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2, 孤独な狂乱者

 私はミケから聞いた依子さんとのエピソードを思い出していた。

 動物病院まで走っていく依子さんの揺れに身を任せながら。


 ミケはかつて怪我をした時、依子さんに助けられたことがあった。

 ミケが怪我をした理由は、オスの野良猫と真正面から取っ組み合いの喧嘩をしたからだった。そのオス猫は、とある理由で気が狂ってしまっていた。


 そのオス猫は名前をクロといった。クロはもともと裕福な家で飼われていた穏やかな性格の猫だった。懐が深くて社交性があり、地域の猫たちから慕われていた。

 猫の集まりがあるとよく顔を出して、その場を自然と取り仕切った。クロは機転の良さと包容力があり、どこかで喧嘩が起きた時はいつもクロが仲裁した。


 そんなクロに異変が訪れたのは去年の夏の終わりだった。

 クロは頭から血を流して路地裏に倒れていた。それを通りがかった人間が発見すると、クロは飼い主の家まで急いで届けられた。

 飼い主はクロの様子を見ると、慌てて動物病院まで連れていった。クロの頭には毛並みで隠れるほどの小さな釘がたくさん刺さっていたのだ。

 そしてクロが暴力を受けた一部始終を、近所の野良猫たちは陰から見ていた。


 クロは手術で何とか一命を食い止めた。しかし、クロの性格は大きく変化していた。以前の優しさや包容力を失って、粗暴な性格になっていた。

 他の猫たちとの軋轢が絶えなくなり、聞くに耐えない暴言や暴力を周囲に撒き散らすようになっていた。

 とくに弱い猫たちは、通りを歩くクロから目をそらすようになった。彼の心ない裏切りや暴力に傷つけられることも珍しくなかった。


 クロは理不尽な形で暴力的に性格を歪められていた。

 クロが暮らしていた家の近くに一人の少年が暮らしていた。彼は大人しい子供だったが、心の内側には歪んだものを持ち合わせていた。

 少年の心は外から見えない故に、密度の濃い暴力性に支配されていた。

 少年は自らの暴力性を抑えられなくなると、手当たりしだいに弱いものたちに暴力を振るった。


 その筆頭が小さな動物たちだった。

 飼っていたメダカを油の中で溺れさせた。ハムスターの足にマッチで火をつけた。ウサギをコンクリート壁に打ち付けて失明させた。

 人間には手を出せない分、動物たちにありとあらゆる残虐非道を尽くした。

 それを少年の両親は見て見ぬふりをした。世間体を保つために。あるいは自分たちへの暴力を恐れて。


 そして、少年の新たな標的としてクロは目をつけられた。

 少年はクロを人気のない空き地に連れ込んだ。そして目撃した猫たちが目を背けたくなるような暴力を振るった。

 少年はまず何度もクロを地面に叩きつけた。そして釘を取り出すとクロの手足に繰り返し打ちつけた。まるでキリストが磔にされた時のように。


 その時点で、クロは全身から血を流して満身創痍だった。それから少年は釘をクロの頭に打ち込んでいった。クロは釘を打たれるたびに、悲鳴をあげて表情を大きく歪ませた。

 しかし、クロの叫びや苦悶の表情は少年の心には響かなかった。そして陰で見ていた他の猫たちも黙って見ないふりをしていた。誰もクロを救おうとはしなかった。

 その時にクロが感じていた絶望は、想像を絶するものだったに違いない。

 クロの頭に打ち付けられた釘は、頭蓋骨を容赦なく破壊した。そして脳にも傷を負わせていた。クロは絶望的な苦しみと共にその場で気を失った。


 やがてクロは、日の差さない路地裏にひとり打ち捨てられていた。まるでボロ雑巾のように。クロは一命を留めたが、その脳は治療が出来ないほどに損傷を受けていた。

 クロは思うように肉体を制御できなくなっていた。そしてクロの類まれな知性や理性は永遠に失われていた。

 クロは悲しむことすらできなかった。自然な心を失って本能のままに生きるしか、道は残されていなかった。


