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7, 暴力への慟哭

 私は孤独だった。何故だか私はひどく孤独を感じていた。

 早朝から中学生たちの姿を見ていると、私は言いようのない寂寥感に襲われた。


 かつて人間だった時も、猫に生まれ変わってからも、私は誰とも心を通わせることがなかった。

 本当の意味で誰かと理解し合えたことなど一度もなかった。私はひとりだ。

 早朝のグラウンドに吹く冷たい風に打たれながら、私は強くそう思った。


 突如襲われた孤独に耐えられなくなった私は、校庭を離れて校舎内の寝床に戻った。

 そして孤独と寒さから来る身体の震えに打ちひしがれながら、私は時の経過によって平常心が戻るのをひたすら待った。


 季節は冬の到来を間近に控えていた。

 文化祭が終わった頃あたりから、空気が一気に冷え込むのを私は感じた。

 私は冬が好きではない。毎年、冬になると私の孤独と憂鬱はより一層深まるからだ。

 こうして一匹の猫に生まれ変わっても、私は自らの孤独と憂鬱から解放されることはない。

 その事実が私をさらに落胆させるのだった。


 私の暗い心はどこまでも私にまとわりついてくる。

 それは人間としての死さえも超越して私をどこまでも追い立てる。

 私はどうしたら自分の心から自由になれるのか。

 その答えはもちろん考えてみたところで得られるものではなかった。


 空は早朝の静かな薄明から、人々が活動する明るい朝へとしだいに変化した。

 学校では朝のチャイムが鳴り、校舎内は生徒たちの忙しない騒音で徐々に満たされていった。

 私は癒されない孤独を抱えながら、時が経過するのを沈黙の中で必死に耐えていた。

 私にはただ耐える以外に、この孤独をやり過ごす方法はなかった。孤独が引き起こす心の痛みに身が悶えるのを、私はひたすら我慢することしかできなかった。


 午前中の授業が始まると、私はふたたび寝床から出て校舎内を歩き始めた。

 孤独は癒えていなかったけれど、一つの場所に留まっていると余計に孤独のつらさに落ちて行くような気がしたからだった。

 依子さんがいる二年生のクラスは三階にあったので、私はそこまで階段を上っていくことにした。

 私は依子さんに一目会いたくなった。彼女の孤高な佇まいと共鳴することで私は少しでも癒されたかったのだと思う。


 しかし、私は彼女の元にたどり着く前に立ち止まることになった。

 二階から三階に上がる階段の途中で、私はひとりの男子生徒と遭遇したからだった。

 彼はたった一人で授業を抜け出し、階段の端にうずくまっていた。あるいは、朝の授業が始まる前からじっとそこに座っていたのかもしれない。

 そして私は彼からただならぬ気配を感じたのだった。それは良くない気配だった。何かに追い詰められた人間が出す、濃い暗闇のような気配だった。


 私は彼のとなりにそっと座り込んでみた。彼はしばらく私の存在に気が付かなかった。

 私は小さな声で「にゃー」と鳴き声を出してみた。その声で彼は私の方に少しだけ顔を上げた。

 そこで私は戸惑ってしまった。彼の顔は大粒の涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。

 彼はずっと声を殺してひそかに泣いていたのだった。


 顔を上げた彼は何度かすすり泣いた後で私に「おはよう」と言った。返事の代わりに私はもう一度「にゃー」と鳴き声を上げた。

 彼はそこで初めてささやかな笑顔を見せてくれた。

 それから私は、しばらく彼に寄り添うことにした。彼は、私にこっそりと涙の理由を打ち明けてくれた。



 彼は、依子さんと同じクラスの中学二年生の生徒だった。名前を杉本和彦という。

 彼は中学校に入学した当初から周囲と打ち解けにくいところがあった。

 彼にとっての時間の流れは遅く、何をするにも周囲とずれが生じてしまい、結果として集団から孤立してしまう。彼はそのことでずっと苦労してきたのだった。


 彼には友達がいなかった。もともと一人で過ごすのが好きだという理由もあるが、彼には他人との付き合い方がよく分からなかった。

 周囲が次々と友達を作っていく中で、彼はどうすればいいのか分からず、気づいた時にはクラスのグループはすでに出来上がってしまっていた。

 彼は最初の一年間をひとりきりで過ごさざるを得なくなった。彼は長いあいだ孤独な日々を送っていたのだ。


