1, 猫に生まれる
気づいたら猫になっていた。
やわらかな日の光を受けて、瑞々しい草むらの中で眠っていた。雨上がりの水滴を頬に感じ、背中には心地のいい日の光を感じていた。
季節は春だった。五月の大型連休が終わりを迎えようとしていた。
目が覚めた時、私はこれ以上ない幸福な気持ちに包まれていた。
誇張ではなく一度も経験したことのない幸福だった。今まで背負ってきた苦痛をきれいに捨て去ることができたような気持ちだった。
それもそのはずだった。
私は人間としての生を失い、猫に生まれ変わったようだった。鏡を見なくても、自分は猫であると自然に理解することができた。
自分はかつて人間だったという確信もあった。人間の頃の記憶は夢から覚めた後のように不明瞭だった。
しかし、猫としての自然な振る舞いを知らず、人間としての思考や行動しかできない以上、私はまぎれもなく人間だった。
私はしっぽを思い通りに動かすことができず、その存在に違和感を抱いていた。そのかわり精緻な五つの指の感覚がはっきりと残っていた。
それでも私は、猫になったからといって慌てることはなかった。残念だという気持ちも、悲しいとかつらいという気持ちもまったくなかった。
むしろとても嬉しかった。同時に穏やかな気持ちでもあった。
なぜなら、私は誰に気兼ねすることもなく、自分の気分に従ってのんびりと昼寝をしていればよかったのだから。
私が眠っていたのはどこかの裏庭だった。そこは大きな建物の日陰になっていた。
じめじめとした薄暗い草むらで、建物の反対側にはフェンスに囲まれた池があった。その池は汚れているように見えた。池のまわりは住宅地になっていた。
私はしばらく歩きまわって、この薄汚れた建物がどこかの学校だと気づいた。
建物の裏戸はすべて鍵が閉まっていた。私は壁をよじ登って、窓から校舎の中をのぞいてみた。
すると教室の黒板やたくさんの机や椅子が見えた。正面玄関には靴箱が並んでいた。そして学校に特有の暗くて長い廊下があった。
廊下の掲示物をみた私はそこが中学校だと知った。
私は校舎の正面にまわってみた。
南側の校庭には太陽の光がまぶしいくらいに降り注いでいた。それは肌に刺さるような暑くて密度の濃い光だった。
私はそのまぶしさに目がくらんだ。
そして猫から見た校舎はとても広くて、自分という存在が圧倒されるように感じた。
それから私は確信した。ここは私が通っていた中学校なのだ。
学校の裏庭はほとんどの時間、日光が遮られて暗くなる。そして昼休みには真上から日光が差し込んだ。
私はよく裏庭で昼寝をしていた。それが私のお気に入りの時間だった。
いつも薄暗くてじめじめした裏庭をほとんどの生徒は気味悪がっていた。
昔たくさんの生徒が自殺したという噂もあって、裏庭にはほとんど人が来なかった。だからこそ私は落ち着いて過ごすことができた。
猫になって何十年ぶりに見た学校は、私が中学生の頃よりもはるかにさびれていた。
そこに時代の変化を感じて私は寂しかったが、しかし確固として変わらない何かもそこにはあった。
それが私を安心させると同時に、切ないほどの懐かしい気持ちにもしてくれた。
私は猫になったところでとくに行きたい場所を思いつかなかった。だから危険な目に遭わない限りは学校にいることにした。
しばらくして気づくと私は、出身の中学校で飼い猫になっていた。
私は学校で放し飼いにされていた。
一応、私には小さな猫小屋があり、それは校舎の端の教員用の出入口に置かれていた。しかし私はその小屋をほとんど使わなかった。
晴れた日の昼間は学校の敷地内をずっと歩きまわっていた。
そしていい場所を見つけると昼寝をした。その場所に飽きるとまた別の場所を探して歩きまわった。
あるいは当てもなく敷地内を歩きまわった。私にとっては散歩することが唯一の暇つぶしになっていた。
一方で雨の日は校舎内で過ごしていた。最初のうちは雨の中を自由に走りまわるのが楽しかった。しかし飽き性のせいかそれはすぐにやめてしまった。
人間のとくに大人だとなかなか雨の中を走りまわることができない。だからこそ猫になった当初は雨の中を走りまわるのが楽しかった。
