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4, 悲しみの向こう側

 依子さんは食卓に座って、朝食を食べはじめた。依子さんが作ったのはトーストとハムエッグだった。


 依子さんが一人で食べているのを見て、私は彼女の母親が昨夜からいないことに気づいた。

 まだ中学生の娘をたった一人で置いて母親はどこに行ったのだろう。

 そこに私は不健全な匂いを感じた。昨夜だけ家を空けていたというよりは、日常的に彼女を放置している印象があった。


 依子さんは部屋着に着替えることなく眠ってしまったらしい。昨日のTシャツとジーンズのままの彼女を見て私は思った。

 彼女には意外とそのようなずぼらな一面があった。私はそのことを折に触れて感じていた。


 朝食を済ませた依子さんは私の目の前で服を脱ぎはじめた。私は裸になった彼女から反射的に目を逸らさずにはいられなかった。

 依子さんは居間を出て行った。そして彼女がシャワーを浴びる音が聞こえた。

 彼女が戻ってくると、新しいTシャツとジーンズに着替えていた。その服も色あせてくたびれていた。

 

 依子さんは食卓に座り、リモコンのスイッチでテレビをつけた。それから鏡を目の前に立てて、ドライヤーで髪を乾かしはじめた。

 しばらくその様子を眺めていると、彼女はいきなり私の方にドライヤーを向けてきた。

 私は予想外の熱風に驚き、全身の毛が一斉に逆立つのを感じた。背伸びをするように全身を硬直させ、目は大きく見開いた。

 そんな私の様子を見て、彼女は一瞬だけ無邪気な笑顔を浮かべた。

 

 依子さんはそれからリビングで学校の勉強をしたり、本を読んだりして過ごしていた。

 今日の彼女は母親がいないことで普段より開放感にあふれているように見えた。誰に気兼ねすることもなく、彼女は一人きりの時間を自由に謳歌していた。

 本を読んでいる時の彼女の表情は、いつもよりずっと穏やかに見えた。


 昼になると、依子さんは野菜やハムを包丁で切り、フライパンで卵を炒めはじめた。

 何枚かの食パンを三角形に切って並べた。それから彼女はパンでいろんな具材を挟み、たくさんのサンドイッチを作った。しかし彼女はその作業に難渋しているように見えた。

「普段サンドイッチなんか作んないもんな……」と彼女は言い訳していた。

 私は自分に向けられた言い訳かもしれないと思い「ニャー」と適当に返事をしておいた。それに対して彼女はかすかな笑みを浮かべたように見えた。


 彼女はサンドイッチのタッパーと麦茶の水筒を麦わらの手提げかばんに入れた。

 そして昼ごはんの用意が終わると、依子さんはふたたび着替えた。襟に刺繍のある白いワイシャツと淡い花柄のスカートだった。

 普段のどこかに野性味のある彼女と違い、この時の彼女はどこにでもいる可愛らしい女の子のように見えた。



 着替えを済ませた依子さんは、サンドイッチの入ったかばんを持って家を出た。

 私は彼女について行くことにした。彼女がたどり着いたのは山の麓の閑静な住宅街だった。しばらくその住宅街を歩いていると、私は懐かしさを感じていることに気づいた。

 私はそこに安心感と同時に、居心地の悪さを感じていた。そして、胸焼けのような感覚を抱くようになっていた。やがて、私はその感覚の正体を理解した。私は冷や汗を伴う苦しい緊張を感じるようになった。