 クロの飼い主はその変化に落胆してクロのことを可愛がれなくなった。そしてクロのことを捨ててしまった。 

 その不幸ないきさつから、地域の猫たちはクロのことを支えようとした。クロの変化に心を痛めて、その乱暴な振る舞いに目をつぶろうとした。

 そうすることが当然だと皆は思っていた。しかし皆の支えは続かなかった。

 クロの暴力は日を追うごとにひどくなった。そんなクロに猫たちはついていけなくなった。そして一匹ずつ猫たちはクロの元を去っていった。



 そんなクロと出会い、孤独な狂乱者となったクロに手を差し伸べようとしたのが、他でもないミケだった。


 ミケは正義感の強い猫だった。時としてその正義感にがんじがらめになり、自分でうんざりするほどだった。

 ミケはどうしてもクロのことが放っておけなかった。

 クロが乱暴を働いたと聞くたびに、ミケは彼を可哀想だと思った。誰からも見捨てられた孤独な彼を助けられるのは私しかいない。

 それが自分を救世主に見立てた傲慢な考えだと分かっていたが、それでもミケは彼を助けない訳にはいかなかった。


 しかし、脳の損傷によって正気を失ったクロを立ち直らせる方法はない。これは心の問題などではない。あくまでも身体的な問題だった。

 クロにとってそれは悲劇的な事故だった。人間の医者ですら治すことができなかったのだ。ただの野良猫でしかない非力なわたしにはクロをどうしようもできない。


 だからと言って、わたしまでがクロを見捨てる訳にはいかない。

 わたしのような正義感に縛られた猫でさえクロを見捨ててしまったら、それは世界に一人も彼を救うものがいないことを意味している。

 自分のしていることが割に合わないことは分かっている。自己満足でしかないことも分かっている。それでもわたしは、クロのために自分を犠牲にしなければならない。


 そうしてミケは、自分自身がクロの矛先になることを選んだ。ミケは他の猫より身体が大きく、その身体を俊敏に動かすことができた。

 クロに勝つことはできなくとも、食らいついていくことはできるだろう。

 クロがどこかで暴力を振るっていると聞くと、ミケはその場に駆けつけてクロの暴力を引き受けた。ミケであれば軽傷で済むことができた。

 それでも身体にはダメージが蓄積するが、「他の誰かが傷つくならば」とミケはクロの暴力を受けつづけた。


 しかし、ミケは誰にも感謝されなかった。むしろ猫たちは、身体の大きいミケがクロと戦うことは当然だと思っていた。

 ミケは猫たちに嫌われていた。持ち前の正義感が災いして融通が利かない彼女は、潔癖な性格だからこそ言動に棘があった。

 他の猫たちにとってミケは、クロと同じく町の厄介者に過ぎなかった。他の猫たちにとって二人の喧嘩は、厄介者の潰し合いとしか映らなかった。

 ミケに助けを求める猫たちも、心から彼女に感謝している訳ではなかった。猫たちはただミケの正義感を利用しているだけだった。


 ミケは猫たちの本心に気づいていた。それでもミケは自分のやり方を変える訳にはいかなかった。

 もしその道を違えてしまえば、ミケが今までのミケではなくなることを意味していた。今まで培ってきた自分という存在の芯を捨ててしまうことを意味していた。

 だからミケはそうする訳にはいかなかった。ミケは暴力の応酬を通してクロと向き合いつづけた。

 わたしだけはクロを見捨てる訳にはいかない。その純粋な思いが彼女を突き動かしていた。しかしそんな彼女のやり方は長続きするはずがなかった。


 ミケはある日の喧嘩の帰り道、途中で力尽きてしまった。それまで蓄積されていたダメージが臨界点を超えたのだった。

 そんなミケを猫たちは見て見ぬふりをした。確かに猫たちには何もできなかったのかもしれないが、それでも彼女に寄り添うことくらいはできたはずだ。

 猫たちはそもそもミケがどうなろうとも構わなかったのだ。

 そして倒れているミケを目撃した人間たちも見て見ぬ振りをした。人間にとってミケはただの野良猫に過ぎなかった。ミケが道端で倒れていようが日々の暮らしには関係がなかった。