しかし猫である自分にもしだいに飽きてきて、私は気づくと昼寝ばかりをするようになっていた。
私のエサは主に校長先生が用意してくれていた。彼はルーチンとして猫小屋にエサと水を置いてくれた。
最初の頃はいきなり住みつき始めた猫の私にみんなが興味を持ってくれた。
しかしひと月くらいで潮が引くように飽きていき、気がつくと面倒を見てくれるのは校長と一部の生徒だけになっていた。
私はその方がむしろありがたいと思った。私のことを放任してのんびりさせてくれた方が気楽だった。
猫になったばかりの頃は、私に危害を加えてくる者たちもいた。
体の毛を抜いたり、しっぽをわざと踏んだり、エサを高いところに持ち上げられたりした。それはたいてい意地の悪い顔をした未熟な生徒たちだった。
私がそれらの行為に無反応を決めていると、彼らはすぐに私をからかうことに飽きたようだった。私はそれをひと安心すると同時に、拍子抜けした気持ちになった。
私を可愛がってくれた生徒たちは、その多くが秘密の友達として私に打ち明け話をした。私はそのほとんどを昼寝の邪魔としてやり過ごしていた。
しかしその中に一人だけ、怠惰な私ですら気掛かりになる女子生徒がいた。
彼女は名前を中元依子と言った。
依子さんは私に話しかけることなく、ただ正気のない目で私のことを見つめていた。
私はその目にどうしようもない既視感を覚えた。最初はその理由が分からなかった。
しばらくして私は、その目が人間だった頃の自分に似ていることに気づいた。
私は人間だった頃の記憶をほとんど思い出せないでいた。しかし鏡に映った自分の目だけはなぜか鮮明に覚えていた。
私はやがて依子さんを見かけると、彼女のことを詳しく観察するようになっていた。
依子さんは目立たない生徒だった。一見すれば当たり障りのない学校生活を送っているようだった。
しかし私の印象では、依子さんは意図的に自らの存在感を消しているように見えた。
勉強の成績も、運動の出来も、生徒内の格付けも、狙ったように平均的だった。
とくに人気者という訳ではなかったが、だからと言って人間関係に軋轢があるようにも見えなかった。
しかし私から見た依子さんは、何かが明らかに異常だった。思春期特有の瑞々しい色彩を放棄しているように見えた。あるいは喜びや楽しさ、悲しみや怒りといった感情のすべてを放棄しているように見えた。
夏休みを控えたある日、私は日陰で伸びていた。
長い雨が去って久しぶりに明るい日差しを拝むことができた私は舞い上がっていた。
敷地内を走り回っていた私は、暑さにやられて動けなくなっていた。冷房の効いた室内に移動する気力すら残されていなかった。
そこに下校しようとした依子さんが通りがかった。他の生徒たちは私に見向きもしなかった。その中で、依子さんだけが私を気にかけてくれた。
私が熱中症になったことを悟った依子さんは、私を室内に運んでたくさんの水を施してくれた。
私は依子さんがいなかったら死んでいたかもしれない。そのことを思うと私は、彼女に感謝しない訳にはいかなかった。
私が動けるようになるまで、依子さんは私を見てくれていた。栄養をつけるために、早めの夕食も用意してくれた。依子さんは下校時刻のぎりぎりまで看病してくれた。
私はそれから帰宅しようとする依子さんにどこまでもついていった。
依子さんが外に出て校門を過ぎた後でも、私は彼女の隣を歩きつづけた。
依子さんはそんな私に何も言わなかった。
わたしについて来たければご自由にどうぞ。
依子さんの雰囲気からはそういった気持ちが読み取れた。
依子さんの家は学校から離れたところにあった。歩いて三十分以上かかった。
それでも彼女は通学に自転車を使っていなかった。私はそのことを疑問に思った。
依子さんの家は山のふもとにひっそりとあった。中学校がある人の多い地区とは雰囲気が違っていた。
それはとても古びた家だった。私が住人だったら建て替え工事を考えるほどだった。すきま風が吹くどころの話ではなかった。現代人が住む家だとは思えなかった。
その家を見て、私は依子さんがひどく貧乏なことを知った。だからこそ彼女は、壊れた自転車を買い替えることもできなかったのだ。