 私は思い出していた。このあたりは初恋の女子生徒が住んでいた家の近くだと。

 もちろん当時と町並みは変化しているし、彼女の家に至ってはその痕跡すら残っていない。しかしあたりを見渡してみると、当時と同じ光景が各所に息づいていることに気づく。

 私は、人間の死に伴う厳粛な記憶と閑静な町並みとの突然のオーバーラップに、足元が揺らぐような大きな混乱を感じていた。


 依子さんは住宅街の中にある整地された小さな公園に入った。そこは私が中学生の頃には、周囲の何軒かの土地と合わせて鬱蒼とした林だったと記憶している。

 この公園にはベンチと水飲み場だけがあった。そのベンチに一人の少年が座っていた。彼は色白でとても痩せており、そして端正な顔立ちをしていた。


 彼は依子さんを見つけるとすぐに立ち上がり、満面のさわやかな笑顔で彼女に手を振った。

「ようこそ。待っていたよ」

 依子さんはとたんに顔を赤らめた。その時の私は決して穏やかな気持ちではなかった。むしろ「こいつはいったい誰なんだ」と彼に対して無性に腹が立った。


 彼はたくさんの女性と関係を持つタイプの人間だと私は直感した。自分が真逆の女性に縁遠い人生を送っていたからこそ、彼には余計に腹が立った。

「もしも彼女と出会えていなければ、私は孤独のまま人生を終えていただろう」と私は思った。

 そこで私はかつて自分にも最愛の妻がいたことを思い出した。そして妻についての記憶が最も不明瞭なことにも気づいた。そのことに私は不吉な予感を抱いた。


 しかし今は依子さんのことを警戒しなければならなかった。

 今まで見てきた彼女は自分だけの力で逞しく生きる芯の強い少女だった。

 しかし、今日の彼女はいつもと様子が違っていた。彼女の芯の強さは影を潜め、この少年を前にした彼女はどこにでもいるかよわい女の子としか見えなかった。


 依子さんは少年の隣に腰を下ろした。私は依子さんの足元に密着しながら彼に睨みを効かせていた。

 二人はベンチに座るとすぐに何気ない会話を始めた。主に少年が話して、依子さんは聞き手に回っていた。

 彼は話をするのが上手く、身の回りの出来事を面白おかしく話した。最初は緊張して静かだった依子さんは、彼の話を聞くうちにやがて遠慮なく笑うようになっていた。


 二人の会話にしばらく耳を澄ませていると、二人は幼稚園からの幼なじみで子供の頃から仲が良いということが分かった。

 二人は放課後になると、公園でよく落ち合うことがある。そして顔を合わせると二人は他愛のない話をするのだった。

 しかし今日は初めて待ち合わせをして公園で会うことになった。

 二人が制服以外の姿で会うのは中学生になって今日が初めてのことだった。私は依子さんだけでなく、少年の方もおしゃれを意識しているように見えた。

 そんな二人を見ていた私はやがて彼に好感を持つようになった。そして落ち着いて二人の会話を聞けるようになっていた。


 そこで私は不意にミケと再会した。私が二人を交互に見上げながら話を聞いていると、毛が逆立つほどの不気味な気配を背後に感じた。

 反射的に振り返るとそこには自分よりひと回り体の大きなミケがいた。

 驚いた私は奇妙な声を上げた。そんな私を見たミケは呆れた目をして言った。

「あなたはここで何をしているの?」

 私は簡単な経緯をミケに説明した。そしてミケも私に話をしてくれた。


「私は普段からよくここに来るの。散歩コースの一つになっている。静かで良いところだもの、このあたりは。

 というより町全体が私の散歩コースになっている。町全体が私の庭だと言っても過言ではないわ。

 良く言えばフットワークが軽いけど、悪く言えば落ち着きがないのよ、私には。

 だから私は、必然的にこの町のことをたくさん知るようになってくる。

 もちろん猫たちのことだけじゃなくて、人間たちについてもたくさんのことを知っているわ。出来れば知りたくなかったようなことも含めてね。

 例えば、私たちの目の前にいる白川悟くんのこともよく知っている。彼の生い立ちにはちょっと可哀想なところがあるの」


 ミケはそう言って、白川悟について知っていることを教えてくれた。

「悟くんは依子ちゃんとは対照的にものすごくお金持ちの家の子なの。このあたり一帯は郊外の高級住宅地なんだけど、その中でも特に立派な家に住んでいるわ」

 白川悟の父親は世界的に名の知れた大企業に勤めており、現在は取締役の一人を務めている。母親は日本全国に展開するバレエ教室を立ち上げ、その代表として教室の経営をしている。

