9.
「先生、私たちの副顧問になるってほんと?」
「……濱さん」
人気がまばらになった職員室に、鍵を返しにきたのであろう女子生徒三人が、結のデスクの近くまで寄ってきた。
濱は、結が担当する日本史の授業を選択している一年生のうちの一人だ。
「都司先生、私達女子バスケ部で、私は二年の蒼山って言います。こっちは同じ二年の古鳥」
古鳥がペコリと頭を下げる。
副顧問について、校長に了承した覚えはなかったが、もう生徒には公表されたらしい。
拒否する選択肢はなかったということか、とも思ったが、この子達には関係のないことだ、と気を取り直す。
「うん、本当。ごめんなさいね、挨拶に行かなくて。数日前に、校長先生から言われて……明日から、参加するね」
三人が顔を見合わせ、えー、と小さく声を出した。何故か、三人とも不満気な顔だ。
「いや、田嶋先生の話だと夏休み明けからだって話だったので、来週からで構わないと、思うんですけど……」
気が進まないように見えたのだろうか。結は無理矢理口角を上げ無理矢理明るい声を出した。
「そっか、じゃあ来週、新学期からみんなのサポートができるように、先生頑張るね」
己の声が、職員室の中で虚しく響く。
本当に? これまでやってきた業務に加えて、部活の副顧問。私に、本当にできるのだろうか。
「でも……」
再度三人は顔を見合わせる。
濱がおずおずと一歩前に進み出て、周りを気にしながら、小さな声で話しかけてきた。
「ねえ先生、ほんとに大丈夫? おっきな病気とか、してない? ずっと具合悪いんじゃないの?」
どうも、何かが噛み合っていない。
結は首を傾げながら、
「私が病気? どうしてそう思うの」
「この子、男バスの副部長から言われたそうなんです。先生の体調を気にしといてくれって。夏休み前から、副部長ずっと部活に来てなかったのに、突然」
「そう、呼び出されて、言われたんだもん、だったらあれは、先生の話だったのかなって思うじゃん!」
言葉遣い、と蒼山が濱の脇腹を肘でつつく。
「男子バスケ部の、副部長……?」
「先生知らない、ですか?」
「当たり前でしょ先生は三年の授業担当してないんだから」
濱としては懸命に語尾に丁寧語を付け加えたにも関わらず、蒼山から手のひらで軽く腕を叩かれる。
濱は「先輩横暴!」と抗議の声を上げた。
「違う、退部したから元副部長」
古鳥が、後ろから冷静に口を挟む。
「田嶋先生も自分も受け付けてないって部長が言ってたから、まだ副部長でしょ。ん? でも男子も女子も、二年の部長決まったからやっぱ、元?」
「あんた、私と自分の役割、忘れてない?」
話が見えないながら、恐らく蒼山と古鳥が次の女子バスケ部の部長、副部長なのだろうと結は思った。
何はともあれ、話が逸れているようだ。
「それで、その男子バスケ部の副部長さんがどうかしたの?」
「そう! すーごく、面倒見が良かったの、んです!」
「でも、ある日突然、人命救助があるから辞めると言って、ロッカールームを出て、それきり部活に来なくなりました。部内では有名な話なんですが」
「その場にいた男子に後で詳しく聞いてみたら『恨まれてもいい、人命救助優先』って、言ったそうなんですよ」
「まだ大会も残ってたんですけどね。ちょうど、梅雨に入った後くらいだったと思います。
スタメンなんだから、って引き留める声もあったらしいんですけど、自分より能力のある二年がいるからそいつらを使ってくれって返事したらしくて」
「二年としては何も言えないですよ、そんな風に言われたら」
「いまや男バス名物放蕩部長より放蕩、ってかほんと何してるのか分かんなくなっちゃった感じだよね。副部長、女子バスケ部のみんなにのことも気にかけてくれて、部長より断然責任感強いイメージだったのに」