しかし猫にとっては人工的で清潔な建物よりもこの家の方が過ごしやすかった。そこで私は、依子さんの家でしばらく過ごしてみることにした。
依子さんの家族は母親が一人だけだった。そして見たところ、二人の親子関係は冷め切っているようだった。
依子さんは家に入ると、食卓で内職をしている母親には目もくれなかった。
居間を足早に通り過ぎて、奥のせまい和室に閉じこもった。
母親は依子さんに冷たい視線を向けただけで、あとは手元の作業に戻った。猫である私の存在には気づいた様子がなかった。
依子さんは自室に閉じこもると、机に向かってさっそく学校の宿題をはじめた。でも彼女はすぐに勉強を中断して、床に敷かれたままの布団に潜り込んでしまった。
私はその布団の中に一緒に潜り込んだ。そして依子さんがこちらに顔を向けた時、私は驚いてしまった。
彼女は表情を変えることなく、静かに大粒の涙を流していた。
私は困ってしまった。この涙はおそらく見られてはいけない種類の涙なのだ。
私は気まずくなったが、そもそも私は何の変哲もない子猫にすぎない。私の中身が人間であることは依子さんには知りようがなかった。
だから私は割り切って、依子さんの目を見つめ返すことにした。依子さんも、私のような子猫に見られたとしても気まずい思いをすることはないだろう。
依子さんは私を見て一瞬だけ驚いた表情になったが、すぐに元の顔に戻った。そして私を見つめたまま大粒の涙を流しつづけた。
私は涙の理由を知りたくなった。ただし、かわいそうとか助けてあげたいとか、そういう感傷で知りたくなった訳ではない。
ただ単に私の知的好奇心がくすぐられただけだ。
もし依子さんが私に一人語りをするような人間なら話は早い。しかしおそらく彼女はそういう種類の人間ではない。
依子さんは表面を無難な皮で覆って、自分の本当の気持ちは明かそうとしない。あるいは自分をさらけ出したくてもできない。彼女はそういう人間だろうと私は思った。
そしておそらく人間の私もそうだったのだろう。根拠はなくても記憶の奥底には、人間だった頃の自分が確かに存在しているのだから。
私たちはしばらく見つめあっていたが、やがて依子さんは涙を拭って立ち上がった。
そして机に向かって再び勉強をはじめた。
私は机の端に飛び乗った。そして静かに依子さんの様子を見守っていた。
依子さんは退屈そうに計算問題をしていた。それは見ているこちらが眠くなりそうな課題だった。
そこで私は中学生の頃、数学が嫌いだったことを思い出した。とはいえ数学が苦手だった訳ではなく、むしろ試験の成績は良かったことを覚えている。
中学生の私には、学校で習う数学が簡単すぎて退屈だったのだ。だから、高校生になって難易度が上がると、むしろ数学が好きになったという記憶がある。
私はそれなりに頭のいい人間だった。そしてある程度は社会的地位のある人間だったとも思う。
しかしそこには居心地の悪い不均衡が存在していた。私の個人的な能力と社会的な立場とがうまく噛み合っていない憂鬱な感覚があった。
しかし猫としての私は、その記憶を遠くから冷静に眺めていた。今の私にとって、人間の頃の私はもはやどうでもいい存在だった。
私がどれほど苦渋に満ちた人生を送ったとしても、それは遠い昔の些細な物語に過ぎなかった。
私は猫になってからの二ヶ月で、猫としての自分に順応したようだった。
はじめは違和感があった猫のしっぽも、今では身体の一部として馴染んでいた。
そうして私が考え事をしている間に、気づくと依子さんは宿題を終えていた。
その代わりに依子さんは、机の上に文庫本を開いていた。学校から借りて来たのだろうか。その本をのぞいてみると夏目漱石の「吾輩は猫である」だった。
依子さんは第一章を読み終えたところで本を閉じた。表紙には図書室のバーコードが貼られていた。
私は意外に感じていた。彼女が学校で本を読むところを見たことがなかった。
最初は、読書感想文の課題でその本を読んでいると思っていた。しかし彼女は、それ以外にも学校から本を借りていた。いずれも古い時代の本ばかりだった。
そこで、私は想像した。依子さんは読書が好きなのだが、学校では目立ちたくなくてその姿を見せないのではないか。