 彼の両親は二人とも仕事が忙しくて、普段の家事全般は住み込みのお手伝いさんが務めている。


 悟は現在のところ不自由のない生活を送っている。しかし彼は生まれつき非常に体が弱かった。

 遺伝的な免疫力の弱さから、繰り返しいろいろな病気を患ってきた。彼の父方の祖父も早くに亡くなってしまったという。

 そのため彼はとても線の細い痩せた体格をしていた。普段から頻繁に咳をしており、動くとすぐに体力を消耗してしまうので満足な運動も出来なかった。

 いろいろな病気にかかって入院したこともたくさんあった。かつては授業中に血を吐いて救急車を呼ぶ事態も何度かあったという。


 私とミケはしばらくの間、依子さんと悟の会話を聞いていた。

 私の目から見た二人は、心から楽しそうに今という時間を謳歌しているように見えた。悟に対する私の不信感はすでに解消されていた。

 しかし私が安心していたところで、悟は依子さんに切り出した。

「ずっと外でいるのも暑いし、今から僕の家に行かないか?」

 依子さんは彼からの突然の申し出に戸惑いを隠せなかったが、やがて恥ずかしそうに顔を赤らめて「うん」とうなずいた。


 私は二人の急展開に驚いて焦った。同時に私は、二人が一線を超えるのは何としても阻止しなければならないと思った。

 私は必死に頭を働かせると苦し紛れにミケに言った。

「私の体調がまた悪くなった振りをしてみるのはどうだろう?」

 ミケは眉をひそめて逡巡していたが、「この際、仕方がないわね」と私の提案に乗ってくれた。


 私は腹を抱えて身体を丸め、苦しそうな声を上げた。ミケは依子さんの足元に抱きついたり、必死に鳴き声を上げたりして、二人に向かってアピールをつづけた。

 ミケに気づいた依子さんは、その意図が分からず最初は困った表情をしていた。

 しかし苦しんでいる私を見るとその表情が一変した。悟を前にして恥ずかしそうな表情から、他者を助けようとする凛々しい表情に変化した。

 悟も他人事ではいられないようだった。彼は不安そうな表情を浮かべていた。


 私は依子さんに動物病院まで連れて行かれた。彼女は病院に向かって全力で走った。

 私は彼女を追って足がもつれながら走っている悟の体調を心配した。

 悟は間もなく息が切れはじめた。彼の様子を見た依子さんは言った。

「悟くんは走らなくていいよ。ゆっくり後からついてきて。今から動物病院に行くだけだから。行き方は言わなくても分かるよね。悟くんは何よりも自分の体を優先して」

 依子さんは恋する乙女から一転して、動物の命を預かる芯の強さを見せた。その強さに押されるように悟は走るのをやめた。ミケも彼と一緒に足を止めた。



 依子さんが動物病院に着いた時、私は本当に体調が悪くなっていることに気づいた。私の診察に当たった芦沢という獣医は「これは風邪だね」と彼女に言った。

 私は点滴の治療を受けることになった。

 体力が回復して眠気に襲われていたところで、悟とミケが合流した。


 悟は「遅くなってごめん」と依子さんに言った。

 そして彼は怪訝な顔をする先生に頭を下げて自己紹介をした。

「初めまして、白川悟と言います。依子さんと同じクラスの同級生です。その猫が体調を崩しているところを僕も見かけて、心配になって様子を見に来ました」

 先生は怪訝そうな顔のまま「どうぞ」と彼を迎え入れた。悟は先生が示した椅子に腰掛けた。


 悟は一息つくと、今まで抑えていたものがあふれ出したように激しい咳をした。その咳は湿気を含んだ重い咳であり、収まるまでに時間を要した。

 先生は冷静さを失うことなく「大丈夫か?」と声を掛けた。ティッシュペーパーをまとめて彼に差し出すと、先生は咳が収まるまで彼の背中をさすりつづけた。


 悟の咳がつづく間、私を含めたその場にいる誰もが心配していた。

 彼の咳は明らかに普通ではなかった。灰色の痰を何度も吐き出して、吐き気と共に重い咳を繰り返していた。

「久しぶりに長い距離を歩いて疲れちゃったよ」

 悟はその場の雰囲気を和らげるように、努めて笑顔を作りながら言った。


 しかし、依子さんは沈痛な面持ちで「ごめん」と絞り出すのが精一杯だった。

