5, 死にまつわる回想
季節は秋になった。
学校では制服が半袖のシャツから長袖のブレザーに変わっていた。
依子さんは学校でも家でも基本的には一人で過ごし、まれに数少ない友だちと過ごす以外には、本を読むか昼寝をして過ごしていた。
そしてその目にはいつも深い孤独が見てとれた。
ある秋晴れの日、依子さんは珍しく学校を休んだ。体調を崩したのかもしれないと心配になった私は、彼女の様子を見に行った。
依子さんの家につくと、彼女はちょうど一人で昼ごはんを食べていた。インスタント食品で作ったスパゲッティーのカルボナーラだった。
依子さんの体調は見たところ良さそうだった。むしろいつもより元気そうに見えた。
その理由はひとつに決まっていた。悟に会いにいくのだろう。私の判断はとくに疑いようもなかった。
その証拠に、依子さんの格好はいつもよりおしゃれに見えた。依子さんがスカートを履くのは悟に会いにいく時くらいのことだ。普段は安物のジーンズとよれたTシャツを使い回している。
依子さんがいよいよ出かけることになったので、私は彼女について行くことにした。
私は依子さんが悟と二人きりで会うことにまだ気が引けていた。私がついていてやらねばならない。
とは言っても近頃に関しては、何かの間違いが起こることなどほとんど考えられない状況だったが。
彼女が向かったのは病院だった。駅の近くにある小さな市民病院だった。
とても古い建物らしく、その白い壁は薄汚い灰色に変色してしまっている。
私は猫であり病院には入れないので、依子さんが用事を済ませている間、私はいつも敷地内の木陰で昼寝をして過ごしている。
しかし、この日は多くの時間を彼女のそばで過ごすことができた。なぜなら依子さんはこの日、悟を連れて中庭まで出てきてくれたからだった。
悟は水色の入院着の姿で腕に点滴を付けていた。彼は生来の免疫不全から肺炎を患い、授業中に血を吐いて入院したのだった。
悟は彼女と一緒に楽しそうにおしゃべりをはじめた。二人は最初のうちはベンチに座って話していたが、途中から病院の敷地内を歩きはじめた。
二人はたわいもない話を続けていたが、あるところで会話が途切れ、奇妙な緊張感が二人の間に漂いはじめたからだった。
二人は脈絡なく会話をしていたように見えて、ひとつの話題だけは避けていた。
それは悟の病状についての話だった。悟の病状は時間が経つごとに、少しずつではあるが確実に悪化の一途を辿っていた。
もともと痩せていた体は、目に見えてさらに痩せていた。肌の色も少しずつ悪くなっていた。咳による体力の消耗がその傾向に拍車を掛けていた。
二人の間のぎこちない空気を感じ取った私は、二人のために話題を作ることにした。
私は「にゃー」と鳴き声を上げるとその場にうずくまった。二人が自分を見たことを確認すると、私は突如、むくりと起き上がって走り出した。
私は人々の間を走りまわり、衆目の的を射ることになった。そのほとんどは「猫かわいい」という好意的な反応だった。看護師さんには嫌な目をされることもあったが。
私は走っているそのままの勢いで、中庭の真ん中にある一本の大きな木に駆け登った。木の頂上に立ち、気持ちよく周りを見渡して「にゃー」と鳴き声を上げた。
そこで私は困ったことになった。私は木から降りられなくなったのだ。
皆の関心は一気に私に集中することになった。そしてもちろん依子さんと悟の二人も、私に釘付けになっているようだった。
こうして二人の間に私という共通の話題を作ることができた。私は達成感と恐怖心という二重の感情を抱えながら、木の頂上で震えていた。
依子さんは例の凜とした目に切り替わり、私のことを助けようと動き出した。
依子さんの目に、私はひたすら面倒な猫として写っているだろう。それでも構わないと私は思った。
私は人間の頃からずっと、不器用な形でしか事態の打開を図ることができなかった。そうして何度も、痛い目に遭ってきた。
依子さんは目立って体育が得意という訳ではないが、もともと野生児のようなところがあり、意外なところで身体の機敏さを発揮することがあった。
そして今回も依子さんは、その機敏さを遺憾なく発揮することになった。
患者やその家族や看護師たちが心配そうに見守る中、彼女はすいすいと木を登って私のところにやってきた。
