ただ、死ぬことはいけないことだと言うだけで、その先のことは誰も知らないのではないだろうか。
私は、どうやってこの世界を生きていけばいいのだろうか。私は、どうすればいいのだろうか。その答えはいつか見つかる日が来るのだろうか。
その希望を少なくとも私は持つことができない。
消えてしまいたい。今はそれだけを切に願っている。
ねえ、あなた。あなたは私にどう言うのだろうか。
きっとあなたは何も言えずただ困った顔を見せるのでしょうね。
あなたはいつもそうだったわね。
優しそうな顔をして、結局のところ私に何もしてくれなかった。私のことを何も助けてくれなかった。
いや、違う。あなたはきっと私のことを助けようとしてくれていた。
私がそれに気がつかなかっただけなのでしょうね。
そしてあなたも私にきっと愛想を尽かしているのでしょうね。ただ優しいから今でも一緒にいてくれているだけで。
やはり私は、この世界から消えてしまった方がいいのだ。
それですべては丸く収まる。すべては解決するのだ、きっと。
お願い、誰か私をきれいに消してしまってはくれないだろうか。私がこのまま眠りについて、そのまま目を覚まさなければいいのに。
私はひとり虚しくそう考えた。
私は奇妙な夢を見た。
私は、何もない真っ白な砂浜に立っていた。目の前に広がる海は底の見えない深い紺碧だった。
空は一面に灰色の雲で覆われていた。
私はノースリーブの紺色のワンピースを着て、足元は何もない裸足だった。
私は強風に吹かれてただひたすら巨大な海を眺めていた。
自分がなぜそこにいたのかは分からなかった。そして何故だか頬に涙が流れていた。
私は涙を拭うこともせず、ただ全てをなすがままにしていた。
私は死のうと思っていた。なぜかは分からない。
それでも死ぬことは私にとって既定路線だった。私の前には死ぬという選択肢のみが残されていた。
そしてそのことを私はあくまで自然のこととして受け入れていた。
私の気分は穏やかだった。死を目の前にして、私は一切の恐怖も動揺も感じていなかった。
むしろ、私はようやくこの人生を終わらせることができると安心していた。
私はひたすら紺碧の海を眺めていた。人生の終わりに臨んで私は凪のような静謐な心を抱いていた。
自分の周囲には何もない。ただひたすら巨大な海と白い砂浜が広がっている。私の他に生命は一つとして見受けられない。
私は目を閉じて、唸るような風の音を聞く。風の音と遠くに見える巨大な波が、かろうじて生命の躍動のようなものを伝えている。
世界は今まさに回転している。私だけが無為のまま世界に佇んでいる。
私とは何だ。自分の存在がしだいに小さく遠のいていくのが感じられる。
私はそのまま微小の点となる。自分のことが巨大な海に浮かぶたったひとつの泡沫のように感じられる。
いや、感じるも何も私は元々そういう儚い存在ではなかったのか。私は巨大な虚無のほんの僅かな一片だ。私は虚無から溢れ落ちた何かなのだ。
だとすれば私は本当に存在していたのだろうか。私は本当にこの世界の一部として存在していたのだろうか。
それさえ、私には不確かなことに思えてくる。私は自分の体が透明になっていくように感じられる。
私とは何だ? そうだ。おそらく私は死ぬことでようやく世界の一部に還ることができるのだ。
だから私は死にゆくのだ。私は自分を取り戻すためにこれから自分を抹殺するのだ。
私はようやく一歩を踏み出す。冷たいものが私の足にまとわりつく。
私は少しずつ海の中に自らの身体を沈めていく。
まずは両膝が水面に沈む。そして腰まわりに抵抗を感じるようになる。やがて胸のふくらみが海の中に隠れ、身体の全体が暗い海に沈んでいく。
私は消える。消えて世界の一部になる。
何と素晴らしいことだろう。どうして、もっと早くこうしなかったのだろう。
私はとても幸せだ。自分がなくなるということが、これほど幸せなことだとは今まで思いもしなかった。
そのことにもっと早く気がついていれば、私はとっくに幸せになっていただろうに。
私の顔にはいつの間にか笑顔がこぼれる。私は笑って死んでいく。何と幸せなことだろうか。
私にとって死とは希望だったのだ。
息が苦しくなっていく。私の意識は遠のいていく。自分と世界の境界がしだいに見定められなくなる。
私は世界に溶け出していく。
私は消える。同時に私の虚無も消えていく。私は、穏やかな凪のようにこの人生から退場する。
ああ、私は幸せだ。あまりの幸せに気がつくと私はひとすじの涙を流していた。
美しい涙だ。今まで流してきた涙とは違う、美しい喜びの涙なのだ。
視界が暗くなっていく。いよいよ私の人生は終わる。
ありがとう。今まで私を苦しめてきた全てのものにありがとうと私はつぶやく。
おかげで人生をこんなにも幸せに終えられるなんて。
この瞬間の幸せのために今までの苦しみはあったのだろう。
私は納得した。これが私にとっての答えだったのだ。死こそが私にとっての救済だったのだ。
そこで私は目を覚ました。夢から醒めたとき、静寂な朝の世界はとても美しく輝いて見えた。
私は死ぬことを決意した。今しかないと私は思った。今抱いている幸せを胸に私は死にたい。
