3, ありがとうと君は言った
気づくと私は布団の上で眠っていた。見覚えのある依子さんの布団だった。
私は目が覚めたばかりで意識が朦朧としていた。
どうして私はここにいるのだろう。自分の記憶を手繰り寄せるのに時間がかかった。それでも人間の頃の記憶と違い、ここに至るまでの記憶は戻ってきた。
私は依子さんの腕に抱かれて動物病院に運ばれた。病院に着いた時にはすでに落ち着きを取り戻していた。
獣医は一通り検査をしたが、異常は何もなかった。軽度の脱水があるくらいだった。
私は点滴を受けて依子さんの家に戻った。帰り道も彼女の腕に抱かれていた。いつの間にか私は眠っていた。目覚めると外は真っ暗で、時計は深夜を示していた。
私は誰もいない食卓でうつ伏せに寝ている依子さんを目にした。そこで夢の中の女子生徒についての記憶がフラッシュバックした。
私はその女子生徒がいる情景を思い出していた。
彼女は人気のない教室の窓際に座り、自分の机にうつ伏せで眠っている。自分の腕を枕にして、顔は窓側に向けている。その表情を私は見ることができない。
季節は秋だった。放課後の落ち着いた日光が教室に差し込んでいた。
彼女は紺のブレザーを着ている。チェックのスカートは長すぎることも短すぎることもない。そしてくすみのない革靴としわのない靴下を履いている。
彼女はおしゃれのために着崩したり何かをつけ加えたりすることはない。制服に無理やり着られている感じもない。彼女の元ではすべてがあるべき場所に収まっているように見える。
彼女はあたたかい日光を浴びて息を立てずに眠っている。そのまま微動だにしない。だからといって死んでいるのではないかと不安になるような不健康さもない。
まるで良くできた美しい絵画のように、彼女は過不足なくそこに存在している。
そこには彼女への憧れも含まれていたと思う。しかし中学生の私は彼女への想いも不明瞭なままだった。私は彼女が眠っている情景から目が離せなくなっていた。
彼女はいつも一人だった。誰かと一緒にいるところを見たことがなかった。彼女には友達がいなかった。しかしそのことを悲観している様子はなかった。
彼女はまったく寂しそうには見えなかった。自分が一人でいることを受け入れているように見えた。
私はそんな彼女を気がかりに思っていた。そこには彼女のことが異性として気になるという側面もあった。当時の私はそのことを自覚していなかったけれど。
私は一度だけ彼女の帰りをついて行ったことがある。彼女のうしろ姿を見かけた私は、無意識に彼女の方に足が向かっていた。
私は一人で家に帰っていた。とりとめのない考え事をしていると、やがて前方を歩く彼女の存在に気づいた。
彼女の歩いている姿は凛としていた。彼女は背筋を伸ばして前を見据えていた。そこには自分を無理に大人っぽく見せようとする堅苦しさはなかった。
彼女は無意識のうちに凛とした雰囲気を醸し出しているように見えた。ただしそこには思春期の少女らしい健康的なあどけなさも同居していた。
その微妙なバランスが彼女をより魅力的な美しい少女に形作っていた。
それからどのくらいの時間を歩いたのか私は分からなかった。彼女を追いかけるのに必死なあまり時間感覚に歪みが生まれていた。
中学生の私は緊張のために胸の鼓動が高鳴る時間を過ごしていた。
やがて彼女は家にたどり着いた。私はそのまま自分の家に帰ろうとした。
しかし彼女は間を置かずに家から出てきた。服装はブレザーにスカートのまま荷物だけを持ち替えていた。
それまで学校指定のかばんを持ち歩いていた彼女は、家から出てくると大きなギターケースを背負っていた。
彼女はこちらに背を向けて歩き出した。私は慌てて彼女のあとをついて行った。
彼女は町の中心の賑やかな一帯を抜けて、町はずれの駅にたどり着いた。