そのため彼女は家で読書するようにしているが、家が貧乏なのでたくさんの本を買うことはできない。それで自分が読みたい本は図書室で借りているのではないか。
暇を持て余していた私はそうして誰かの秘密を想像するのが癖になっていた。
やがて夕食の時間だという母親からの声があり、依子さんは居間に出た。その日の夕食はカレーだった。
その香ばしい匂いに私は腹を鳴らしてしまった。しかし母親はその音に気づいていないようだった。
母親が無表情にカレーを食べている一方、依子さんだけが私にほほえみかけた。
夕食の時間にもこの親子が会話を交わすことはなかった。たとえ関係の冷え切った親子でなくても、食事中に会話がないことはあるのだろう。
しかしこの日に関しては、私という格好の話題があるにも関わらず、二人はそのことにも触れなかった。
そこで私は母親にも自分の存在を気づかせることにした。この親子の間に何とか話題を作ることにした。
私は「にゃー」と鳴き声をあげた。母親はようやく私の存在に気づいた。
しかしそこからが淡白だった。私がいくら鳴き声をあげても、家の中を駆けまわっても、二人はまったく私に気をかけなかった。
最初、私は無視されることに腹が立った。そして二人のことを不思議に思った。普通ならば、私のような存在を鬱陶しく思うのではないか。
しかしその謎はすぐに解けた。この家には私の他にも出入りしている猫がいた。
私よりも身体の大きなメスの野良猫がいたのだ。
その猫は自分のことをミケと名乗った。しかし彼女はどう見ても三毛猫ではなく白猫だった。
私は思わず聞いてみた。
「どうして白猫なのにミケという名前なんですか?」
ミケは面倒くさそうに答えた。おそらく今まで色々な猫から聞かれたのだろう。
「知らない。わたしの昔の飼い主がなぜかそう名前をつけたのよ」
そこで私は猫となら会話ができることを知った。しばらく誰とも話していなかった私はそれだけで嬉しいことに気づいた。
今までの沈黙に私はストレスを感じていたらしい。しかしミケは言った。
「猫同士がまともに会話できるのはむしろ珍しいことなのよ」
言葉はもともと人間のものであり、我々はそれを拝借しているに過ぎないというのがミケの説明だった。
そして、ミケが私と話していて思ったのは「これほど流暢に人間の言葉を話せる猫には出会ったことがない」ということだった。
それはもちろん当たり前のことだ。私はもともと人間だったのだから。
しかし私はそれを黙っておくことにした。せっかく猫になってまで、人間の頃のようなトラブルに巻き込まれるのはごめんだったからだ。
私がミケと出会ったのは、依子さんの家に上がった翌朝のことだった。ミケは玄関先でうたた寝をしていた。私が近づくとミケは目を覚ました。
私はミケに依子さんのことを聞いてみた。普段からこの家に出入りしているミケは、思っていた以上に依子さんのことを知っていた。
ミケが依子さんの家に出入りするようになったのは二年前の秋だという。
その頃にはすでにミケは野良猫になっていた。ミケは生まれて数ヶ月のうちに捨てられたことになる。私は少しだけミケのことが可哀想に思えた。
ミケが依子さんの家に出入りしはじめた当初、二人の親子関係は冷めたようには見えなかった。
少なくとも、見ているこちらが居心地の悪さを感じるほど険悪ではなかった。
その頃から父親のいない母子家庭だったが、ミケには二人が世間でよくいる普通の親子に見えた。
二人の関係が変わりはじめたのは去年の二月頃だという。ミケは寒さを嫌うはずの猫にしては珍しく、その冷たい季節にもよく依子さんの家まで散歩していた。
そしてミケがよく目にしたのが、情緒不安定になって変わり果てた母親の姿だった。娘に手を出そうとすることもあった。
初めてそんな姿を目にした時、ミケは人間の本性を目の当たりにして怯えたという。
それは無理もないと私は思った。
私も人間だった頃、病的なまでの対人恐怖を患っていたという記憶があった。とくに自分が若い頃の傾向だったと思うが、私がそうなったきっかけはうまく思い出せなかった。
なぜ依子さんの母親が変貌してしまったのか。疑問に思ったミケはしばらく観察することにした。