 しかし、たった一人だけミケのことを助けてくれた人間がいた。それが、学校の帰りにたまたま通りがかった依子さんだった。


 依子さんは、傷ついたミケを急いで動物病院に連れていった。そこは依子さんの友達の父親が営んでいる動物病院だった。

 獣医は野良猫であるミケの治療をひそかに無償で引き受けてくれた。

 ミケは動物病院で治療を受けた後、依子さんに引き取られることになった。しかし、依子さんの家が貧乏なことを敏感に悟ったミケは、黙って依子さんの家をあとにした。


 ミケはその後もたびたび依子さんの家を訪れた。ミケは彼女のことが好きになっていたのだ。それはミケにとって珍しいことだった。

 むしろ生まれてからミケが好きになった唯一の相手かもしれなかった。

 それはおそらく二人の性格が似ていたからだと私は思っている。私から見た二人はその芯の強さを共有しているように見えた。


 クロの乱暴ぶりは日ごとにひどくなった。ミケは依子さんという安心できる存在を見つけたが、クロはどこまでも孤独な狂乱者のままだった。

 依子さんに出会ってからのミケはしだいにクロに近づかなくなっていた。自分がクロを助けるのだというミケの決意はやがて薄れていくことになった。


 クロに寄り添ってくれる者はどこにもいなかった。ミケには依子さんという逃げ場所ができたが、だからこそクロは最後の希望を失ったのではないか。

 あいつも孤独とは無縁の存在だったのだ。結局は自分だけが孤独な存在だったのだ。

 クロが本当にそう思っていたのかは分からないが、クロはその頃からますます暴力を撒き散らすようになっていた。


 暴力が蓄積して満身創痍になっていたミケは、いつしかクロと距離を置くようになっていた。そのことをミケはやがて後悔することになる。

 どうしてわたしは意思を貫くことができなかったのだろう。どうして最後にクロのことを見捨ててしまったのだろう。

 結局わたしの正義感はただのハリボテに過ぎなかったのか。だとしたらその正義感を存在の芯にしていたわたしは、何者でもなくなってしまうのではないか。

 そんな正義感などはじめから持つべきではなかったのではないか。


 いや、そんなことはどうでもいい。問題はクロがどう感じていたのかだ。

 クロはどんな思いでわたしを見ていたのだろう。

 落胆、憤怒、嫉妬、軽蔑……

 クロの気持ちを思うと、今でもミケはいたたまれない気持ちになるという。そして、その気持ちは私にもよく分かる気がした。



 やがてクロは死んだ。それはミケにとって突然の出来事だった。

 クロが死を迎えつつあるのを知ったミケは、今まで経験したことのない無力感に襲われた。わたしは結局クロに何もしてやれなかった。その悲しみが密度の濃い闇のようにミケを襲った。