彼女はギターケースを背負ってホームに立ち、電車が来るのを静かに待っていた。次の電車が来ると彼女はそれに乗り込んだ。
私は彼女と同じ車両に別のドアから乗った。そして彼女が見える席に座ると、私はそこから遠目に彼女の様子を伺っていた。
彼女は二つ先の駅で降りた。そこはとなりの市の中心地だった。
電車が駅に止まり彼女が降りるのに気づくと、私は慌てて近くのドアから飛び降りた。
彼女は改札口を通って地上に出ると、やがて昔ながらの商店やビルやアパートが並んでいる地域に出た。
彼女の目的地はその中の小さなビルにあった。
彼女はビルの階段を上っていくと、三階のガラス戸を開けて中に入った。
そこはたくさんのギターが所狭しと並んだ楽器店だった。私は店内には入らずガラス越しに彼女を見ていた。
彼女は店の奥の小部屋に座っていた。私は彼女の背中だけを見ることができた。店の入り口に貼られたポスターを見た私は、彼女がここでギターのレッスンを受けていることを知った。
私は彼女が奏でるギターの音色を聴きたいと思った。しかし部屋の扉が閉じられると、私は諦めてその場をあとにした。
それから数日後、私は家族と一緒にふたたびその街に出かけた。
私たちはファミレスで食事をした後に映画を観た。そして映画館を出ると駅前の商業施設に向かおうとした。
そこで私は、ギターケースを背負った彼女の姿を目にした。私はすべてを忘れて彼女のことをぼんやりと眺めていた。
彼女は駅とも音楽教室とも違うどこかへ歩いていた。
私が立ち止まっていることに気づいた妹は「早くおいでよ」と私に呼びかけた。
彼女のことしか考えられなくなった私は、「ちょっと友達を見かけた」と言って家族と別行動を取ることにした。
私は無心になって彼女のあとを追いかけた。彼女はしばらくして住宅地の中にある小さな公園に入った。
彼女はギターケースを隣に置いて、公園の猫にエサをあげ始めた。それから夕暮れの空を見上げて、ギターの存在など忘れたようにぼんやりと過ごしていた。
夕暮れの公園には彼女の他にほとんど人がいなかった。何人かの子どもが遊んでいるくらいだった。
しばらくして彼女はおもむろにケースを開けて、大きなギターを取り出した。
彼女は最初、ぽろんと軽くギターの弦に触れた。そして「ゔん」と小さくのどの奥を鳴らすと、「あーあー」や「えーえー」と発声練習をするように声を出した。
そして彼女はほとんど行き交う人々のいない公園でギターの弾き語りを始めた。
彼女の歌声は小さかった。彼女は誰かに聴かせるためではなく、自分が歌いたくて歌いはじめたようだった。
それはあくまでも自己完結的な行為だった。
それでも彼女の歌声はとても素敵だった。彼女は透き通った繊細な歌声をしていたが、聴く者の心に深く沈んでいくような心地よい安定感もあった。
そして彼女が書いたと思われる歌詞が私の心を打った。その歌詞は彼女の歌声によく馴染んでいた。あるいはそのメロディーも彼女の歌声によく馴染んでいた。
私はその歌詞を今では詳しく覚えていない。
しかしその歌が世界の美しさを優しく歌い上げていたことだけは覚えている。
ただしそこには世界を無条件に賛美するような響きはなかった。むしろ消し去ることの出来ない悲しみが通奏低音のように流れていた。
それでもその歌に挑戦的でシニカルな響きはなかった。世界の悲しみをあふれるほどに内包していながら、それはあくまでも世界の美しさを歌っていた。
彼女の歌は自分の感性を越えていた。私はかろうじてその素晴らしさだけを理解することができた。
私は彼女の歌に聴き入っていた。日常の全てを忘れて、私は無心になって彼女の歌を聴いていた。
私はいつまでも飽きることなく彼女の歌を聴いていた。このまま彼女の歌を永遠に聴いていたいとすら思った。