母親はよく半狂乱になって泣いていた。「死ぬまでずっと裏切られていたなんて」と叫びながら。
父親は依子さんが小学四年生の頃に亡くなった。その父親には死の直前まで不倫相手がいた。しかもその不倫相手にたくさんの金銭を渡していたという。
依子さんの母親は最愛の夫の早すぎる死と、秘密裏の不倫と理不尽な財産喪失によって、何重にも苦しめられていた。
そして母親のとめどない感情の濁流は、娘にはけ口を見出されることになった。
最愛の夫がどこの馬の骨とも知らない女に奪われたのは、娘に愛嬌がなかったからだ。母親はそう考えることで何とか精神の均衡を保とうとしたのかもしれない。
父親の秘密を二人が知ることになったのは、不倫相手本人が家に押しかけてきたからだった。当時まだ女子大生だった彼女は不遇の暮らしを送っていた。
不倫をしていたことが周囲に噂され、多額の財産を騙し取ったとも噂された彼女は、周囲に誰も心を寄せられる人がいなくなっていた。
その孤独に耐えられなくなり、なおかつ相手の家族に嫉妬心を燃やしていた彼女は、ある晩いきなりこの家に押しかけて、秘密を洗いざらい暴露してしまったのだ。
突如として現れた愛人の身勝手な対抗心によって、父親の秘密が明かされる。
その理不尽な出来事をきっかけにして、依子さんの静かな闘いが幕を開けたのだった。
「依子ちゃんは今までずっと頑張ってきたの」とミケは言った。
「彼女は心が強かったし、頭も良かった。だから彼女は母親と対等に渡り合えた。
彼女は最初からルールを決めていたみたいなの。母親の感情的な支配下に落ちてしまわないこと。それでいて母親を見捨てることもしないこと。
愛人の存在が明らかになる前の、貧しくとも平穏な日常を取り戻す。
あなたはこの親子関係を見て、冷たいと思ったかもしれない。でもね、これでも彼女が手に入れることのできた最大限の平穏なの。
最初この家はわたしから見ても地獄絵図だった。母親は精神が崩壊して、いつも阿鼻叫喚だった。大きな声で泣きわめき、依子ちゃんに暴力を振るおうとしたこともあった。
もしわたしが依子ちゃんの立場なら、怯えて何もできなかった。母親の罵倒や暴力を泣きながら甘受するしかなかったと思う。
でも依子ちゃんは違っていた。彼女は涙を流しながら必死に立ち向かった。母親に何を言われても、必死にしがみついて声をかけた。落ち着いて、冷静になってと母親に呼びかけた。
ここで感情に負けてしまったら、あの女にも負けることになるじゃない。わたしたちが平穏に過ごすことが、あの女を、ひいてはお父さんを見返すことになるんだ。
それでも、母親はなかなか落ち着きを取り戻さなかった。依子ちゃんに罵声を浴びせて、暴力を振るおうとしつづけた。
とはいえ母親はひどく錯乱していたし、依子ちゃんは身体が機敏だったから、彼女が暴力を正面から受けることはなかった。
けれどそんな状況が長くつづけば、依子ちゃんはまだ子供だしいつかは心が折れてしまう。それでも依子ちゃんは辛抱強く母親と向き合いつづけた。
……って、ちょっと。ひとが真剣に話しているのに、あなたはなんであくびなんかしているの? ちゃんとひとの話を聞いているの?」
「ごめんなさい。話が想像以上に重くて、話についていくのがしんどくなってきて」
「がっかりした。あなたが依子ちゃんのことを聞いて来たから、わたしはこうして一所懸命に話してるの。あなたも真剣に話を聞いてくれないと。
あなたにとっては他人事かもしれないけど、彼女にとっては現在進行形のとても大変な出来事なのよ」
私は依子さんの母親よりも、怒りだしたミケの方がはるかに恐ろしく思えた。
私はこれほど話を聞くつもりはなかったのだ。あくまで世間話のつもりで聞いただけで、ミケは要点だけを簡単に教えてくれれば良かったのだ。
私は猫として生まれ変わった以上、人間同士のトラブルにはもう関わりたくない。
私にとって大切なことは、何にも煩わされることなく猫としての生を気楽に全うして、後腐れなくこの世界から退場することなのだ。
しかしここで私の考えを押し通してミケに反抗するのは恐ろしい。だから私はミケにこうべを垂れておくことにした。
私が本気を出せば、ミケを言い負かせられるに決まっている。でも私の方が生きてきた時間が長い大人なのだから、ここは私が身を引くべきなのだろう。