 そんな彼女を見た悟は、慌ててフォローするかのように「依子ちゃんのせいじゃないよ」と言った。

「つい気が焦っていつもより早足になったんだ。僕がいつも通りに気をつけていたら問題はなかったはずだよ。僕が不注意だったんだ。依子さんは何も悪くない」


 彼女は、自分の方がつらい状況にもかかわらず気を配ってくれる悟に、申し訳なさそうな表情を浮かべた。そして彼に「大丈夫?」と声を掛けた。

「大丈夫。もう落ち着いたよ」

 悟は、慈愛に満ちた優しい口調で彼女に言った。


 依子さんはベッドで横になっている私に付き添い、しばらく動物病院にとどまることにした。

 悟も「しばらく動かない方がいい」という先生の言葉に従って、依子さんと一緒に病院にとどまっていた。

 私は想像以上の体調の悪さに苦しみながらベッド上で安静にしていた。ミケも他の三人が病院にとどまるということでそのまま一緒に過ごしていた。


 夕方になると、先生は依子さんと悟にケーキと紅茶を振る舞った。ついでに私とミケにも上等なキャットフードとミルクを出してくれた。

 依子さんと悟とミケは、診察の邪魔にならないように奥の和室に移動していた。私は、三人に遅れて皆のいる部屋まで先生に移動させてもらっていた。



 町に夕方五時のチャイムが鳴ると、診察を終えた先生が我々のいる部屋にやって来た。

 それまで私と悟は栄養を口にする以外のほとんどを寝て過ごしていた。依子さんは部屋にあった本を読ませてもらい、ミケは帰宅した先生の娘と遊んでいた。

 部屋に来た先生は私を診察すると、悟に「具合は大丈夫か?」と訊いた。

「おかげさまでもう大丈夫です。休ませていただいてありがとうございました」

「ケーキ、本当にありがとうございました」依子さんは忘れずに言い添えた。


「どういたしまして。めちゃくちゃ美味しかったでしょう?

 うちの娘がこのケーキを気に入っていて、何かにつけてよく買ってくるんだよ。

 駅前のところに小さいケーキ屋があるだろう? あそこで売っているらしいんだよな。俺は行ったことないけれど」

「もしかしてあのケーキって鈴ちゃんの分でしたか?

 だとしたら頂いてしまって申し訳ないです」と依子さんは言った。


「むしろ娘が二人に食べてもらうように言ったんだよ。

 たまたま娘に電話する用事があって依子ちゃんがうちに来ているって伝えたら、ぜひケーキを食べさせてあげてほしいって言うんだよ。

 娘は悟くんのこともよく知っていたよ。三人とも同じクラスなんだね」

「はい、僕は鈴さんとも仲いいですよ。

 とは言っても向こうは僕のことを天敵だと思っているみたいですが。

 私の大切な依子にヘンな真似するんじゃないよってよく言われます」


「それは私からも言っておくよ。依子ちゃんも私の娘みたいなものだから」

「そのことについては全く問題ないですよ。先生の心配には及びません。

 僕は依子ちゃんとどうにかなれるなんて、これっぽっちも思っていませんから。

 こんな体じゃ、いつ何があってもおかしくないですしね」

 おそらくそれは彼の口癖になっていて、悟はいつも通りに何気なく言っただけのようだった。

 しかし、それを聞いた依子さんの表情が一瞬だけ暗くなるのを私は見ていた。


 外はまだ明るかったが、悟は「晩ごはんが近いから」と家に帰ることにした。

 依子さんは先生と相談して、彼を家まで送ることにした。

 私は体調が万全ではなかったので、依子さんについて行くことは叶わなかった。

 代わりに、ミケが「二人のことはちゃんと見ておくから」と見守り役を引き受けてくれた。

 依子さんは「悟くんを家まで送り届けたら、その子を引き取りにまた戻ってきます」と言って病院を出た。



 部屋には私だけが残り、先生の娘である鈴さんが部屋に入ってきた。

 彼女は先生より前に風呂に入っていたらしい。着古した白いTシャツに履き慣らしたグレーの短パンという格好だった。

 鈴さんはショートヘアをバスタオルで丹念に拭いていた。

 部屋に私だけが残っていることに気づいた鈴さんは意地悪そうな表情になった。いつでもいたずらを仕掛けてやろうという態度だった。私は全身の毛を逆立てて警戒態勢に入った。 