そして私のことを大事そうに抱えると、俊敏な動きで木を降りていった。
彼女が地面に戻った時、自然と周囲から拍手が漏れてきた。同時に依子さんは看護師の一人から「危ないじゃない、一人で無茶して」とお叱りを受けた。
私は心の中で彼女に謝った。私は「にゃー」とふたたび鳴き声を上げて、彼女の腕にすり寄った。
それからしばらく依子さんと悟の二人は、私についての話で持ちきりだった。
「この前も体調が悪くなって依子さんを動物病院へ走らせたよね」とか「休みの日に出かける時、勝手について来ちゃうんだよね」と二人は話していた。
私は何だか申し訳なくなった。それでも二人の間に流れていたぎこちなさは影を潜め、私はほっと一息を着くことができたのだった。
「最近、死について考えるようになったんだよね」
ある時、悟は切り出した。依子さんの表情はとたんに重く張り詰めたものになった。
悟はすぐに笑顔でフォローをはじめた。
「そんなに重たい話じゃないんだよ。最近、死ぬことが怖くなくなってきたんだ。
むしろ人が死ぬことは希望なんじゃないかとすら思うようになってきた。死は自分が背負っている全ての苦しみからの解放だからね。
ここ数日はそうでもないけど、この前まで具合が悪くてとても苦しかったんだ。咳は止まらないし全身がだるくて至るところに痛みがあって。
そんな時にいつも思うんだ。いっそのこと死んでしまいたいって。死んだら楽になるのになって。
それから僕はホッとするんだ。自分には死ぬという選択肢があるんだ。このまま永遠に苦しみ続けるわけじゃないんだって。
もちろんすぐに死ぬ予定なんてさらさらないよ。でもたとえほとんどの確率で使わない選択肢だとしても、それがあるっていうことだけで僕は安心するんだ。
自分は病気に対して百パーセントの無力ではない。それに抗う手段を少なくとも一つは持っているんだ。
そう思うだけで少しでも気持ちが安らぐ。死という可能性を持っていることが、人間にとって最大の救いなんじゃないかとすら思うよ」
依子さんは表情を変えず、黙って悟の話を聞いていた。悟はつづけた。
「死は希望だというのは何も病気に関することだけじゃない。当たり前の日常を送っている普通の人たちにとっても死は希望だと思うんだ。
僕はこうして病気になったから、それ以外の悩みや苦しみは今のところ影に隠れている。
けれど普通に生きているだけで、生きることに挫けそうになるほどのつらいことや悲しいことはきっと起きてしまう。
そんな時、もし人間に死というものがなかったら、苦しい日々を永遠に送らなければならないと考えて、恐怖に身がすくんでしまうこともあるはずだよね。
その無間地獄からの解放が死なんだと思うと、心が軽くなるんじゃないかな。
そして、明日からも精いっぱい生きようと思える。人はいつか死ぬからこそ一生懸命になれるんだ。
そう考えると、死というのは神様がくれる贈り物なんじゃないかとすら思うよ。死ぬことは必ずしも怖いことじゃない。
そう思ったら生きることの怖さも薄れてきて、最近は生きることがむしろ楽しく思えてきた。僕はいま毎日がとても楽しくてワクワクしているんだ」
悟はそう言って笑った。依子さんは悲しそうな目をして、作り笑顔を返した。
しばらくして依子さんは口を開いた。
「やっぱり悟くんにはいつまでも生きていてほしい」
それが彼女の変わることのない願いだった。
「悟くんにはやっぱり死んでほしくない。だって悟くんがいなくなったら、私が悲しいから。
私は学校でも家でもほとんどひとりで過ごしている。普段はそれでも別に構わないけれど、時々ものすごく寂しくなる。
そんな時、私の心を支えてくれるのは悟くんの存在だった。悟くんがいるから私のこんな世界も色彩を保っていられるというか。
悟くんがいないとつまらないし、悟くんがいないと寂しくて仕方がない。悟くんがいるから、私は明日も生きようって思えるんだ。
大げさに聞こえるかもしれないけど、決して大げさな話なんかじゃない。
私は悟くんに絶対にいなくなってほしくない。悟くんは私にとって、欠かすことのできないとても大切な存在なんだ。
それだけは覚えておいてほしいなって思う」
依子さんの目はいつにも増して真剣だった。そして悟の死に対する恐怖がその目には混じっていた。