そう考えた私は、額が地面につくほどミケに頭を下げて謝った。ミケはため息をついてから、依子さんの話を再開した。
ミケの話を聞き始めたのは早朝だったが、気がつくと太陽は高く上がっていた。私は暑さに我慢できなくなっていた。
私がところどころ疑問を挟んだり、ミケが私の態度に注文をつけるうちに、話の脱線が多くなった。そして気づくと夏の暑さがあたりを支配するようになっていた。
私は途中で話を切り上げるようミケに何度か言おうとした。しかしその勇気が出なくて最後まで話を聞くことになった。
それからミケと別れて家に戻ると、私は依子さんが入れてくれた水をあっという間に飲み干した。
一方のミケは、水も飲まずにさっさと町まで帰ってしまった。そんなに私のことが嫌いになったのだろうか。
そして暑さにやられていた私は、依子さんの布団の上で気づくと眠りに落ちていた。
私はそこで短い夢を見た。いや、もしかするとそれは実際の記憶の断片なのかもしれない。
私は中学生に戻っていた。今までの記憶を持たず、何の疑いもなく純粋に中学生の自分として、ひとりで学校の階段にいた。
私は自分がいる場所のすぐ上にある、二階と三階の間の踊り場をぼんやりと見ていた。
そこには、窓からの後光で表情が見えないひとりの女子生徒がいた。彼女はじっとこちらを見ていた。少なくとも私にはそのように見えた。
私は午後の眠気もあってぼんやりと彼女を見つめていた。彼女はしばらく私を見返していたが、やがて根負けしたように口元を緩めた。
そして彼女は顔を伏せると、私の横を足早に通り過ぎていった。
やがて、いつの間にか場面が転換していた。私は学校の屋上にいた。
私の向かい側にはあの女子生徒がいた。屋上の柵を乗り越えたところに立っていた。
彼女はその柵に背中から寄りかかって空を見上げていた。私には彼女が何かの物思いにふけっているように見えた。
私は取り憑かれたかのように彼女の後ろ姿をじっと見つめていた。私はある種の美しさをそこに感じていた。しかしそこには儚さや脆さが内包されているようにも見えた。
しばらくして彼女はようやく私に気がついた。彼女は大きな瞳で私を見つめた。
今度は私が顔を伏せた。しかも私の場合は根負けではなく、異性への照れで顔を伏せることになった。
彼女はそんな私を見て、笑い声を隠そうとはしなかった。しかしその笑顔に嘲りはなかった。むしろそこには嬉しさすら垣間見えた。
そして彼女は私に言った。
「ありがとう」
中学生の私にはその言葉の意味がわからなかった。しかし後からその夢を振り返った私は、彼女の言葉を難なく理解することができた。
最期に、私のことを想ってくれて、ありがとう。
彼女は、笑顔で私に「ありがとう」と呼びかけた後、そのまま屋上から飛び降りた。
靴を脱ぐことも、ひと呼吸を置くこともなかった。
何の前触れもなく、彼女は屋上から飛び降りた。
中学生の私はその場で呆然としていた。何が起きたのかしばらく理解できなかった。それから私は突如として彼女を想って涙を流した。
そうだ。彼女は今日ここで死ぬことになっていたのだ。私はそのことを確かに知っていた。そして私は今まで何度も彼女のために泣いてきたのだ。
私の他に彼女のために泣く人がいないと知っていたからこそ、私は彼女を想って何度も泣いたのだ。私はそのことを思い出してとても悲しい気持ちになった。
私はやがてその短い午睡から目を覚ました。
私は全身に冷や汗をかいていた。とても気分が悪かった。耐えきれなくなった私はうめき声をあげた。その声は自分にすら耳障りなものだった。
うつ伏せで本を読んでいた依子さんは、そのうめき声を聞いて表情を歪ませた。
依子さんは私を見た。その時の私はよほどつらそうにしていたのだろう。
依子さんは慌てて「大丈夫?」と声をかけた。私の体を優しくさすってくれた。そして私にゆっくりと水を飲ませてくれた。
もしも依子さんがそばにいなければ、私はどうなっていただろう。私は前日の熱中症と合わせて、二度も依子さんに助けられた。
依子さんが近くの動物病院まで走ってくれるその腕の中で、私は彼女に感謝しない訳にはいかなかった。