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13, 運命に抗う

 私は、直感に導かれるままに走り出した。

 私が向かったのは依子さんが通う学校の屋上だった。


 私には、人間だった頃のかつての記憶が蘇っていた。

 自分が中学生だった頃、学校の屋上から転落して死んだ女子生徒を思い出していた。

 私にはどうしても彼女と依子さんの姿が重なって見えた。


 急がなければ依子さんが死んでしまう。

 あの女子生徒のように依子さんが世界から消えてしまう。

 私は息が切れるのも構わず、自分の限界を超える速度で走り続けた。


 私は、学校の屋上にたどり着いた。

 自分でも驚いたことに、そこには依子さんの姿があった。


 依子さんは、屋上を囲んでいる金網に手をかけて、晴れた青空をぼんやりと眺めていた。

 そして両腕に力を込めると、依子さんは金網を乗り越えようとよじ登りはじめた。


 私はそこで思わず叫んでいた。

 自分がもはや人間ではなく、猫であることは忘れていた。

「死んではダメだ! 依子さん」


 依子さんは反射的に金網から飛び降り、こちらを振り返った。

 彼女の目には明らかに驚きの色が浮かんでいた。

 私は構わずにつづけた。


「絶対に死んではいけない。依子さんには死んでほしくない。

 依子さんが死んでしまったら、私も絶望して死んでしまう」


 私を目にした依子さんの口は力なく開いていた。

 状況に理解が追いつかないようだった。


 それでも依子さんは、目の前で持ち上がっている事態になんとか順応しようとしていた。

 依子さんは言った。

「……これはわたしの夢ではないんですよね? 猫がわたしに話しかけているのは」


「そうだよ、これは夢なんかではない。ここは間違いなく現実の世界だ。

 今ここで誰かが死ねば、そこには本物の血が流れる。その死は間違いなく現実の死だ」


「もしかしてあなたは、いつもわたしのそばにいてくれたあの猫さんですか?」

「そうだよ……そうです。いつも依子さんに付きまとってごめんなさい」


「ううん、謝らないで。むしろちょっと嬉しかった。

 あなたのおかげでわたしの孤独はほんの少しだけ癒されていた。

 ねぇ、猫さん。あなたの名前はなんて言うの?」


「すいません。私にはまだ名前がないのです。

 猫になる前は人間として生きていたんですが、私はその頃の名前も忘れました」


「そうなんだ……。前世が人間だったからあなたは言葉を話せるの?」


「それも理由の一つだと思うけど、それとは関係なく言葉が話せる猫もいます。

 そして私たち猫の言葉が分かる人間も存在します。決してあなただけではないです。

 だから、あなたは決して頭がおかしくなった訳ではありません。それは保証します」