 両者が睨み合っていたところで先生が部屋に入ってきた。先生は鈴さんに対して呆れたように言った。

「今日の当番は鈴なんだからな。絶対に忘れずにやってくれよ」

 鈴さんは明らかに気の進まない様子を先生に隠そうともしなかった。

 それでも彼女は「はいはい。分かりましたよ」と不機嫌そうに腰を上げた。

 今日は鈴さんが夕食を作る当番だったらしい。彼女は気怠そうに立ち上がると、台所に立って慣れた手つきで料理を始めた。


 私はそこで先生と鈴さんが父子家庭であることに気づいた。鈴さんは台所に立つ前、和室の奥に祀られた仏壇に向かって静かに合掌していた。

 私は、祭壇に祀られた一枚の古ぼけた写真に写っている女性が、おそらく鈴さんの母親なのだろうと思った。

 そしてその写真を眺めているうちに、私は鈴さんの母親に見覚えがあることに気づいた。

 複雑に絡み合った記憶の糸を必死に手繰り寄せるうちに、私の頭の中で彼女の記憶がその輪郭を少しずつ明らかにしていった。



 芦沢先生の妻であり、鈴さんの母親でもある彼女は、旧姓を山本美和と言って、私の高校の同級生だった。

 ただし私は三年生で同じクラスになったときに初めて彼女の存在を認識した。

 私は彼女と直接話したことは一度もない。当時の彼女はクラスで目立たない存在で、いつも教室の片隅で数少ない友達と過ごしている生徒だった。

 だから私にとっての彼女も、ただ単に面識があるという程度でしかない、印象の薄い存在だった。


 しかし山本美和は高校卒業後しばらくして、同級生の皆にとってどうしても忘れ難い存在となった。

 少なくとも私自身にとっては濃密な暗い影響をその後の人生に与えた人だった。

 私は彼女が二十六歳の若さで亡くなったことを知っている。

 あまりにも早過ぎる彼女の死と、その聞くに耐えない凄絶な死は、想像力の許容範囲を遥かに超える衝撃的な出来事だった。


 彼女は芦沢先生と二十五歳の誕生日に結婚した。そして二十六歳の誕生日に娘である鈴さんを生んだ。しばらくして彼女は産婦人科を退院した。

 しかし、生まれたばかりの鈴さんを抱いて自宅まで帰るところで、彼女は殺されることになった。

 彼女の夫である先生はいくら多忙だったとはいえ、妻の退院に付き添わなかったことで、激しい悔恨に苛まれた。


 山本美和と彼女を殺した犯人は事件の日がまったくの初対面だった。犯人は逮捕後「ただむしゃくしゃして彼女を襲っただけ」だと警察に供述している。

 彼は逮捕当時、無職だった。以前勤めていた会社は同僚たちとの関係がこじれたために(それは彼の歪んだ性格が原因だったが)衝動的に辞めていた。

 彼はその傲岸不遜な性格が災いして転職先を見つけることができなかった。


 彼は他にも、自らの感情を苛立たせる問題を抱えていた。

 事件当時、彼は長年にわたり交際していた恋人に逃げられたばかりだった。

 彼には周囲の人たちを自分の思い通りに屈服させようとする傾向があった。そして彼の歪んだ支配欲は、そのほとんどが恋人に向けられていた。


 彼は恋人への身体的かつ精神的な暴力を繰り返していた。彼女は長年その理不尽な暴力を為されるがままに甘受していた。

 なぜなら彼からの暴力は交際を始めて間もなく突然はじまった。そしてその暴力は思考や感情が追いつけなくなるほど激しいものだった。


 彼女は自分の意思では抜け出すことのできない魂の牢獄に囚われた。彼と同居するアパートの一室から外に出なくなり、社会との関わりは閉ざされた。

 彼女は、彼に対する自らの非力や意志の弱さを恥じて自分を責めた。

 そしてむしろ自分の方から他者の救いの手を振り解いていくことになった。まるで彼からの暴力は自分の弱さが引き起こしたと言うように。


 それでも彼女はしばらくして暴力の渦中から逃げ出すことができた。

 それは強くこびり付いた彼女の自責感情を上回るほどに、彼女の友人たちが心の扉を諦めずにノックしつづけたからだった。