 二年生に上がってクラス替えが行われると、彼は友達づくりに奮起することにした。積極的に周囲に話しかけて、友達の輪の中に入ろうとした。

 しかしそれは上手くいかなかった。

 彼はいわゆる空気を読むことが苦手で、他人との距離の詰めかたを間違ってしまい、結果として新しいクラスメイトから煙たがられることになった。


 彼は友達づくりに失敗し、二年生になっても孤独な日々を送らざるを得なくなった。

 しかも事態はそれだけにとどまらなかった。いつしか彼に対するいじめが始まったのだった。

 初めは無視されたり集団から外されたりといったものだった。

 それらが少しずつ彼の精神を追い詰めていったところで、いじめは次第に様相を変えていくことになった。

 二学期が始まったあたりから、彼に対する直接的な暴力が始まったのだった。


 しかし、彼が流した涙の理由はいじめそのものではなかった。いじめに伴ったある出来事による罪悪感が彼を苦しめていたのだった。


 彼はその日も学校のトイレでいじめられていた。

 数人の男子生徒に無理矢理トイレに連れて行かれて、そこで暴力を受けていた。

 わき腹を蹴られたり、顔を水の中に沈ませられたり、排泄物を食べさせられたりした。

 それはいじめという言葉では十分に語ることのできない、まさに暴力と言うべきものだった。

 暴力を振るった男子生徒たちはその最中ずっと彼のことを笑っていた。

 その屈辱がさらに彼を傷つけることになった。


 男子生徒たちが去った後、彼はトイレの個室にこもってずっと泣いていた。

 暴力を受けているときは意地で我慢していたけれど、暴力が終わるとどうしても我慢ができなくなり、他人に見られないように隠れて泣いていたのだった。

 そこに誰かがノックをする音がした。

 彼は最初その音を無視していた。返事をすると声が涙声になってしまうからだ。

 しかしノックは間を空けて五回ほど続いた。そして五回目になるとノックの主は彼にいよいよ声をかけた。


 彼はその声に驚いてしまった。

「大丈夫ですか」と声をかけたのは女子生徒だった。

 彼がいたのは男子トイレにもかかわらず。その女子生徒の声はつづけて言った。


「私はさっきの一部始終をこっそりと見ていました。

 とても酷いいじめでした。到底許されないと思うものでした。大きな怒りが湧いてくるのを感じました。


 でもそれ以上に私は臆病でした。陰から見ているだけで何もできませんでした。あなたのことを助けることができませんでした。


 仕方なく私は一連のいじめが終わった後であなたに話しかけています。卑怯者ですみません。

 それでもあなたに声を掛けない訳にはいかなかった。あなたのことがどうしても心配だったからです。


 大丈夫ですか、杉本和彦くん。いや、大丈夫な訳ないですよね。すみません。


 でもこれだけは言わせてください。

 今回は私の臆病のせいで何もできなかったけれど、それでも私はあなたの味方でいるつもりです。


 次こそはあなたのことを助けます。こんな私に何ができるのか分かりませんが、それでも必ずあなたのことを助けます。


 だからどうか一人きりで絶望しないでください。私という味方がいることを信じてください。

 私はあなたのクラスメイトです。

 名前は中元依子と言います」


 そう言うと、彼女は足早にその場を去っていった。

 彼は個室トイレの中で固まったまま、ただ呆然としていた。彼女はいったい何なのだろうと、その後で彼は考えていた。

 彼は依子さんのことをよく知らなかった。同じクラスメイトということもあり、存在自体は認識していたが、それ以上の関わりは何もなかった。


 なのに彼女はどうして自分にわざわざ声を掛けたのだろう。こんな自分にどうして手を差し伸べようとしたのだろう。それが彼には理解できなかった。

 彼女は一体何を考えているのだろうか。彼女の意図は一体何なのだろうか。


 そう考えると彼は疑心暗鬼にすらなった。

 彼女の行動には何か裏があるのかも知れない。本当の彼女は、味方に見せかけた敵なのかもしれない。

 彼はそのようにすら考えていた。


 そう考えてしまうほどに、彼は他人のことが信用できなくなっていた。自分のことが信用できないのと同じくらいに、他人のことが信用できなくなっていた。

 いじめによる心の傷が彼をそうさせてしまっていた。



 翌日の昼休み、彼は男子生徒たちに体育館の倉庫まで連れて行かれた。