 クロが死んだのはミケの寝床のすぐ近くだった。今は使われていない町工場の外壁の下でクロは動けなくなっていた。

 その頃にはクロの錯乱はさらにひどくなっていた。クロは自我を失い、自分が何者かさえ分からなくなっていた。クロの内側を占めたのは激しい肉体的苦痛だけだった。

 脳の損傷によって、全身の臓器や筋肉、神経の働きを統合できなくなっていた。そのために、正常の生命維持機能もままならなくなっていた。

 クロは生きているだけで何をせずとも耐えがたい苦痛を余儀なくされた。雑巾を絞るように全身を歪められ、バラバラに引き剥がされるような苦痛だった。

 その苦痛が自身への破壊衝動につながることはむしろ自然なことだった。


 その日、クロは満身創痍で町をさまよっていた。

 クロの体は肉体的な損傷のために正真正銘のボロボロな状態になっていた。

 そんなクロをふたたび激しい肉体的苦痛が襲った。クロはその苦痛に耐えられなくなり、過去最大の錯乱状態に陥った。

 クロはあらゆる判断がつかなくなり、苦痛から逃れるためにむしろ自分の身体を破壊することを求めた。

 クロはコンクリート壁に頭を何度も打ちつけた。苦痛の元凶である脳を破壊することを全身が渇望していた。

 クロは動けなくなるまで執拗に頭を打ちつけた。頭から大量の血が流れても自分の脳を破壊することをやめなかった。



 やがてクロは力尽きて倒れた。そこを依子さんがたまたま通りがかった。

 依子さんは散歩に出ていた。いつもの白いワイシャツに黒いスカート、赤いリボンという制服姿とは違っていた。

 古着の白いTシャツに毛玉のついた紺のパーカー、下は染料のはげた青いジーンズというラフな格好だった。


 その日は土曜日で学校は休みだった。休日なのに朝早く目覚めた依子さんは、午後になって散歩に出ていた。

 その隣にはミケがいた。ミケは早朝から依子さんの家に行くと、庭で虫たちを相手に遊んだり、花畑のそばでくつろいだり、彼女が読書している横で眠ったりした。

 依子さんが散歩に出ると、ミケもその隣を歩いて町に出た。そこで二人はクロの死に際に遭遇した。依子さんは倒れたクロを見て静かに涙を流した。


 それを見たミケはまず驚いた。あのクロのために涙を流す者がまだこの世界にいたなんて。

 でも彼女の涙は当たり前のものだった。なぜなら彼女はクロの事情を知らないのだから。

 彼女にとってクロは傷だらけで倒れている可哀想な猫だった。

 依子さんはクロの身体を繊細な手つきで優しくさすった。クロは虫の息だった。クロは依子さんのほっそりした手の動きに身を任せていた。

 その時のクロは穏やかな表情をしていた。まるで母の温もりの中で眠りについた子猫のようだった。ミケには少なくともそう見えた。


 クロは今とても幸せなのだとミケは思った。

 クロは苦難に満ちた悲しい生涯を送ったけれど、最期を迎えてようやくささやかな幸せを感じることができたのだ。

 人生の最期の時が穏やかであれば、それだけでクロの苦しみは報われたのではないか。ミケはそう思うことにした。


 クロは気づくと静かに息を引き取っていた。波乱に満ちたクロの生涯は穏やかな凪の中で人知れず幕を閉じていた。

 クロはおそらく自分でも気付かないうちにひっそりと生と死の境界線を越えたのだろう。

 クロの死に顔はなんだか幸せそうに見えた。クロのそんな表情をミケははじめて目にした。それがミケの目にしたクロの唯一の穏やかな表情だった。

 クロは依子ちゃんのおかげで、きっと最期には幸せに死ぬことができたのだろう。ミケは自然と涙がこぼれていた。


 ミケはクロとの日々を思い出していた。そこにはいい思い出など一つもなかった。それでもミケはその記憶を決して忘れてはいけないと思った。

 わたしは結局クロには何もできなかったけれど、せめて彼のことをいつまでも覚えていよう。それがわたしにとってのクロへの弔いなのだから。

 ミケはクロを想って終わりのない涙を流した。いや、本当はいつまでも泣いていたかった。しかし状況はそれを許してくれなかった。

 ここでクロをめぐる最後の事件が起こった。それはミケにとって神からの罰のように思えた。



 二人がクロを弔っていると、いつの間にか周囲を猫たちが取り囲んでいた。

 依子さんはただ純粋に驚いていたが、ミケの心中は穏やかではなかった。

 猫たちは明らかに異様だった。充血した目を大きく見開き、不揃いの歯を剥き出しにしていた。毛並みは逆立ち、うなり声をのどの奥から震わせていた。

 ミケは身の危険を感じた。しかしクロの死に気を取られていたミケは危険を察知するのが遅れた。猫たちの群れを無難に切り抜けられるとは思えなかった。


 ミケは悲嘆に暮れる依子さんの足を突いた。振り返った依子さんはすぐにその異変に気付いた。

 しかし依子さんは慌てなかった。冷静さを失っていなかった彼女は、猫たちの狙いが死んだクロであることに気づいていた。

 彼女はひとり言のようにつぶやいた。「狙いは死んだ猫だね」と。

 ミケはまるで自分が話しかけられたように聞こえた。そう言われると、確かに猫たちの目線はクロに集中していた。


 猫たちはクロに飛びかかった。ミケはその隙間を縫うように逃げ出そうとした。

 しかし依子さんは逃げようとしなかった。彼女はクロに覆いかぶさって捨て身の盾となることを選んだ。

 ミケにはそれが賢い選択とは思えなかった。最初は自分だけ逃げることも考えた。

 しかしミケにはそれができなかった。自分の意思とは裏腹に、ミケの足は猫たちに襲われる依子さんの方に向かった。

 ミケはどうしても依子さんを見捨てることができなかった。

 わたしにとって依子さんは、自分が思っていた以上に大切な存在になっていたらしい。ミケは決死の覚悟で猫たちの中に飛び込んだ。


 猫たちにとってはクロへの復讐を邪魔する二人も敵だった。今までクロにひどい暴力を受けてきた。失明した猫や片腕を失った猫、ひいては命を落とした猫もいた。

 猫たちにとってクロは史上最悪の犯罪者だった。私にもその気持ちは理解することができた。たとえクロがすでに死んでいたとしても、それでも何かをせずにはいられない。

 しかし私には亡くなった命を慈しむ依子さんの気持ちもよく分かった。 

 私はかつて人の命に関わる仕事をしていた。そのために何度も涙を流したという漠然とした記憶があった。

 事情の知らない依子さんにとって、クロは傷だらけで死んだ可哀想な猫なのだ。彼のことはせめてどこかに埋葬してやりたい。そう思うのも無理はなかった。


 つまり猫たちにも依子さんにも正義があった。猫たちには仲間の敵討ちという正義が、依子さんには死者を弔うという正義があった。そしてミケにも依子さんを守るという正義があった。