「そっか。なら良かった。

 死にたい気持ちに支配されているせいで、わたしの頭がおかしくなった可能性も考えたから。

 ねぇ、猫さん。わたしがあなたに名前をつけてもいいですか? 名前がないと話しにくいし」


「依子さんが私の名前を……? それは私にとってこの上なく嬉しいことです。依子さん、ありがとう」


「じゃあね、あなたの名前は……。今日は天気がいいから、ソラにしようかな」

「ソラ……なんだか自分にはもったいないくらい良い名前だ。依子さんありがとう」


「どうしたしまして、ソラさん。あなたのせいで死にたい気持ちがどっかに行っちゃった。

 きっと後からまたよみがえって来ると思うけど」



 依子さんが死のうとするのをひとまず止めたことで、一安心した私は急に呼吸が苦しくなるのを感じた。

 この屋上に来るまで、自分が相当無理をして走っていたことを、私は思い出した。

 私はぜいぜいと荒い呼吸をしながら、その場にへたり込んでしまった。


「すいません。ここまで死に物狂いで走ってきたので、急に疲れがどっと出てしまって」

「もしかしてわたしのことを探していたの? だとしたら本当にごめんね」


「鈴さんがあなたを探し回っているところにたまたま遭遇したんです。

 それで、もしかすると依子さんはここにいるじゃないかと直感しました。

 特にはっきりとした理由はないんですけど……」


「そう……鈴が……」

 依子さんは意気消沈した様子で、何かを考え込むように言葉を漏らした。


「まさかわたしを探してくれているなんて。鈴にも悪いことしちゃったな……」

「鈴さんはたぶん、依子さんのことが大好きだと思いますよ。

 鈴さんのことも今までずっと見てきたので、私にはなんとなく分かります」


「そうなのかな……本当にそうだと良いんだけどね。

 でも、たぶん今のわたしのことなんて、鈴はもう全然好きじゃないと思うよ」


「なんで依子さんはそう思うんですか? 私にはそのようには見えないけれど」


「理由を聞かれると困るけど、わたしには誰かに好かれる要素があるとは思えない。

 わたしはすぐに逃げ出すような卑怯な人間で、弱くて何もできない無力な存在。

 だから、誰かを裏切ることはあっても、わたしが生きていて誰かのためになることはないの」


「そうなんですか? 私にはちょっと考え過ぎな気もするけど」


「そうなの」依子さんは確信を込めてそう言った。

「考え過ぎなんていうこともない。それは動かしようのない事実なの。

 太陽がそこにあるのと同じくらい確かなこと。悲しいけれど」


「そうですか……」

 このまま同じ話をしても埒が開かない、依子さんの考えを覆すことはできないと思った私は、ひとまず話題を変えることにした。


「ところでなんですが、依子さんは私が言葉を話すことに本当に気づいていなかったの?