 友人たちの心からの思いやりを受けてその身を奮い立たせた彼女は、ようやく彼の元から逃げ出した。


 生きるための仕事を失い、恋人という名の奴隷を失い、そしてその遥か以前から家族との繋がりも失っていた彼は、社会的にも精神的にも孤立した存在となった。

 彼の抑え切れない歪んだ感情の暴風雨は、やがてそのはけ口を執拗に追い求めるようになった。

 そしてある日、彼の目にたまたま留まったというだけで、不幸にもその暴力的な欲望の標的となったのが、山本美和という一人の美しい若妻だった。


 彼は運転する車の中から、幸せそうに赤ん坊を抱いて歩く彼女を目にした。その光景は自分がいる光のない鬱屈した世界とは正反対の穏やかなものだった。

 それは彼にある種の目眩のような収まりどころの悪い感覚を呼び起こさせた。

 やがて彼の心にはどす黒い非情な欲望が渦巻いた。自らが受難するこの世界の理不尽に対して、自分は一つくらいその代償作用を打ち立てても良いのではないか。


 彼はそのねじ曲がった大義名分のもとに、己の欲望をこの美しい若妻に解放することを自らに許した。

 彼はあふれるばかりの彼女の幸せを破壊したいという欲望に駆られた。抑え切れない欲望に自らを委ねて、彼女の身体に手を掛けた。

 彼は自動車を路肩に止めると、彼女が通り過ぎるのを待って車から降りた。そして背後から近づくと、彼女を公衆トイレの近くの草むらに連れ込んだ。


 そして彼女を強姦しようとした。しかし彼女は赤ん坊を抱いたまま、彼の暴力に必死に抵抗した。彼女の力や意思は、彼の思っていた以上に強固だった。

 彼女からまず赤ん坊を引き剥がすことにした彼は、彼女の横顔を思いきり蹴り上げた。

 その衝撃で彼女が肉体的にも精神的にも怯んだ一瞬をついて、彼はその顔を足で地面に押さえつけた。そして大きな声で泣いている赤ん坊を彼女から剥ぎ取った。


 その泣き声に苛立ちを隠さなかった彼は赤ん坊を黙らせることにした。赤ん坊を高く持ち上げて、草の生い茂った地面に力任せに叩きつけた。

 母親は我が子の大惨事を目にして、今まで必死に保っていた忍耐の糸が切れた。そして彼いわく「気が狂ったかのように」泣き叫びはじめた。

 彼は激しく抵抗する彼女を屈服させようとして、繰り返し殴る蹴るの暴力を振るった。彼女は全身のいたるところに大きな痣と激しい流血の傷を負った。


 やがて彼女は犯人に抵抗するだけの力を失った。焦点の合わない目線を宙に浮かべたまま、その場に力なく倒れていた。

 抵抗する意志のなくなった彼女を抱え込むと、彼は車の中に彼女の身体を押し込んだ。

 赤ん坊は草むらに置き去りにされた。彼女はそんな我が子を無力に思いやることしかできなかった。



 彼は満身創痍となった彼女を自宅アパートに連れ込んだ。そこで彼女を監禁するようになった。

 一カ月の監禁生活の間、彼は最低限の食事を彼女に与えるだけで、あとは彼女の身体を繰り返し凌辱した。

 自宅での監禁生活が続く中でしだいに犯人は、彼女に対して興味や欲望を保つことができなくなった。

 犯人はぼろぼろの姿になった彼女を目にして、「こんな干からびた老婆のような奴はもう要らない」と思い、彼女を殺すことにしたという。


 犯人は台所から「ふとした思いつき」で包丁を持ち出すと、彼女の腹部に突き立てた。

 彼女は顔を歪ませると「うぅ」と鈍い呻き声を漏らした。

 彼女の痛みに対する苦悶の表情が、犯人の中に新たな興味を生むことになった。一人の女が苦しみながら死んでいく様子を、犯人はじっくりと観察したくなった。


 彼は太ももを包丁で串刺しにした。耳や鼻をそぎ、片目に包丁を突き立てた。

 手足の皮膚を削いで筋肉の滑らかな感触を楽しんだ。腹部を切り裂いて柔らかな小腸を外に引き出した。

 その一連の行為は、犯人自身でさえも狂気の域にあると感じられるものだった。それでも犯人は、自身の狂気性を新鮮な興奮と共にむしろ楽しんでいたという。