 それは無理矢理のことだったけれど、彼らに逆らう気力も彼には残っていなかった。ただなされるがままに引っ張られて行くだけだった。

 彼は体育館の倉庫の床に座らされると、そこに置かれていたボールを次々とぶつけられた。彼は頭を抱えてうずくまり必死にそれに耐えていた。

 そしてボールが一通りなくなると、今度はわき腹やみぞおちを一斉に蹴られることになった。


 その間、彼らはずっと笑っていた。彼が怯えながら傷ついていくのを彼らはただ楽しんでいた。

 彼は痛みに耐えながら、もはや涙も出なくなっていることに気づいていた。


 これが自分の日常なのだ。これに自分は耐えていかなければいけないのだ。

 大丈夫、心を空っぽにして無感覚になればきっと大丈夫なはずだ。

 自分は今までずっと孤独のつらさに耐えてきたのだ。それに比べると一時の肉体的な痛みくらい何ともないはずなのだ。


 彼は必死にそう自分に言い聞かせていた。そして地獄のような時間が嵐のように去って行くのをただ耐え忍んでいた。


 彼はもはや諦めていた。

 自分はこのつらい運命を引き受けていかなければならない。この運命に逆らうことなどできようもない。自分はこの場所から逃れることなどできないのだ。


 彼は未来への希望が持てない状態にあった。その諦めが彼の身体をいっそう今の苦しみに縛りつけていた。

 彼は、自分でこの状況を変えようともがくことすら、放棄してしまっていた。彼は心を無にして、ただ現状を甘受しているだけだった。


 そんな彼の耳に、突如として小さな声が届いた。それはあまりにもささやかな声だったので、彼は最初それをただの空耳だと思ったくらいだった。

 その小さな声は彼にささやいた。

「情けない」

 彼はその声の聞こえた方に顔を向けた。

 そこには、体育館の窓から差す日光に縁取られた小さな黒い人影があった。


 その人影はふたたび彼に向かって声をかけた。

 その声は冷たく彼に言い放った。

「何もせずに諦めるのね」

 その冷たい言葉には、しかし彼のことを気遣うような温もりを感じ取ることができた。

 彼は、涙が出そうになった。生まれて初めて何かに救われたような気がした。

 今まで苦難の連続でしかなかった自分の人生に、ひとすじの光が差したような気がした。


 彼は視界がにじんで行くのを感じた。

 しかし彼は必死にその涙をこらえた。今はまだ泣く時ではない。今のこの状況を乗り越えることができて初めて、自分には泣く権利があるのだと思った。

 彼は涙を拭って自分の意識を切り替えた。その声のおかげで彼は意識を変革することができたのだった。


 彼は意を決して立ち上がった。彼の表情にはひとつの強い意志が宿っていた。

 彼を取り囲む男子生徒たちは、彼の突然の変化に怯んだ。その瞬間を逃さないように、彼は倉庫の入り口に近い男子生徒に思いきり突進した。


 その男子生徒を突き飛ばしたところで、彼は入り口に立てかけてあったほうきをつかみ、そのほうきで倒れ込んだ男子生徒の頭を思いきり叩きつけた。

 その時の彼は一種のトランス状態にあった。

 彼は続けて残り二人の男子生徒も本気の力で容赦なく殴りかかった。彼らの中の一人は目の下の皮膚を切って流血した程だった。


 彼は倒れた三人の男子生徒に向かって、冷ややかな口調で捨て台詞を吐いた。

「今度自分に手を出したら、その時は本気でお前たちを殺す」

 それは頭に血の上った彼が、思わず口にした紛れもない本心だった。

 そしてそれがただの強弁でないことは彼らにも十分に伝わっていた。

 彼の渾身の一撃は男子生徒たちに「これ以上こいつに関わるのは危険かもしれない」と十分に思わせることができた。


 彼は興奮状態のまま体育倉庫を立ち去った。

 そんな彼を先ほどの人影が追いかけてきた。それは他でもない依子さんだった。

 臆病と無気力に取り憑かれていた彼を、一瞬にして奮い立たせたのは、依子さんの声だったのだ。


 依子さんは体育館を出たところで彼に追いつき、彼の耳元でささやいた。

「よく頑張ったね」

 その声は興奮した彼に本来の冷静さを取り戻させた。

 彼は何かの憑き物が落ちたようにその場に立ち止まった。

 しばらくして依子さんの方を振り向いた彼の目には、今まで堪えていた涙がいっぱいに溜まっていた。


 彼は震えた声で依子さんに言った。

「ありがとう、君のおかげで自分の運命に立ち向かう勇気が湧いたよ」