 なんだか時々、依子さんと意思疎通しているような気持ちになることがあったから」


「そんなの気がつくわけないじゃん。現代の科学的常識とは完全に反しているもの。

 自分がもし猫と話せることに気づいたとしても、周りの人たちに頭がおかしくなったと思われるだけだし、わたしだって自分自身がおかしくなったと思うに決まっている」


「なるほど。確かにそう言われたらその通りだ」


「でも、改めて思い返すと、ソラさんがそばにいてくれたとき、わたしは何となくソラさんがわたしの気持ちに寄り添ってくれているような気がしていた。

 それはやっぱり気のせいではなかったっていうことだよね。今までありがとう。ソラさん」


「いや、そんなことは……」私は少しだけ頬が赤くなるのを感じた。


「でも、もう大丈夫。ソラさんがこれ以上わたしなんかに煩わされる必要はない。

 きっとわたしのことが気掛かりで、やむを得ずわたしのそばにいてくれたんだと思う。

 今までソラさんを縛りつけてごめんなさい。ソラさんにはもう迷惑をかけないから」


「迷惑だなんてあるはずがない。私はただ依子さんのことが好きで、近くに居ただけだ」


「ありがとう。ソラさんは優しいね。

 こんなわたしに、そんな言葉を掛けてくれるなんて。


 でもね、ソラさん。本当のわたしは、誰かに優しくされる資格なんて無いんだよ。

 ソラさんは気づいていないかもしれないけど、本当のわたしはとても醜い人間なの。


 わたしはそんな自分の姿を今までさんざん目にしてきた。吐き気がするくらいたくさん。

 そして、そんなわたしをお母さんも悟くんも、そして鈴もみんなが知っている。


 だからみんなわたしの前からいなくなった。

 それは当然の報いだから仕方がないの。

 ソラさんもわたしには関わらない方がいいよ。いつかソラさんも不幸になるから」


 依子さんはそう言って、悲しそうに空を見上げた。


「その心配はないよ、依子さん。私はもう既に十分すぎるくらい不幸だ。

 これ以上、不幸になんてなりようがない。少しだけ、私自身の話をしてもいいかな?」

「ソラさんの話?」

「うん。人間だった頃の、僕の話」


「別にいいけど。でもソラさん、そんな話をしてつらくならない?」

「大丈夫だよ。今までさんざん思い返してきたことだからね。ありがとう依子さん」

 そして私は、自分自身の過去を、依子さんと一緒に辿りはじめた。



「依子さんは自分のことを何もできない人間だって言ったけど、僕だってそうだ。

 僕は今まで、それこそたくさんの人の命が失われていくのを見てきた。


 そしてその度に、自分がいかに無力であるかを痛感してきた。

 自分がいかに卑怯であるか、いかに簡単に人を傷つけてしまうかを思い知らされてきた。


 その中でもとりわけ何人か、自分の中に色濃く存在し続けている人たちがいる。

 僕は彼らのことを夜ごとに思い返しては眠れなくなった。


 二十代の頃から僕はうつ病を患っていたんだけど、とりわけ晩年の僕は重度の不眠症状に悩まされていた。

 死の間際にはどんな睡眠薬も効かないくらいに眠れなくなっていた。


 僕は死ぬまでずっと激しい後悔に苛まれ続けていた。自分が助けられなかった人たちのことで。

 あるいは自分が死に追いやったかもしれない人たちのことで。


 その中でも、僕にとってとりわけ重い十字架になっていたのは自分自身の妻だった。

 僕は、妻を自殺で亡くしているんだ。おそらく僕自身のせいもあって。


 妻が死を選んだ正確な理由はわからない。おそらく妻自身もよくわかっていなかったと思う。

 日記のようなものは残していたけれど、ただ死にたいという気持ちの変遷が綴られていた。

 どうして死にたいと思ったのかは、ただどうしても死にたくなったからとしか言えなかった。


 ある日の朝起きたら、妻は部屋のドアノブに首をくくって死んでいた。

 その時の僕の衝撃はあえて言うまでもないと思う。


 僕は自分の最愛の妻を亡くしたことで、絶望の底に突き落とされた。

 しばらくはうまくものごとを考えることすらできなかった。

 ただ部屋のすみで茫然自失で過ごしていた。 

 そのうちに僕は自分を責めるようになった。


 どうして自分は妻の苦しみに気づいてやれなかったのか。

 どうして僕は妻の気持ちを理解していなかったのか。

 僕は妻が死ぬまさにその時まで、彼女が死にたいと思っていることに全く気づいていなかった。

 むしろ出会った頃と比べて心は穏やかになったと思っていたくらいだ。


 そんな何も分かっていなかった僕だからこそ、妻は何も打ち明けられなかったんだと思う。

 僕は妻を愛していると思っていながら、彼女の理解者には全くなれていなかった。

 ずっと一緒に暮らしていたのに、僕は妻の味方になれていなかった。

 そう気づいた僕は、自分のことを激しく憎んだ。


 もしかすると僕の今までの理解のなさが、妻を最後に追い詰めたのかも知れなかった。

 たとえどんなに妻が苦しんでいたとしても、僕が妻のことを理解して寄り添ってやれていれば、妻が自殺するまで追い詰められることはなかったと思った。

 つまるところ、最後に妻を追い詰めたのは自分だったのかも知れない。

  