私は気がつくと涙を流していた。それは何の前振れもなく起こっていた。
感情の揺さぶりがあって涙を流した訳ではない。彼女の歌に聴き入っているうちに、いつの間にか自然と涙があふれていたのだ。
私は自分が泣いていることに驚いた。そしてそのことを不思議に思った。
どうして自分は涙なんかを流しているのだろう。彼女の歌には涙のような目に見える感情表現は似つかわしくない。それは安易な感傷を超えたところで聴かれるべきものだ。
自分は決して単なる感動で涙を流している訳ではない。その涙は、彼女の歌に自分の何かが共鳴して心の奥から自然とあふれ出たものに思えた。
それは今まで一度も味わったことのない言葉に尽くしがたい経験だった。しかし私が彼女の歌を聴いたのはこれが唯一の出来事となった。
それからの私は彼女のことばかりを見ていた。無意識のうちに彼女の姿を目で追っていた。
ただし私は何もせずに彼女を遠くから見ていただけで、彼女に話しかける勇気はなかった。
しかしそんなある日、私に少しだけ彼女と関わり合いを持てる瞬間が訪れた。
私が公園で彼女の歌を聴いた翌日の月曜日、彼女は左腕に包帯を巻いて朝の授業中に姿を見せた。
私は彼女の姿を目にして思わず二度見をしてしまうほど驚いた。彼女の身に何が起こったのだろう。公園で見かけた昨日の彼女はいたって元気そうだったのに。
しかしこの日の彼女は、気分が塞いでいるのか全体的に元気がなさそうに見えた。いつもの彼女の凛とした輝きは影を潜めてしまっていた。
私は彼女の怪我を心配すると同時に、言い知れない奇妙な不安に襲われた。
私は何よりも彼女のことが気掛かりだった。しかし私は、元気のなさそうな彼女に話しかける勇気が出なかった。
それから数日後、私は退屈な授業を受け流しながら、一方で真面目に授業を受けている彼女を無心に見ていた。
彼女の左腕への心配もあったが、私は何よりただ彼女を見ていたかった。異性に淡い恋心を抱く世間の中学生が思わず相手を見てしまうのと同じように。
私が板書をノートに書き写していると、床に何かが落ちたような小さな音がかすかに聞こえた。
気になって教室を見回すと、彼女が机の前を落ち着きなく見下ろしていた。
私は今まで見たことがない彼女の焦りを目にして、彼女に無頓着なまわりの生徒たちに苛立ちを感じた。
そして彼女がものを落としたわずかな音すら聞き取った自分に驚いていた。
彼女が鉛筆を落としてすぐに授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
私はそのことにひと安心した。左腕を骨折していた彼女は自分で鉛筆を拾うことができなかった。
しかし彼女はまわりの生徒たちに助けを求めることができなかった。彼女はクラスの生徒たちと微妙な関係にあったからだ。
加えて、彼女は人見知りな性格をしていた。
だから彼女はほかの誰かに話しかけることができなかった。
彼女が凛とした輝きを放っていられるのは、自分自身の内的世界に身を置いている時だけだった。その世界を離れると彼女は自信のなさそうな中学生になってしまう。
とくにこの日はギターを弾けなくなったことで内的世界の盤石さを失っていた。そのために彼女は気弱な一面がいつもより強調されていた。
チャイムが鳴ると私はすぐに彼女の席に近づいた。
とはいえ私が正面から彼女に話しかけるのは、クラスでの目立たない立ち位置からも彼女への恋心からもなかなか難しいことだった。
そこで私は、彼女の後ろに座っている友達に話しかける振りをして近づいた。そしてたまたま気づいた振りをして、彼女が落とした鉛筆を拾うことにした。
私は鉛筆を渡すついでに彼女に話しかけようとしたが、私を見つめ返した彼女の瞳を直視すると途端に言葉が出なくなった。