 そう言った彼の顔はとたんに赤くなった。自分の発した言葉に自分で恥ずかしくなったのだった。

 依子さんは笑顔で言った。


「私は何もしていないよ。和彦くんにはもともと十分な勇気が備わっていたんだよ。それを長い間の暴力が忘れさせてしまっただけ。


 和彦くんはそもそも強い人なんだよ。私はそれを信じていた。だからあんな煽るような言葉をかけたの。冷たいことを言ってごめんね」


 彼は思いきり首を振った。そして照れ臭そうに言葉をつづけた。

「そんなことない、本当にありがとう。この恩は返したくても返せないくらいだよ」

 そう言って彼は依子さんに向かって頭を下げた。


 依子さんは言った。

「やめてよ、私は本当に何もしていないんだから」

 そして彼の頭をなんとか上げさせようとした。彼は頑なに頭を下げつづけた。


「いや、本当にあなたのおかげなんです。あなたのおかげで僕は現実に少しでも立ち向かうことができた。

 あなたがいなかったら今日、僕は自分の死を決意していたかもしれない。それくらいに僕は追い詰められていました。


 それをあなたが救ってくれたんです。あなたは僕の命を救ってくれたと言っても決して過言ではない。

 あなたに感謝したくてもしきれないのは当然のことです。本当にありがとうございました」


「わかったよ、わかったからもうやめて。こっちが恥ずかしくなっちゃう……じゃあね、私はもう行くね。また教室で話そうね」


 そう言って、彼女は足早にその場を去っていった。

 彼は走り去っていく彼女に向かって、いつまでも頭を下げつづけた。


 彼は嬉しかった。ようやく自分を変えることができた気がしたからだった。

 今までの暗い毎日からようやく抜け出すことができる。ようやく自分は笑って日々を送ることができる。

 彼はそう思っていた。


 しかし、物事はそう簡単には進んでくれなかった。彼にとって、自分へのいじめそのものよりもつらい出来事が待ち受けていたからだった。


 それから一週間を、彼は平穏無事に過ごしていた。暴力事件が表沙汰になり、彼は学校から叱責を受けることなった。しかし彼への処罰はその叱責だけで済んだ。

 事情が事情だったからであり、むしろ彼に傷を受けた男子生徒たちの方が停学処分を受けることになった。


 そのために彼へのいじめが公に知れ渡ることになり、同時に彼をいじめた者たちの末路を知るに及んで、彼をいじめようとする者はいなくなったのだ。


 彼は自分の人生が変わりつつあることを実感した。

 いじめが終わったからといって新しく友達ができることはなかったけれど、それでも彼は友達がいない孤独を上書きするくらいの解放感に満ちあふれていた。


 しかし彼にはひとつ気がかりなことがあった。

 依子さんに助けてもらったあの日以来、彼は依子さんの姿を見ていなかった。その翌日から彼女はずっと学校を休んでいた。

 彼女がそれほど長い間学校を休むことは、彼の知る限り今までにないことだった。


 彼は、依子さんが休んでいる理由を二人の担任の先生に聞いてみたが、先生も詳しい理由までは知らないとのことだった。

 ただ体調が優れないからという理由しか、彼女からは聞かされていなかった。ちなみに、彼女の母親とはしばらく連絡が取れていないらしい。


 彼は不安になった。依子さんの長い休みは、自分に対するいじめの問題と関係しているのだとしか思えなかった。

 そこに彼はどうしようもなく嫌な予感を抱かないわけにはいかなかった。


 もし彼女が自分のことを助けてくれたことで、彼女自身に何らかの悪影響を及ぼしていたとしたら。

 そう考えるだけの明確な根拠は何もなかったが、それでも彼はその可能性を考えるとどうしても不安に駆られてしまうことになった。


 そこで彼は、依子さんの家まで彼女に会いに行くことにしたのだった。

 それは、彼女が学校に来なくなって一週間が経った、ある金曜日の放課後のことだった。



 依子さんの家の場所を担任の先生から聞き、意外と距離のあるその家まで、杉本君は歩いて行った。


 彼は最初に依子さんの住む家を見たとき、その古さに驚いてしまった。彼女の普段の生活状況を垣間見た気がして、彼はある種の不安に駆られた。

 彼女はいつもどのような暮らしを送っているのだろうか。思春期の少女として満足のいく日常生活を彼女は送れているのだろうか。そもそも彼女は満足に食べられているのだろうか。

 