 この争いにはどこにも悪など存在しない。その事実が私を憂鬱にした。

 人間の頃、新聞やテレビを通じて毎日のように味わっていたこの憂鬱な感覚を、どうしてまた経験しなくてはならないのか。

 もはや私には、人間の頃に染みついた憂鬱を消し去ることなどできない。そう思うと私は余計に憂鬱な気持ちになった。


 猫たちが退却した頃には、依子さんもミケも傷だらけになっていた。依子さんの服はボロボロになっていた。露出した肌からは血が流れていた。

 そして依子さんをかばったミケも、全身が傷だらけになっていた。

 死んだクロをかばってうずくまったままの依子さんをミケは目にした。そんな彼女の姿にミケは心を揺さぶられていた。

 見ず知らずの死んだ猫のために、自分を犠牲にできてしまう彼女とはいったい何なのだろう。ミケは言葉にならない感情の揺らぎを感じていた。


 依子さんは、死んで冷たくなったクロを抱えて家に帰った。彼女には、自分たちの傷を手当てするよりもクロを埋葬する方が最優先だった。

 ミケは早く傷の治療をして欲しかった。正直なところクロの死体はどうでも良かった。

 クロはもはやただの肉塊に過ぎない。生命とは呼べない代物だった。死んだ者はもうどうにもならない。

 生き返ることのないその肉塊をどうしてクロと呼べるのだろう。クロが死んだことは悲しいけれど、ミケにとってクロは実体を持たない過去の存在となっていた。


 しかし依子さんの真摯な姿を見ていると、ミケはクロを埋葬してやりたいという気持ちになっていた。

 依子ちゃんがそれを望むなら、わたしが従わない理由などない。

 ミケが猫たちと対峙することを選んだのは、クロのためではなく依子さんがそれを望んだからだ。それが依子さんを大切に思うミケの素直な気持ちだった。

 依子さんはクロの亡き骸を自宅の庭に埋葬することにした。

 花畑のそばに穴を掘ってクロを寝かせると、埋めた土の上に小さな花を植えた。作業が終わると二人はそのままクロの墓を見つめていた。



 気づくとあたりは暗くなっていた。その闇が二人の心にはよく馴染んでいた。依子さんは悲しみに暮れ、ミケはやり場のない罪悪感に揺れていた。

 しばらくすると依子さんは町に向かってふたたび歩きはじめた。ミケは慌てて彼女について行った。そして二人は動物病院を訪れた。

 依子さんは自分を後回しにしてミケの治療を優先したということだ。ミケはもはや驚かなかった。彼女がそういう人間だということはすでに分かっていたからだ。


 ミケが抱いたのは驚きや疑問ではなく、純粋な畏怖の気持ちだった。彼女には人間離れした仙人のようなところがある。それはミケに不気味な感覚を呼び起こした。

 生き物というのは本来そこまで清廉潔白ではいられないはずだ。欲望や利己心があるのが普通であり、むしろそれらの存在が人間らしさなのではないか。

 彼女にはまっとうな人間臭さが不足している。不健全なものをたくさん抱え込んでこそ、人間は健全と呼べるのではないか。


 とにかくミケは、動物病院で傷の治療を受けることになった。診察時間は終わっていたけれど、獣医はそれを無償で引き受けてくれた。

 ミケは全身に消毒液を塗られ、その上から包帯を巻かれた。動きづらくなったことがミケには少しだけストレスだった。獣医は言った。

「全身に傷がある割に、傷の深さは大したことがなかったから、包帯はすぐに外せると思う」


 一方で依子さんは病院に行こうとしなかった。

 このままでは傷口から感染を起こしかねないから、すぐに病院で治療を受けるようにと獣医は言ったが、依子さんは首を縦に振らなかった。

 お金がないからというのがその理由だった。依子さんの家庭環境を知っていた獣医はそれ以上、強くは言えなかった。しかし彼女の怪我を放っておく訳にはいかなかった。

 そこで獣医は自分で怪我を診ることにした。

 人間の診療は専門外だったが、応急処置であれば自分でも何とかできると考えた。獣医は消毒液を依子さんの手足に塗った。


 二人の応急処置が終わると、獣医はここで休んでいくように言った。

 依子さんはこれ以上世話になることをためらったが、思った以上に疲労が蓄積していた彼女は、獣医の言葉を受け入れた。

 獣医は付け加えるように言った。体調に少しでも異変があったらすぐに町の病院にかかるように。医療費は私がすぐに用立てるから。

 二人は獣医の自宅の和室を借りると、あっという間に眠りについた。二人は包帯だらけのまま互いに頬を寄せ合っていた。

 そして二人は食事を摂ることもなく、翌朝まで一緒に眠っていた。二人がそうして一緒に夜を過ごしたのは、これがはじめてのことだった。


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