あまりの緊張から言い淀んでしまい、私は顔を赤くしただけで終わった。
自分の席に戻った私はなんて情けないのだろうと自分を恥ずかしく思った。
それから数日後、私は一度だけ彼女と言葉を交わしたことがあった。しかも彼女の方から話しかけてきたのだった。それは階段の踊り場で互いにすれ違った時だった。
ある日の昼休みのことで、私は眠気に襲われてぼうっとしていた。
階段の踊り場に足を踏み入れたところで、上から彼女が降りてくるのが見えた。
私は彼女と突然出くわしたことでドキッとした。しかしそれ以上に私は午後の眠気に襲われていた。私は彼女への恋心すら忘れてぼんやりと彼女を見つめていた。
彼女はしばらく私の視線に負けないように見つめ返していた。
やがてふっと力が抜けたように表情を崩し、口元に小さく笑みを浮かべた。
それは私が見た夢と変わらない情景だった。しかし私の記憶にフラッシュバックした情景はそれだけでは終わらなかった。彼女はその場から立ち去ることなく私に近づいてきた。
まわりを見回して誰もいないことを確認すると、彼女は私の耳元に「ありがとう」とささやいた。
それから、今まで一度も見たことがない満面の笑顔を私に見せた。その笑顔は、私が今まで見てきた中でいちばんの素敵な笑顔だった。
私はこの笑顔を目に焼き付けたいという一心だけでそこにいた。
私は美しい星空を眺めるように、あるいは水族館での美しい色彩に目を奪われるように、彼女のことを真っ直ぐな目で見つめていた。
私たちが互いに見つめ合うというかけがえのない時間はおそらくあっという間に終わりを迎えた。
しかしその時の私はむしろその空間だけが世界から独立した永遠のように思えた。
やがて彼女は少しだけ顔を赤らめると足早にその場から立ち去った。
私はしばらく魂が抜かれたようにぼんやりと立ちすくんでいた。
それは私が目にした彼女の唯一の笑顔だった。私はあれほどの素晴らしい笑顔をほかに見たことがない。
私はその場に立ち尽くしながら彼女の笑顔を思い返していた。彼女の笑顔を今まさに目の前にしているかのように隅々まで克明に思い浮かべることができた。
同時に私は考えていた。彼女が言った「ありがとう」という言葉の意味を。
しかし当時の私は「ありがとう」の意味がどうしても分からなかった。
そしてその言葉の意味は、自分が卒業を迎える時まで分からなかった。
やがて私が大人になるにつれて、時の流れは彼女の笑顔や「ありがとう」という言葉を記憶の彼方まで押し流していった。
しかし今の私は強く思う。それは決して忘れてはいけないものだった。
世界中の誰もが忘れてしまっても、私だけは絶対に忘れてはいけなかったのだ。
なぜなら彼女の素晴らしい笑顔は、そしてそのかけがえのない歌声は、もう二度と目にすることも耳にすることも叶わないものだから。
最期に私を想ってくれてありがとう。彼女は私にそう言いたかったのだろうと思う。
彼女はもうこの世界には存在しない。
階段の踊り場で私に声をかけてくれた翌日、彼女は死んでしまったのだった。
彼女は学校の屋上から飛び降りて死んだ。しかし私はその日、学校を休んでいたはずだった。
私は彼女が死ぬところを直接目にした訳ではない。だからその夢の情景は私の想像がそのまま記憶に焼き付いたものだと思う。
その日の朝、私はかなりの高熱を出していた。私の両親は共働きだったので、その日は近所に住んでいた私の祖母が代わりに看病してくれた。
食欲がなかった私は、額に冷却シートを貼ってひたすら眠っていた。
昼すぎになって目を覚ました私は、食卓に座って祖母が作ってくれた卵がゆを口にした。食事を摂ったことで落ち着きを取り戻した私は、ふたたび睡眠を取ることにした。