 彼は、心配に駆られながら彼女の家のドアをノックした。家からは誰も出てこなかったが、家の中に人のいる気配を感じていた彼は、辛抱強くドアをノックしつづけた。

 しばらくしてようやくドアは開かれた。

 そこには当然ながら依子さんがいた訳だが、彼女の普段とはかけ離れた姿を目にして、彼は一瞬にして息が詰まるほどだった。


 彼女のきれいな髪はボサボサに散らかり、その表情には一切の生気がなく、大きな瞳からは以前の鋭い光が失われてしまっていた。

 まさしく茫然自失といった印象を彼女は与えた。

 彼はあまりの驚きから、その場に立ち尽くすことしか出来なかった。しばらく、口にするべき言葉が出てこなかった。

 その間、彼女は何の表情もなくただ彼のことを見上げていた。


 やっとのことで彼は口を開いた。

「久しぶり、元気にしてた?」

 そう聞いた彼はすぐにその質問が馬鹿げていることに気がついた。こんな状態になってしまっている彼女が元気にしていた訳がないのだ。

 やはり彼女は何も答えなかった。


「何かあったの? 様子が少し変だけど」

 彼は思い切って彼女の変貌してしまった理由を聞いてみた。彼女はしばらく表情を変えず、ドアノブに手をかけたまま微動だにしなかった。


 しかし最初に唇のかすかな震えから始まり、彼女はしだいにその表情を崩しはじめた。

 彼女の目からひとすじの涙がこぼれ落ちた。同時に彼女は小さな声で泣きはじめ、その瞳には光が再び宿ることになった。


「大丈夫……?」

 もはや彼は一言そう尋ねることだけで限界だった。

 依子さんの涙に対して、彼はどうすればいいのか分からなくなった。誰かが目の前で泣くところを、彼はほとんど実際に目の前にしたことがなかったのだ。


 それでも何かをしてあげない訳にはいかない気持ちだった彼は、震える彼女の肩にそっと手を置いた。

 何を言ってあげればいいのかは分からなかったけれど、とにかく彼は彼女を励ましてやりたかったのだ。


 しばらくの間、彼女は今まで堪えていた涙をすべて出し切るかのように、彼の目の前で泣きつづけた。

 彼女の身に何があったのかは分からないけれど、とにかく彼女は今までつらい思いをしてきたのだ。


 彼は、依子さんがひとまず落ち着きを取り戻すまで、彼女に寄り添いつづけた。それは同時に、なぜか自分の心も満たされていくような、不思議な時間でもあった。


 思う存分に泣きつづけて気持ちを入れ替えた依子さんは、彼を家の中に招き入れた。

 食卓を挟んで向かい合った彼女は、この一週間に何があったのか、その出来事を彼に向かって打ち明けた。


 体育館の倉庫で彼に声をかけた日、依子さんは一人で家に帰っていた。

 彼女は、彼を少しでも助けられたことに安堵していた。もしかするとこれから彼の状況はいい方向に変化していくかもしれない。

 そのことが彼女にある種の充足感を与えていた。反射的に誰かを助けようとする性格の彼女といえども、誰かの役に立てるのはやはり嬉しいことだった。


 しかし彼女は往々にして、自分という視点を忘れてしまうところがあった。