「ありがとう」と言った悟の目には、少しだけ涙が浮かんでいた。
私は依子さんと悟の気持ちの両方に共感ができた。
最初はなぜか分からなかったが、人間の頃の記憶がまた少しずつ蘇るにつれて理由は明らかになってきた。
私は両方の気持ちをよく知っていた。なぜなら私は、両方の気持ちを実際に経験していたからだった。
私には人間だった頃、ひとりの最愛の女性がいた。私は彼女とやがて結婚した。
しかし、その結婚生活は長くは続かなかった。結婚して五年目に、彼女は亡くなってしまったからだ。
しかも彼女は、自分で命を絶ってしまった。私はそこで深い絶望に囚われた。
ここで妻の死について語ろうと思うが、その前に彼女との出会いから述べることにする。
と言うのも私と妻が出会ったきっかけは、私の方がかつて死というものに取り憑かれたからであり、そんな私を救ってくれたのが他でもない妻だったからだ。
私は当時、死ぬことばかりを考えていた。そこに明確な理由はなかった。
ただ何となく生きることが苦痛だった。毎日が憂鬱で仕方がなかった。
私はその時ただ当てもなく街を歩いていた。いやさまよっていたと言う方が近いかもしれない。
私は当時、ある地方の田舎町で暮らしていた。その近くには県庁所在地の街があった。
私はその街に、休職中の暇に任せて当てもなく出かけて行った。
私の意識はぼんやりとしていた。まとまりのあることを考える力は残っていなかった。
何かの熱病にかかったように、コートのポケットに手を入れてふらふらと街を歩いていた。
私はそこで不意に死のうと思い立った。何かきっかけがあったわけではない。論理的思考力を失った私の脳が勝手に導き出した結論だった。
いったん死ぬことを思い定めると、私は全身の力が楽になるのを感じた。大きな荷物を一気に下ろせたような気持ちになった。
私はもはや死ぬことしか見えなくなった。
私が死に場所として選んだのは、駅近くの線路上にかかる大きな高架橋だった。
私はそこから飛び降りようと思った。私は橋の欄干に手をかけた。そして両足を宙に持ち上げた。全てから自由になれるような気がした。
しかし突如として、何者かが私の身体を思いきり突き飛ばした。私は訳もわからずに周囲を見回した。私はひたすら混乱していた。
その混乱の中で目にした人物こそが、のちに自分の妻となる女性だった。
彼女は息を切らしながら、私に向かって口を開いた。
「いったい何をやっているんですか!」
彼女のその言葉には、私に対する最大限の怒りが含まれていた。
私はただ呆然とすることしかできなかった。
彼女の目には涙が浮かんでいた。
「そんなことを目の前でされたら、私の方が死にたくなっちゃうじゃないですか」
「すみません」と私は反射的に謝った。
そして気がつくと私はかえって彼女の身の上話を聞くことになっていた。
彼女も日常に苦しんでいた。そして胸の内を誰かに聞いてもらわなければならないほど、彼女の心は追い込まれていたのだった。
「わたしは最近なぜか死にたくて仕方がないんです。ふとそういう気持ちに襲われることが多くなりました。
理由はよく分かりません。とくにつらい出来事があったとかではないんです。
いや、どうだろう。もしかしたら小さな出来事の蓄積はあったのかもしれない。
でも、少なくとも大きなつらい出来事は最近、何も起きていません。
それなのにわたしは無性に消えたくなってしまう。それがつらくてたまらないんです。
わたしは今、大学生をしています。文学部で日本文学について勉強しています。もともとそれが大好きだったということもあって。
実家はとても田舎なんですが、今はこの町に出てきて一人暮らしをしています。
学生街で近くに友だちも住んでいるので、それほど寂しいと感じることはないです。
友だちは割とたくさんいて、今では恋人だって一応います。経済的に困っていることもとくにありません。
それ以外にも生活の中で何かが欠けているとかではないんです。
こうして良い大学にも入ったし、むしろどちらかと言うと順風満帆な人生を送ってきました。
少なくとも傍目から見れば何の遜色もない毎日を送っています。
それなのに毎日がどうしても虚しくて仕方がない。どうしてなんでしょうね。その理由がわたしにはよく分からない。
なぜかわたしの中心は空っぽなんです。その空っぽを何が満たしてくれるのかも分かりません。