「だから、人命救助してるんじゃないの? 神社の息子だし」
「いや、神社の息子関係ないし、人命救助も、先生の体調に関わりがないんだったら多分何かの比喩でしょ……え、先生、本当に大丈夫です? 顔色が真っ青」
「せんせ、やっぱり具合悪い?」
結を放ったらかして再び言い合いのような形になっていた三人が、結の顔を覗き込む。
男子バスケ部。三年。梅雨の時期、人命救助のために部活を辞めた、神社の息子。
まさか、と思う。
結は、頭から血の気が引いていくのを自分でも自覚していた。椅子に座ったままでよかった。立っていたらいまごろ、座り込んだか倒れていたに違いない。
「あ、あの……その、元副部長さんの名前、教えてもらえる?」
「本藤先輩ですよ。下の名前は達正、だったっけ。本藤って苗字、多いですもんね。田舎あるある」
「結さん?」
裏山の、いつもの拓けた場所に正座で座っていると、走って来たのだろう、達正が少し息を切らしながら声をかける。
「どうして一人で入ったんだ。また何かあった? ああほら、地面に直に座ったら、スーツ汚れるだろ」
確かに面倒見が良い、と思いながら、結は差し伸べられた手を無視した。
「……どうして、嘘ついたの?」
「嘘?」
達正は首を傾げた。
「あなた、神主さんの息子さんなんでしょ。バスケ部の女の子達が教えてくれた。どうして、嘘をついたの? 人命救助だなんて言って、試合も残ってたのに部活に来なくなったって」
目がみるみるうちに大きく見開かれる。
達正は、肩に掛けていたバッグを乱暴に地面に投げ落とした。
「あークソっ、言うなって言ったのに!」
頭を掻きむしりながらその場を行ったり来たりした後、結の正面でぴたりと止まった。
「言わなかっただけだ、嘘はついてない」
「じゃあ言い方を変えるわ。神主さんの息子さんだって、どうして黙ってたの?」
「それは……」
達正は下を向き、言い淀む。
「言えない? 神主さんに、見張ってろって言われてたから?」
「っ違う!」
「ならどうして?」
口を引き結び、無言になる。
「神主さんから、私の様子を報告しろって言われて来てたんでしょ。どおりでご本人は私の前に現れないわけだ」
「違う、誓ってそんなことしてない!」
「ならなんなの? 私がダメになるのを待ってた? 音を上げて、もう無理ですって、校長先生と神主さんに謝るのを待ってた?」
「違うって! どうしてそんな風に考えるんだ? もしそうだったとしたら、儀式の手伝いなんてしないだろ!?」
「同情したから」
「同情?」
「だって、『可哀想に』って、言ってたもん」
「俺が? いつ」
「可哀想だから、助けたんでしょ」
「……あー、待て、それはタヌキの話だろ」
「私だもん」
怪訝な顔をする達正に対して、何かがずれている気がするのに、結は言葉を止められない。
「私が、入ってたんだもん。
もういい、私一人でできる。いままでだって一人でできてた。これからも別に、誰かがいなくても、あなたがいなくても平気。だから、帰って。二度と来ないで」
「結さん、混乱してるんだろ。なあ、一旦落ち着こう。落ち着いて話を……」
言いながら一歩、近寄ろうとする達正に、
「止まって! 私は落ち着いてる! もうここにも、私の部屋にも来ないで!」
「ダメだ。裏山様の件に目処もついてない、まだ日数がかかるだろ。儀式だって一人じゃ危ない」
「ダメ? 全然ダメじゃない! むしろいままでの方が……そうよ、いままでがおかしかったんだから。
あの子達の言うことが正しければ、私に構ってたせいで、あなたの部活の時間が潰れてしまったのでしょう? 私に構うことを止めれば、あなたの貴重な高校生活の残りの期間は守られるし、受験勉強に専念できる。
もし、もしもあなたが本当に神主さんも校長先生も関係なく私と一緒にいたんだとしても、あなたにプラスになることは何もなかった。いままで、あなたの大切な時間を浪費させてた」