 僕は自分のことを重い十字架を背負った罪人だと思った。

 自分は人生が終わる最後の時まで、その罪を贖い続けなければならない。

 妻を死に追いやった自分は死ぬまで幸せになることを許されない。

 僕は最後まで本気でそう思い続けていた。


 でも今は、それは間違いだったのではないかと思うようになった。

 むしろ自分には幸せになる義務があったのではないかと後悔するようになった。

 それは、自分が死んでしまった今だからこそ思うことだ。


 そもそも人間の僕はなぜ死んだのか。

 僕は誰かが死ぬはずだったことと引き換えに、ある意味では身代わりで死んだようなものだったんだ。


 もちろん、僕自身はその誰かのせいで死んだと思っているわけではない。

 あくまで自分の死は自分自身だけが背負うべきものだ。

 その人には僕のことで一切、負い目を感じてほしくない。

 むしろ自分の分だけ、彼女にはよりいっそう幸せに生きていってほしい。それが僕の変わらない願いだ。


 そう考えると、妻もそうだったのではないかと思い始めた。

 死に追い詰められてしまった自分とは引き換えに、僕にはむしろ幸せになって欲しかったのではないか。


 そう考えると、僕は死ぬまで愚かなままだったのかも知れないと自分を恥じた。

 自分は愛する妻の分まで幸せにならなければならなかったんだ。


 妻の死を絶望している権利は自分にはなかった。僕が不幸になることは許されなかった。

 僕には幸せになる義務があった。

 なぜなら妻がきっと最期までそれを望んでいたから。


 だから依子さんも死んではいけない、というのは押し付けがましいのかも知れない。

 僕のことと依子さんのことは全くの別問題だ。


 それでも僕は依子さんには死んでほしくないと思う。

 なぜなら、依子さんを残して亡くなった人たちは、君のお母さんや悟くんは、君が死ぬことを望んでいるわけではない。君の不幸を望んでいるわけではない。

 むしろ、依子さんには幸せになって欲しいと思っている。


 それが彼らの願いなのではないか。僕はそのように考えている。

 その考えを依子さんに強制するのは違うのかも知れないけれど」


 依子さんは何も言わずに私の話を聞いていた。

 彼女の表情からはどんな思いを読み取ることもできなかった。

 私はそれでも構わずに話を続けることを選んだ。


「僕がなぜ死ぬことになったのか。その理由も僕に話させてほしい。

 依子さんはそんなことなんて何も興味がないかも知れないけれど。


 僕はその時、日曜日の昼過ぎだったんだけど、ある繁華街の中をふらふらと歩いていた。

 その日も僕は絶望の底にいて、自分の思考は混沌としていた。


 僕がその場所を歩いていたのは特に理由がある訳ではなかった。

 頭の中が色々な考えで無意味に回り続け、疲労と憂鬱で部屋に籠っているのが耐えられなくなった僕は、目的もないままとりあえず外に出た。


 そして、本能のままに街を徘徊し続けた。

 自分が今どこにいるのか、僕にはほとんど把握できていなかったと思う。


 そしてその時、自分が何を考えていたのかもはっきりとは覚えていない。

 たぶん、意味のあることは何も考えられていなかったと思う。

 混沌とした不明瞭な思考の中を、当てもなくさまよい続けていた状態だった。


 もしかすると僕は死にたいとすら思っていたのかも知れない。

 今となっては正確なところは判然としないけれど。


 そんな時、僕の耳に何かがつんざくような甲高い音が響いた。

 最初はそれが何を意味するのかうまく判断できなかった。

 でも、もう一度その音が響いてきて僕は理解した。

 それは誰かの悲鳴だったんだ。


 僕は反射的にあたりを見回して悲鳴の出所を探した。

 すると、繁華街の道路の真ん中でたくさんの人たちが不自然に右往左往しているのが見えた。


 僕は最初のうち、何が起きているのか純粋な好奇心を持った。

 その瞬間は、それまでの憂鬱とか絶望とかをどこかに忘れていたと思う。

 僕は不自然に動き回る群衆の方をじっと見ていた。そして次第に状況を理解した。