わたしはどうしたらいいんでしょう?」
彼女は一つため息をついて、それからまた話をつづけた。彼女は話をしながら、自分でその答えを探しているように見えた。
「わたしは昔から誰かと本当の意味で心を通わせることはありませんでした。
表面的な付き合いであれば昔からそれなりに上手くやってきましたし、外側から見てわたしが孤立していることは今までなかったように思います。
それでも心の中はいつも孤独でした。他人の話している言葉の意味が分からないんです。いや、辞書的な意味であればもちろん理解することはできます。
わたしが分からないのは、言うなれば他人の真意みたいなものです。
人が心の奥底で本当は何を思っているのか。それがわたしには全く見当がつかなくて、それでわたしは今までずっと人に怯えながら生きてきました。
だからと言ってひとりきりになる勇気もない。わたしは人付き合いを漫然とこなしながら、実際は他人に怯えているという苦しい板挟みの中で生きてきました。
もしかしたらわたしは今になって、そのことに疲れてきたのかもしれません。今まで必死に保ってきた忍耐の糸が切れてしまったのかもしれません。
だから最近になって突如として生きることが苦しくなってきた。そういうことなのかもしれません。
あるいは、わたしは今まで憂鬱でない時を知らないままに生きてきました。
物心がついた時からずっと憂鬱なままなんです。
理由はよくわかりません。幼い頃に何かショッキングな体験があったというような記憶もありません。
それでもわたしは今までずっと得体の知れない憂鬱を抱えて生きてきました。
もしかするとそれは一種の病気のようなものなのかも知れません。あるいは宿命のようなものかも知れない。本当のところは私には分かりません。
憂鬱の理由がよく分からないということが、わたしにとっては苦痛の種でした。理由がわからないということは、すなわち対処しようがないということですから。
すみません、わたしは何の話をしたいのでしょうね。自分でもよく分からなくなってきました。
初めましての人にこんなことを長々と話しても迷惑なだけですよね。今までの脈絡のない話は全て忘れてください。
ただ、これだけは言わせてください。
絶対に変なことは考えないでくださいね。あなたがどこかで死への欲望と闘っていると思うだけで、わたしはこれからも頑張れそうな気がします」
彼女はそう言って恥ずかしそうに笑顔を浮かべると、早足で去っていった。
それが私と彼女との出会いだった。それから私たちはその高架橋でしばしば出会うようになった。そしてすれ違うたびに話をする間柄になっていた。
ある日の夕方、私はいつものように高架橋から線路を何となく見下ろしていた。そうして物思いに沈むことが、その頃の私の習慣になっていた。
その日も、いつもの場所で彼女と出会った。彼女はいつものように、うつむきがちに歩いていた。
私は彼女の名前をまだ知らなかったので、「こんにちは」とだけ声をかけた。
いつもは彼女の方から「お兄さん、こんにちは」と声をかけてくれていた。
しかし、その日は私に気づかずに黙って通り過ぎたので、私は勇気を出して彼女を後ろから呼び止めた。
彼女はこちらに振り向いて「あっ、ごめんなさい」とあわてて謝った。
「すみません、ちょっと今ぼーっとしちゃっていて」
そう言う彼女は鼻がつまったような声をしていた。
「いえいえ、こちらこそ急に呼び止めてすみませんでした」
そう言いながら彼女の顔を見ると、私は彼女が涙を流していることに気づいた。
私はどうしたらいいのか分からなくなって、彼女から目をそらした後、何も言えなくなってしまった。
そんな私の戸惑いに気を遣ってくれたのか、彼女は自分から涙の訳を話してくれた。
「実はついさっき彼氏に振られたところなんです。
しかも振られた理由というのがわたしにとってかなりショックなもので。
嫌なところを突かれたというか、わたしがいちばん気にしていたところを言われてしまったというか……」
彼女はそこでひと呼吸を置いて、つづきを話した。
「彼にはこんなふうに言われました。
お前といても楽しくない。ただ緊張するだけだ。俺にはお前の話していること、考えていることがさっぱり理解できない。