何故だか、結の胸はギュッと締め付けられ、痛む。
「そんな風に思ったことは微塵もない、俺が勝手にやってたことで」
「これまで本当にごめんなさい。ありがとう。さようなら」
言葉を被せて、達正の話を遮った。
目頭が勝手に熱くなるのを感じる。どうして、泣きそうになっているのだろう。
「もう、俺のこと信じられない?」
「信じる?」
言葉にして改めて気づく。
私はいつの間にか彼を、信頼し切っていた。だから、こんなにもショックを受けたんだ。
「……元から、これは脅しだって話だったでしょう」
達正は息を呑み、一拍置いて、はっ、と自嘲気味に笑った。
「そうだな。そういえば、そうだった」
髪を掻き上げ、達正はその場にしゃがみ込み、結と視線の高さを合わせた。
「なあ、もう話を聞いてくれる気は、ない?」
涙がこぼれ落ちそうになった結は、無言のまま目を閉じた。
「じゃあ、こっからは独り言だ。
前に、俺が結さんの足を拭いてた時、結さん、自分が大事なものになったみたいって、笑ってただろ。
ああそうだよ、俺にとって結さんは大事だよ、絶対に失いたくない。だから頼むよ、自分をもっと大切にしてくれ、お願いだから。
ここは山の中だし、裏山様のせいなのか、術の影響か、山の外より気温が低い。これからどんどん寒くなっていくだろうから、なるべくあったかくして、風邪をひかないようにくれぐれも気をつけて。
擦り傷も打撲もしないように、敷物の準備を忘れるなよ。足も拭いてから靴履いて。中に入ってる小石で怪我することもあるって前から言ってるよな?
時間が無いのは分かってるけど、ご飯もちゃんとしたもの食べてくれ、なるべくカップ麺と栄養ドリンクで済まさないように。
可能なら、誰かにお願いして上座を務めてもらって……」
達正は言葉を切り、大きく息を吐く。
「覚えておいて欲しい。俺は、結さんの無事を心から願ってる。これだけは本当に、嘘偽りない気持ちだ。
無茶はするな。俺じゃなくてもいい、誰かを頼ってくれ。絶対に、一人になるな。
ほんとは俺が……」
また、言葉が途切れる。立ち上がり、バッグを拾うのが衣擦れの音で察せられた。
「何があっても、何を言われても絶対に、生きることを諦めないでくれ」
遠ざかる足音が完全に消えて聞こえなくなってようやく、結は目を開けた。
涙がぼとりと落ちる。
「ほんと、面倒見が良いというか……過保護?」
この選択が正しかったのか、何が真実で、どうすれば間違いでは無かったのか。結には見当もつかなかった。
ただ分かっていることは、達正は今後結に関わらず、残りの高校生活を過ごし、卒業するのだろうということだけだ。
「……脅しだなんて、思ってなかった」
母に言われた言葉が、頭を過ぎる。
『恋をしてはダメ、結。誰とも、しちゃダメ』
手で拭っても拭っても、涙がとめどなく溢れる。どうしていま、この言葉が思い浮かぶのだろうと、結は思った。
じゃあ何故、どうして私を一人にしたの、母さん。
どれくらいの時間が経ったのか。
携帯が鳴る。横に置いていたバッグから取り出して画面を確認すると、“綾世さん”、同期の綾世ミアからの着信だった。
これまで何度も見た、そしていままで出たことも、折り返しをしたこともなかった相手だ。震える手で通話ボタンを押す。
「……は、い」
「わー、やっと出た! ミアだよ覚えてる? いや誰って言われたら多分泣くけど。てか都司っち冷たすぎっしょ、これまで何回電話したと思ってんの? てかいま何してんの」
「……ご、ごめん」
「いや怒ってるとかじゃなくて……あれ? え、ウソでしょもしかして泣いてる!?」
電話口で狼狽える同期に対して、謝罪以外の言葉は出ず、ただひたすら泣くことしかできなかった。