 大学生くらいの若い男が大声を上げて、ナイフを振り回していたんだ。

 地面のところどころに赤い血のようなものも見えて、彼が実際に人々を切りつけているのが分かった。

 死人が出ているのかどうかは判断できないけれど、少なくとも怪我人は出ている状況だ。


 僕は気がつくと、反射的にその男の方に走り出していた。

 それは自分でも驚くほどだった。

 僕は自分のことを本来そういう危険から真っ先に逃げ出す人間だと思っていたから。

 僕はたぶん、体を張って男の動きを封じ込めようとしたのだと思う。


 でも僕は途中で行き先を方向転換することになった。

 男のところまではまだ少し距離があったんだけど、その男はすでに狙いを定めてひとりの妊婦に近づいていたんだ。

 僕はこの男が若い妊婦を殺そうとしているのだと直感した。


 ちょうどその時、出産直後に殺された高校の同級生のことが頭にフラッシュバックした。

 また自分のまわりで誰かが死ぬ。その直感が僕をひどく恐怖させた。

 もう二度と人が理不尽に死ぬのを目にしたくない。

 その強い気持ちだけがその瞬間の僕を突き動かしていた。


 僕は、地面に座り込んで動けなくなった若い妊婦に全身で覆い被さった。

 冷たい何かが自分の背中に入り込んでいく感覚があった。

 最初のうちは痛みも何も感じなかった。完全な無感覚の中にいた。


 体感では数秒間くらいの無感覚の時間が過ぎると、まず自分の身に起こったのは全身の脱力だった。

 突然、自分の体を支えられなくなり、僕は地面に倒れ込んだ。

 それでも妊婦の体を避けるように、倒れ込む時には反射的に自分の体をねじっていた。


 それから地面に全身がぶつかる鈍い痛みがして、そのまま急速に意識が遠くなっていくのを感じた。

 朦朧とした意識の中で、背中をようやく鋭い痛みが走ったけれど、その痛みに苦しむ前に僕の意識はもう消失していた。


 そのまま僕は死んだのだと思う。

 次に目が覚めた時、僕はもう猫になっていた。

 人間の頃の記憶は曖昧だったけれど、その代わりに異常なほどの解放感があった。

 僕はしばらく自分が人間だった事実を忘れて、猫として気ままに日々を送った。


 けれども心のどこかにずっと違和感はあった。

 本来ならば直視しなければいけない物事から、ずっと目を逸らしている感覚があった。

 その頃の自分が、それをはっきりと認識しているわけではなかったけれど。


 そんなふうに成り行きで学校の猫として怠惰な日々を送っていたある日、僕は依子さんと出会った。

 それまでは学校の人たちに全く興味を持っていなかったけれど、依子さんの目を見ると、どうしても君のことが気になってしまった。


 うまくは言えないけれど、ネガティブなシンパシーのようなものを感じていたんだ。

 それで僕は依子さんについて回るようになった。自分勝手なことをしてごめんなさい。


 依子さんのそばで過ごしていく中で、少しずつ僕は人間だった頃の現実に向き合うようになった。

 今では僕は、人間の頃の記憶をほとんど取り戻していると思う。

 その記憶のほとんどはお世辞にも気持ちがいいとは言えないものだけれど。


 そして驚くべきことに、その記憶の中にはなんと依子さんもいた。

 僕はまだ人間だった頃、実はすでに依子さんに出会っていたんだ。

 まだ生まれたばかりの赤ちゃんだった君に」


 依子さんの表情はそこで初めてわずかに動いた。

 その目にはほんの少しだけ驚きの色が浮かんでいるように見えた。


「僕はまだ若い頃、医師として働いていたことがあったんだ。

 結局、しばらくして臨床現場からは離れてしまったけれど。

 僕はこの職業に向いていない、医師になってはいけない人間だと思ったから。


 社会人としての最初、僕はある大きな病院で研修医として働き始めた。

 医師になって間もない頃、僕は一ヶ月間だけ産婦人科で研修していたことがあった。

 そこで産婦人科の指導医のもと色々な経験をさせてもらった。

 僕はその頃、妊婦だった君のお母さんと出会っているんだ。


 君のお母さんは出産間近ということで産科病棟に入院していた。そのお腹はとても大きくなっていた。