今日の夜は夫とともに穏やかに過ごそう。そして私はひとり静かに死んでいくのだ。
そこに明確な理由などない。ただそれが私にとっての幸せだからこそ私は死ぬのだ。
おつかれさまでした。今までよく苦しみの中を生きてきました。
もう頑張らなくていいのよ、私。
自分が黙って死んでいくその訳を、夫も含めてきっと誰も理解できないだろうと思う。
それでいいのだ。私にとっての最後の自由はどこまでも私だけのものだ。私は自分を捨てて幸せになるのだ。
そうして私は死ぬことにした。
今まで私と一緒にいてくれてありがとう。
これをあなたが読んでいる時、私はもうこの世にはいないのだろうと思います。
私は自分の意思で死ぬことにしました。
理由はありません。ありませんと言われると、あなたは困るかもしれないけれど、上手く説明できる理由が本当にないのです。
ただ、どうしようもなく死にたいと思いました。その道しか私には残されていなかったのです。
それでも私は不幸に死んでいくのではありません。私にとって死は救済なのです。
私は幸福な気持ちで穏やかに死んでいきます。だから、あなたには安心して欲しいと思っています。
私にとっては生きることそのものが苦痛でした。
理由は分かりません。それでもただ生きているだけで私はとても苦しかった。
何でもないはずのただの一挙手一投足が、あるいは単なる一呼吸さえもが私にとっては何故か得体の知れない苦痛でした。
苦痛の理由が分からないということは、どうすればいいのかも分からないということです。
きっとあなたに相談したとしても困らせるだけだったと思います。
だから私はあなたに何も言いませんでした。自分の苦しみを告白することで、あなたと二人だけの穏やかな時間が壊れてしまうかも知れないと思ったからです。
私はあなたと過ごす何気ない時間がとても大好きでした。私にとって何よりも幸せな時間でした。
あなたと二人でいる時は、自分の中の得体の知れない苦しみを忘れることができました。
ところが、最近はそうもいかなくなっていました。
この得体の知れない苦しみが、あなたと二人で過ごす時間にも、侵食してくるようになっていました。
それは、私にとってとても「きつい」ことでした。
私の日常にとって唯一のオアシスであったはずの、あなたとの時間でさえ苦しまなければならなくなったことは、自分にとって想像以上の絶望だったように思います。
自分がもはやこの苦しみから逃れられないことを私は悟ってしまいました。
それは私にとって生へのエネルギーのようなものを奪い取ってしまうものでした。
私は生きる気力を無くしてしまいました。苦痛に抗うための気力を私は失ってしまったのです。
同時に私は気づきました。
人にとっての死というものはとても穏やかなものではないのかと。私にとって死は幸福への唯一の道なのではないかと。
そうして私は死ぬことにしました。
死ぬことを決めてから私は不思議と穏やかな気持ちになりました。
生まれてはじめて、ひとりきりの時にも得体の知れない苦しみを感じることなく過ごすことができました。
私は、幸せな気持ちで死んでいきます。
だからあなたには、私の死を決して悲しまないで欲しいと願っています。
むしろあなたには、私がいなくなることの自由を謳歌してもらいたいと思っているのです。
これからのあなたは自由です。
苦しみを見せてばかりいる私という呪縛から解放されて、あなたは自由気ままに生きていってください。
これ以上、私という存在にあなたが煩わされる必要はないのです。
私はあなたのことを愛しています。
だからこそ私はあなたにも幸せになってほしい。私という鎖から自由になってあなたには幸せになってほしいと思っています。
自分の死は私にとっても、あなたや皆にとっても幸せなことだと気づいて、私は死ぬことを決意しました。
私は幸せな気持ちで死んでいきます。
だからあなたもきっと幸せになってください。これからはどうか私のいない幸せな人生を送ってください。
それが私にとって人生最期の願いです。
あなたは最期まで私の最愛の人でした。今まで本当にありがとう。そしてお疲れさまでした。
私は依子さんの家まで走っていた。その間ずっと妻の残像が私の頭を支配していた。
妻の最期の姿を私は思い出していた。いや、どうしても思い出さざるを得なかった。
依子さんがもしも妻のように変わり果てていたとしたらどうしよう。
私はずっとそのことばかりを心配していた。
依子さんが経験した苦しみは言うまでもなくあまりにも大きなものだった。想像するだけで自分の胸が押し潰されそうになった。
依子さんは果たして大丈夫なのだろうか。もちろん大丈夫な訳はないのだ。それでもどうか彼女の命だけは無事であってほしい。
私はひたすらそう願っていた。
同時に私はある種の義務感を抱いていた。
私は依子さんを助けなければならない。
妻を助けられなかった私だからこそ、今まさに死の瀬戸際まで追い詰められ、苦しんでいるはずの依子さんのことは助けなければならない。
私はあれからずっと考えてきた。妻の苦しみに気づくためにはどうすればよかったのか。そこから妻を救い出すためにはどうすればよかったのか。