最初はそれが楽しかった。でも、今はただ疲れるだけだ。お前と一緒にいることが今の俺にとっては大きなストレスなんだって。
私はそう言われて何も言い返せませんでした。なぜならそれは、わたしが日頃からいちばん危惧していたことだったからです。わたしは……」
そこから先を彼女はうまく言葉にすることができなくなった。彼女はずっと涙を流していた。
私はそんな彼女に何も言ってあげられなかった。彼女が声を押し殺して泣いているのを、黙って見ていることしかできなかった。
しばらく泣いて涙がようやく枯れてくると、彼女は小さく深呼吸をして話を再開した。
私は、今度こそは正面から彼女の話を受け止めようと思いながら、彼女の言葉に耳を傾けた。
「わたしはどうすればよかったのでしょう。
わたしはどうすれば他人と心を通い合わせることができるのでしょうか。どうすれば彼と心から理解し合えることができたのでしょうか。
その方法が今のわたしには分かりません。このままだときっと次の恋愛に踏み出したとしても、結局は同じことになってしまうのではないかと思います。
そもそもわたしは生まれつき、他人の気持ちが理解できなかった。わたしと世間とで心の自然な流れが一致していないように感じてきました。
ひとが泣くところでわたしは泣けず、わたしが泣くところでひとは泣いてくれない。ひとが笑うところでわたしは笑えず、わたしが笑うところでひとは笑ってくれない。
もしかしたらわたしは、永遠にひとりで生きていかなくてはならないんじゃないか。そう思うとわたしは底のない憂鬱に落ちていきそうになるんです。
分かってもらえますか? この気持ち」
私は、注意深く言葉を選びながらそれに答えた。
「私は、何となくですが分かるような気がします。
私もおそらく、同じような苦しみを抱えて生きてきました。
世間と言われるものと私はどうしても話が合わない。他人とどうしても生き方や物事の感じ方、考え方が一致しない。
だからこそ、私も孤独な人生を送ってきたように思います。私が死のうと思ってしまった理由も、おそらく孤独だったからです。
孤独が私を倫理の向こう側に追い詰めてしまった。孤独が私の憂鬱を増幅させてしまった。
でも今の私はそうではありません。今はそれほど孤独に苛まれることもないし、死にたいと思うようなこともほとんどありません。
なぜなら、あなたがいるからです。
どこか遠くない町で、あなたが私と同じような苦しみを抱えながらも頑張っている。その事実にどれほど私の心が救われてきたか。
それを思うと、私はあなたの存在にただただ感謝しているのです。これは大げさな言い方でも何でもありません。
あなたがこの世界にいなければ、私は間違いなく今こうして生きていることはなかった。
こんなことを私のような人間に言われても嬉しくないでしょうけれど、私はあなたに感謝しているし、あなたの心を理解してくれる人間はきっとあなたの前に現れてくれるはずだと思っています。
だからこれからの人生にあんまり絶望しないでください。私なんかがいうのも変な話ですが、この先もしぶとく生きていってください。
今日ここまで必死に耐えて生きて来たのだから、その経験を一日一日これからも積み重ねていってください。私も一緒に頑張ります」
彼女は私の言葉に頷いてくれた。そして涙をこらえながら言った。
「ありがとうございます。何とかこの先もやっていける気がしてきました。明日からも自分なりに頑張って生きていきたいと思います。
いや、たぶん頑張らなくてもいいんですよね。自分なりのペースで、自分なりの世界観でこれからはゆるく生きていこうと思います。
素敵な言葉をかけてくれて、本当にありがとうございました」
彼女は私に深くお辞儀をした。
私は恐縮してしまい、またもや彼女から目をそらすことになってしまった。彼女は言った。
「またここで会いましょうね、お兄さん。
そうだ明日、また同じ時間にここで会いましょう。
それまでに死んでしまったらだめですよ。絶対に、明日ここでまた会いましょうね。お互いの生存確認のためにです」
そう言って彼女は満面の笑顔を見せた。私は、彼女の言葉に力を込めてうなずいた。
「そう言えばお兄さんの名前、何ていうんですか。まだ聞いていなかったです」
「私の名前は……」そこで私の記憶は途切れていた。