私が次に目を覚ましたのは、町に夕方五時のチャイムが鳴った時だった。祖母は和室に布団を引いて昼寝をしていた。
私は小さな音で夕方のニュースを見はじめた。そこで私は目を疑わずにはいられない報道に接した。
自分の中学校が画面に映し出されていた。地元のテレビ局の記者は、昼休みに生徒がひとり転落死したことを伝えていた。
その時点では女子生徒とだけ伝えられ、氏名は公表されていなかった。
しかし私はニュースを目にした瞬間、冷や汗が一気にあふれ出すのを感じた。
私は死んだ生徒が彼女である可能性のほかに考えることができなくなっていた。
私はすぐに誰かと連絡を取りたかった。私は何軒か友人の家に電話をしたが、全員が留守にしていた。
彼女の自殺を知らされたのは、その日の夜のことだった。
友人の一人から折り返しの電話がかかってきた。その友人は自殺したのが間違いなく彼女であることを知らせてくれた。
私はそれ以降の話をほとんど聞いていなかった。私は脱力したように受話器を置くと、何も考えられず布団の中にうずくまった。
彼女が自殺したという事実を、私はうまく受け入れることが出来なかった。
私は全身に大きな震えを感じながら、食事をとることも眠りにつくことも忘れて気がつくと翌朝を迎えていた。
私は何も意欲が湧かなかった。しかし彼女の死を実感できずに納得もしていなかった私は、かえって学校に行かなければならないと思った。
昨日のニュースも友人からの電話も自分の頭が勝手に作り上げた悪い夢ではないかとすら思った。
しかし学校に行くと彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
代わりに彼女の机の上には小さな花が置かれていた。私はそのガラスの花瓶を叩き割りたくなった。
彼女が死んだにも関わらず、いつも通りにしか見えないクラスの生徒たちに対して、強烈な怒りが湧き上がってくるのを感じた。
私は高熱がよみがえったような頭痛に襲われた。立っていることすら難しい、今まで経験したことのない気分の悪さを感じた。
私はどうしても学校にいられなくなり、一時間目の授業を抜け出すとそのまま自宅に早退した。
それからの私はしばらく学校を休んでいた。
自分の中からすべての気力が消えていた。私は家を出るどころか布団から出ることもできなくなっていた。食欲はなく、テレビを観ることも風呂に入ることもしなかった。
眠気すら感じずに、自分の感情を見失ったままひたすら布団の中で過ごしていた。その間、私は誰とも顔を合わせず全く口を利かなかった。
不登校になって二週間後、私は友人たちに無理やり外へと引きずり出された。
それから見かけ上は元の生活に戻ることができたが、精神状態が完全に回復することはなかった。私は無感覚な日々を送るようになっていた。
彼女の死をきっかけに生まれた心の空洞は大人になっても消えることがなかった。むしろその辺縁を呑み込んで拡大しながらいつまでも私の中に存在していた。
彼女がなぜ死を選んだのかは分からなかった。彼女は遺書を残さずに死んだ。
そして彼女が自殺した理由は私にはどうでもいいことだった。彼女が消えてしまった事実が覆ることはない。私は彼女の私を悲しむだけで精一杯だった。
それでも彼女の自殺についての噂は私の耳に入ってきた。
彼女にはネグレクトを受けているかも知れないという噂があった。
父親の会社は経営が傾きつつあった。そして両親の関係は離婚寸前まで壊れていた。
彼女の母親は、血の繋がった生物学上の母親ではなかった。本当の母親は物心がつく前に病気で亡くなっていた。その後すぐに父親は再婚している。
再婚相手と父親との間に子供はいなかった。ひとりだけ生まれた子は赤ん坊のうちに病気で死んでしまった。