 彼女が毎日とても幸せそうにお腹をさすっていたことを覚えている。

 そんなある日、僕は回診の後で君のお母さんに呼び止められた。


「久しぶり。私のことを覚えている?」

 彼女は僕にそう声をかけた。けれども僕は正直なところ彼女を思い出せなかった。

 それで作り笑いのまま困惑していると、彼女は笑顔でこう言った。

「まあ忘れていてもしょうがないよ。私たち小学校の同級生だったんだよ」


 僕はそこで一気に彼女のことを思い出した。小学生の頃、確かに同じ名前の同級生の女の子がいた。

 見た目の雰囲気がすっかり変化しているから、その子と彼女のことが頭の中でうまく一致しなかったんだ。


 彼女とは小学生の間ほとんど話したことはなかったけれど、それでも僕は彼女のことをよく覚えていた。

 なぜなら彼女は、小学校で唯一、六年間ずっと同じクラスだったから。

 しかも彼女は同じマンションのすぐ近くの部屋に住んでいた。


 人見知りだったせいか、あるいは異性という気まずさもあったのか、僕らはほとんど言葉を交わしたことがなかった。

 それでも僕らは、お互いのことをちゃんと認識していた。

 恋心とかはなかったけれど、なんとなく仲間意識のようなものは感じていたと思う。

 僕はつい声が大きくなって彼女と話した。


「久しぶり! すっかり大人の女性に変わっているから誰だか全然分からなかったんだ」

「思い出してくれてありがとう。中学生に上がるタイミングで私が引っ越しちゃったから、再会するのは小学生以来かな」


「一気に懐かしい気持ちが込み上げてきたよ。ついこの前までは子供だったはずの僕らが、子供を授かる年齢になっているなんて。なんだか不思議な感じがする」

「確かにね。中身の方はまだまだ子供のままなんだけれど」


「ほんとに。子供の頃は、二十代後半なんてもう立派な大人に見えたよ」

「ねぇ。時間の流れがどんどん早くなって、正直なところ歳をとるのが怖いくらい」

「わかる。僕はまだ社会人としての自分に全く馴染めていない」

「私もお母さんになることが少し怖い。自分なんかに母親の役目が務まるのかって」


「すごいよ、君がお母さんになるなんて。

 指導医の先生が他のお母さんに言っていたけど、すぐに立派な母親になろうとする必要はなくて、少しずつ自分なりのお母さんになっていけばいいんだって」


「その先生、すごくいいことを言うね。

 私もあんまり自分だけで背負い込まずに、少しずつ良いお母さんになれるように頑張るよ。

 すぐに自分だけで抱え込んじゃうのが、私の欠点だから」


「実は自分にもそういうところがあって。僕も自分ひとりでいろんなことを抱え込まないように気をつけるよ」

「これから、お互いに頑張ろうね」


 僕たちはそんな話をした。


 そして僕は、君のお母さんの出産にも立ち会わせてもらった。

 そうして依子さんは生まれた。僕は、君がこの世界に生まれた瞬間を知っている。

 そう考えると、僕らが今こうして意外な形で再会しているのが不思議なことに思えてくる。


 依子さんが生まれた瞬間、君のお母さんはあまりの感動に泣いていた。

「人生でこんなに幸せなことは他にない。この子が生まれてきてくれて本当によかった」

 君のお母さんはそう僕に教えてくれた。


 依子さんは祝福されてこの世界に生まれてきた。

 依子さんの存在は、間違いなくお母さんにこれ以上ない幸せをもたらしてくれた。

 そして、その後の彼女の人生においても、絶望の底を照らしてくれたのは依子さんだった。

 何年後かにまた病院で再会した時、彼女は目を潤ませながら僕にそう言っていた。


 少なくとも、君のお母さんにとって、依子さんは不幸をもたらす存在ではない。

 むしろ、かけがえのない幸せの根源だったと僕は思っている。


 依子さんには少なくとも、お母さんのことでは自分を責めないでほしいと思う。

 むしろ、お母さんは間違いなく依子さんの幸せを望んでいた。おそらく、自分自身の幸せよりも遥かに強く」

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