 他人さえ良ければ自分のことは後回しでも構わない。常日頃からそのように思ってしまう傾向があった。

 それは一面的には、確かに彼女の美点かもしれない。しかし物事にはバランスというものがある。


 彼女には「自分のことはどうなっても良いのだ」というやや破滅的な傾向があった。他人のためには自分の身を犠牲にすることを厭わない。

 そのことに彼女はいくらか自覚的なところがあった。むしろ、自分を犠牲にして他人の役に立つことでしか、自分の存在意義を実感できないところがあった。


 そしてそんな彼女の特質が、今回は最悪の方向に表出してしまうことになった。

 今回の彼女には、自分の身を守るという視点がいつも以上に欠けてしまっていたのだった。


 彼女はボロボロの姿になって家までたどり着いた。

 自分の身に何があったのかを詳細に想起することはできなかった。

 一時的なショック状態に陥っていた彼女は、一部始終の記憶が曖昧になっていた。ただ男たちの嘲るような表情だけが彼女の記憶に深くこびりついていた。


 彼女は今までの人生でもっとも大切にしてきたものを汚された。それは悟にすら今まで見せてこなかったものだった。

 自分は今まで大切にしてきたはずのものを守れなかった。その悔しさと悲しさが彼女を支配していた。


 彼女は涙を流すことすらできなかった。自分の弱さに泣くことすら彼女には許せなかった。

 自分はなんと弱く、そして汚らわしい存在なのだろうか。

 それは今回の屈辱の以前から、彼女が抱いてきた自分への思いでもあった。抑えつけていた自分に対する嫌悪感が、一気に噴出するような感覚があった。


 自分なんか消してしまいたい。いっそのこと自分なんか死んでしまいたい。

 彼女は人生ではじめてそう考えた。

 そして彼女はそれを実行しようとした。部屋のドアノブにタオルをかけて、そこに自分の首を通した。

 あとは自分の身体をそこに預けるだけでよかった。

 しかし、彼女は死ぬことを思いとどまった。


 いや、そうではないと彼女は思った。

 土壇場になって終わりにする勇気が出なかったのだ。自分は自分を終わらせることすらできない弱い人間なのだ。

 彼女は深い絶望感に囚われることになった。

 そして彼女は何もしたくないと思った。自分が何をすることも彼女には許せなかった。


 それから一週間、杉本君が訪ねてくるまでの時間を、彼女はまったくの無為に過ごしていた。食事すら十分にとらなかった。

 そのため、彼女はひどく痩せこけた容姿になった。彼女の髪や服装の乱れとともに、その普段とかけ離れた異様な姿が彼をひどく驚かせた。


 彼女は自分の弱さをさらけ出すように声を上げて泣きつづけた。彼は、泣いている彼女に黙って寄り添うことしかできなかった。

 そして、彼女の話を最後まで聞いた彼はさらに何も言えなくなった。

 それは自分の想像を絶する、あるいは自分勝手に想像することを許さないあまりにも壮絶な出来事だった。

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