それらを気が狂いそうになるくらい、私はいつまでも考え続けていたのだった。
人生を終えるまさにその瞬間まで、私は妻のことばかりを考え続けていた。どうすればよかったのかということばかりを私は考えつづけていた。
だからこそ私は、妻と同じような境遇に陥っているはずの依子さんのことは助け出さなければならない。
自分ごときに何ができるのかは分からない。それでも何かをしない訳にはいかない。自分は依子さんには何があっても生きていてほしいのだ。
そう思って私はひたすら走りつづけた。そうして依子さんの家にたどり着いたのだった。
しかし私がたどり着いた時、家に依子さんはいなかった。依子さんは姿を消してしまっていたのだった。
初めはただの外出なのだと思っていた。しかし夜になっても翌朝になっても、何日経っても依子さんは帰ってこなかった。
私はしだいに嫌な予感に取り憑かれるようになっていった。
もしかすると依子さんはもうこの世にはいないのではないだろうか。依子さんはすでに自らの命を絶ってしまったのではないだろうか。
私は、最悪の事態ばかりを想像してしまうことになった。
そのせいで私は気持ちがまったく落ち着かなくなっていった。しだいに冷静さを失っていく自分に気がついていた。
もしも依子さんが死んでしまっていたとしたら。私は同じ過ちを二度も繰り返してしまったことになるのではないか。
だとすれば今度は私が死ぬべき順番ではないのかとすら思い詰めていた。
私は依子さんを失ってしまったという可能性に大きな恐怖を抱いていた。
やがて私の精神は妻が死んだ後と同じように荒廃していくことになった。
依子さんはもうこの世にはいないのだという思いは、しだいに確信に変わっていった。
そして、彼女を救うことができなかったという自責感が、私を強く追い詰めるようになっていた。
私は大切な人を二度も失ってしまうことになった。
私はあんなにも執拗にどうすれば妻を救い出せたのか考えてきたにもかかわらず、目の前で苦しんでいたはずの依子さんを助けることができなかった。
私はそういった歪んだ思考に支配されるようになっていった。
そもそも私は、依子さんが壮絶な経験をして以来、彼女の顔を見てすらいなかった。
その私が彼女の絶望に気づき、その絶望から彼女を救い出すことなど、不可能な話のはずだった。
しかし、激しい苦痛や絶望に駆られて正常な思考力を失っていた私には、その矛盾に気づく精神の余裕すら失ってしまっていたのだった。
私は、依子さんの家の前から何日も動けなくなっていた。
大きな喪失感に精神を蝕まれたまま、ただそこに呆然と存在していた。
食事もろくに摂っていなかった。私の身体はしだいに衰弱していった。
私は自らの命の灯火がしだいに薄れていくのを感じていた。
それでも私は、何もする気にはなれなかった。
むしろ、自分が死んでいくことを本望だとすら思い始めていた。
私には生きている資格などないのだ。彼女たちが逝ってしまった世界に、私も消えていくべきなのだ。
彼女たちの苦悩に気づかなかった愚かな私も、彼女たちを追って死ぬべきなのだ。
私はそのような歪んだ思考に囚われるようになっていた。
そんな私を絶望から無理やり引っ張り出してくれた者がいた。
それは白猫のミケだった。その隣には何故か杉本和彦君もいた。
ミケは私に向かって冷たい口調で言い放った。
「情けない、本当に情けないわね」
そしてミケは私に教えてくれたのだった。
「大丈夫、あなたが余計な心配をしなくても、依子ちゃんは今も元気に生きているわよ」
隣では杉本君が何故かそれに同調するように頷いていた。そして杉本君は私に言った。
「その節は話を聞いてくれてありがとうございました。あなたのおかげで心が軽くなった気がしました。
だから今度は僕があなたの心を軽くする番だと思っています。
今まで、依子さんがどこでどのように過ごしていたのか、こちらのミケさんからの話も含めてあなたにお伝えしようと思って、今日は会いに来ました」
私は、彼がさも当たり前のように私に話しかけてきたことに唖然としていた。
これはいったいどういうことなのだろうか。
私の疑問に答えるようにミケが言った。
「和彦君は幼い頃から私たち猫と会話することができたそうなのよ。彼があなたに自分の苦しみを打ち明けようと思ったのも、あなたが人間の言葉を理解できると知っていたから」
私はしばらく呆気に取られていた。そしてしだいに嬉しさが湧き上がってくるのを感じた。
依子さんは生きているのだ。彼女が死んでしまったと思い込んでいたのは、自分の勘違いだったのだ。
同時に、私は一部の人間とならコミュニケーションを取ることができることを知って嬉しかった。
その事実を知った時、私は猫になってから今まで抱えつづけていたある種の孤独が、一気に癒やされたことに気づいた。
あるいは今まで、自分がそういった孤独を抱えていたことにようやく気がついた。
私はまた、人間とコミュニケーションを取ることができるのだ。そのことが私には何にも増して嬉しかった。
私はさっそく、今までの依子さんの日々を杉本君から教えてもらうことにした。
「その前にひとまず食事を摂りなさい」とミケには叱られた。