 彼女は狂おしいほどの激しい苦痛とともに最大限の悲鳴を上げた。

 しかしその悲鳴は、手拭いの猿ぐつわや発泡スチロールで作った防音設備のために、近隣の人たちが耳にすることはなかった。

 彼女はその苦しみを誰にも知られないまま、圧倒的な暴力と狂気の中で、絶対的な孤独に身を沈めてその短い命を暗闇の中に閉ざした。



 事件後すぐに犯人は逮捕されることになった。しかし犯人は法の裁きを受けることなく留置所の中で死んだ。死因は自殺だった。

 遺書は残されていなかったから、犯人が自殺した理由は今も判明していない。


 先生がこの事件によって受けた深い心の傷は最期まで消えることはない。

 もし先生が事件のあとこの世界にたった一人で残されていたら、先生のその後の人生は想像して余りある暗く悲しいものだったに違いない。

 そんな先生の人生を、あるいはその生きる意志を支えたのは、やはり娘である鈴さんの存在だった。そして娘は父親である自分が育てていくのだという強い使命感だった。


 一見すると世間によくいる仲の良いこの親子には、大切な家族を殺されたという悲しい過去がある。そのことを思うと私は、言葉に表せない深い懊悩を感じるのだった。



 鈴さんの作った料理が出揃ったところで依子さんが戻ってきた。先生と鈴さんはちゃぶ台に向き合い、夕ごはんを食べはじめるところだった。

 私を連れてそのまま家に帰ろうとした依子さんを先生は引き留めた。

「せっかくだから一緒にごはんも食べて行きなよ。今日は依子ちゃんのためにたくさん作ってあるんだから」

「そうだよ! ねえ一緒に食べよう」

 鈴さんも持ち前の明るい調子で依子さんを誘った。


 依子さんは「そこまでお世話になるのは申し訳ないです」と遠慮したが、先生は譲らなかった。

「どうせ今夜もお母さんは家に居ないんでしょう? 遠慮せずにごはんを食べて行きなさい。依子ちゃんのために多めに作っておいた料理がもったいないから」


 そこで私は、昨日から依子さんの母親が家にいないことを思い出した。娘を一人きりにして母親はどこをうろついているのかと私は強い憤りを感じた。

 皆の口ぶりからすると、母親が勝手にしばらく家を開けるのは以前からよくあることらしい。

 依子さんは迷っていたが「それではお言葉に甘えて」と言って鈴さんたちと一緒に夕食をいただくことにした。


 依子さんは鈴さんや先生と楽しそうに会話しながら、料理をあっという間に完食した。

 その後も身体を畳の上に投げ出して、リラックスした様子で鈴さんとのおしゃべりに花を咲かせていた。その時の依子さんは無邪気に、そして楽しそうに過ごしているように見えた


 依子さんは先生の家をあとにすることになった。先生は心配そうに声を掛けた。

「うちには遠慮せずにいくらでも泊まっていっていいんだよ」

 鈴さんも頬を膨らませながら名残惜しそうに言った。

「どうせなら一緒にお泊りしたかったなぁ」

「ありがとう。でもそこまで甘えるわけにはいかない。明日は朝から学校だしね」


 それでも夜遅い時間だったので、先生が車で家まで送るという申し出は依子さんも受け入れた。

 車には鈴さんも一緒について来た。依子さんと鈴さんは車の後列に並んで座り、車内でもずっと他愛のない会話をしていた。

 依子さんが自宅の前で車を降りると、鈴さんも一緒に外に出て、飽きることなく二人は話しつづけていた。運転席の先生は、それを自分から遮ることなく、黙って二人を待っていた。


 やがて鈴さんは、後ろ髪を引かれながらも助手席に乗り込み、親子を乗せた車は暗闇の中に消えて行った。

 依子さんは、車が見えなくなるまで二人にずっと手を振っていた。

 私は車窓にうつる親子の影が遠ざかって行くのを見つめながら、いつまでも二人のことを考えていた。

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