我が子の死で悲しみに暮れていた再婚相手は、前妻が生んだ子である彼女に愛情を持つことができなかった。
会社の経営で手一杯だった父親にも彼女を見る余裕はなかった。あるいは子供への愛情が薄かった彼にははじめからそのつもりもなかった。
彼女の両親がネグレクトをしていたという噂はおそらく事実だと思う。時には物理的な虐待という形にまで発展していたのかもしれない。
小さな頃から彼女は、部屋着のまま泣きながら歩いている姿をよく目撃されていた。
そして亡くなる前日も、涙で目を腫らしながら自宅近くを歩く姿が目撃されている。
私はそんな彼女の姿をうまく想像することができなかった。
彼女は家庭だけではなく学校にも大きな問題を抱えていた。
中学校に入学した当初、彼女はクラスの女子生徒たちからいじめに遭っていた。
その理由は分からない。おそらく加害者本人たちにも分かっていなかったのだろう。
ただ何となく彼女のことが気に食わない。勉強も運動もできる彼女はいつもひとりで澄ましている。彼女が実は人見知りだとは思いもしない。
おそらくその程度の理由だったと思う。
彼女へのいじめは無視や仲間はずれから始まった。しかしやがて彼女は暴力を受けるようになった。
彼女には腹部や背中など外から見えない部分にいくつも痣があったという。たばこの焼け跡が刻まれていたという話もあった。
彼女へのいじめ自体はそれほど長引かずに収束した。それは教師にいじめを気づかれたからだった。
しかしそれで問題が解決した訳ではなかった。いじめは終わっても校内での孤立は終わらなかった。
生徒たちは彼女への気まずさからかえって彼女との関わりを避けていた。
彼女は最期まで友達が出来ずにその人生を終えたのだった。
それでも彼女には音楽という逃げ場所があった。音楽を通じて心の内側に自分だけの世界を形作ることで、彼女は終わりの見えない孤独を耐え忍ぶことができた。
彼女の音楽との出会いは、亡くなった母親が残した一本の古いギターだった。ギターケースの中には小さく折り畳まれた楽譜が入っていた。
楽譜には亡くなった母親の名前が本人の筆跡で書かれていた。それは彼女にとって母親の唯一の形見となった。
母親が残した楽譜を自分もギターで演奏したい。それが彼女にとっての動機だった。彼女は自分自身の厳しい現実から逃げるように音楽に没頭することになった。
しかし彼女はある日突然ギターを弾くことができなくなった。
私が公園で彼女の歌を聴いたその夜、彼女は事故にあった。ギターを背負う彼女に一台のバイクが追突した。
バイクの運転手は無免許の大学生だった。油断した彼は運転操作を誤った。そして彼女は横転したバイクに背後から追突されたのだった。全身の打撲は軽傷で済んだが、彼女は左腕を骨折した。
それから彼女はギターを弾くことができなくなった。音楽を逃げ場所にしていた彼女にとってそれがどれほどの苦しみだったことか。
彼女が背負っていたギターは激しく損傷していた。彼女は母親の形見をなくしたのだった。それは彼女と母親との唯一の繋がりだった。
彼女が死んだ理由はいくつも考えられた。しかし本当の理由は誰にも分からない。誰にも知られていない出来事が彼女の身に起こっていた可能性もある。
いずれにせよ私は彼女の死を深く悲しみ、彼女のことを想って何度も泣いた。
そして依子さんの家で目が覚めた真夜中の私も、彼女を想って泣いていた。私が猫になってはじめて流したその涙はいつまでも枯れることがなかった。
そこで依子さんはゆっくりと目を覚ました。食卓にうつ伏せで寝てしまった身体の痛みを和らげるように全身の筋肉を伸ばした。そして台所で顔を洗うと簡単な朝食を作りはじめた。
気がつくと外は明るくなっていた。私は朝を迎えたことに気がつかないほど、初恋の彼女を想って涙を流しつづけたようだった。