8.
「副顧問、ですか?」
「ああ。君は朝礼での話を聞いてなかったのかね? 相良先生は夏休み明けに産休に入る。彼女は女子バスケ部の顧問と囲碁部副顧問を担当していた。
囲碁部はともかくとして、女子バスケ部には副顧問がいなければ雑用等が回らない。
そこで話し合いの結果、先生方から君が推薦された」
なるほどそれで、いつものように校長室に呼ばれても皆素知らぬ顔をしていたわけだ、と結は思った。いつもと違い、先生方は呼び出しの内容を知っていたのだ。
ちなみに朝礼では相良先生が産休に入ることは語られていたものの、女子バスケ部の話は議題に上がっていない。
「待ってください! 私は放課後、毎日裏山様のところで儀式を行っています。私にとってはそちらの方が本業で……」
「いつも部活が終わる時間に行っているそうじゃないか、問題なかろう」
「それは学校の業務をやっているのと、学校関係者に見つからないためで、」
「最近、余裕が出てきたのではと先生方から報告を受けている。以前のように僕を頼ろうとしてこないのが何よりの証拠だ。
裏山様の方は好調なのだろう、であれば副顧問をやる余裕があるはずだ」
「……っ!」
達正のおかげでやっと身体が慣れてきただけで、自分では余裕ができたとは思っていない。ただ、そのことをそのまま話すわけにもいかない。
結はなんとか言葉を搾り出す。
「しかし、まだ裏山様の対処には時間がかかりますし、これ以上本業とは違う業務が増えるのは困ります」
「本業がすぐに終わらないのは君の能力不足が原因だ。
翻って、先生方は皆、能力はあるが業務量過多で余裕がない。慢性的な教員不足だ、君だって教育学部出身ならば、その程度知っているだろう?
君は充分に皆から配慮してもらっているとなぜ理解できない? なにも顧問をしろと言っているわけではない。顧問は、いままで副顧問をしていた田嶋先生が引き受けると言ってくださってるんだぞ。彼は君のクラスの担任だ。さらに男子バスケ部の顧問もしているのに、君のために兼任するんだ」
校長は深くため息を吐いた。
「君がそんな風だから、春からずっと、先生方から君のことで何度も苦情が来ている。君の態度はあからさま過ぎなんだよ」
上手く誤魔化せていたとも思ってはいなかったが、苦情、と言われると身に迫るものがあり、顔が一気に熱くなった。
「君はいままで見逃され、免除してもらっていたことについて、周りの先生方に対してもっと感謝すべきだ。
時間をかけてどうにかする。そのやり方を選択したのは君自身だ、かつ、ぱっと終わらせる手立てを、君は持ってないのだろう?
であれば、長くここにいることになる。周りとの人間関係を上手くやることを覚えなさい。大人になるんだ」
「……」
返す言葉を完全に失った結を前に、校長は更に畳み掛けた。
「君、いまも処女であることは変わりないだろうね?」
またこの質問だ。結は校長から視線を逸らし、耐えかねてぼそりと言ってしまった。
「……どうしてそのようなことを、毎回おっしゃるんですか」
「しっ、失礼だな君は! 巫女にとって重要なことだと神主が言っていたからだ、当たり前だろう! まさかセクハラだと思っているのか? バカな! 君達の世界は特殊だ、これはセクハラには当たらない! 君は、僕が個人的な趣味趣向でこのようなことを聞いていると思っているのかね!? 勘違いだ!」
校長は、唐突に声を荒げながら徐々にこちらへ近づいて来た。
結は「失礼します」と言い、校長室から逃げるように出て行った。
「副顧問の話でしょ?」
結が職員室に戻って席に着くとすぐに、吉野が椅子ごと近寄り結の肩を叩いた。
「もー、都司先生、プライベートなこと何にも話してくれないから、全然わかんなくって。最近、すごく充実してるんですよね? 余裕あるなーって他の先生方ともお話ししてたんですよ」
嬉々として話している吉野の口元を、振り向いた結はぼんやりと見つめる。
この人は、いったいなんの話をしているのだろう。
「本命ができたから、校長と別れ話してきた?」
と耳元で囁かれた途端、結は総毛立った。
眉を顰めて身を逸らすと、今度は武林からひと睨みされる。
武林は口を開き、恐らく「生徒達の模範となるように」などとまた説教が始まるであろうと察知した結は、荷物を手早くかき集め、唖然としている吉野を尻目に「お先に失礼します」と言って職員室を飛び出した。
ああ、またこれで校長に苦情が行くのか、とも思ったが、これ以上、誰からも言葉をかけられたくなかった。
「なあ、今日何かあった?」
儀式が終わり、パンプスを履こうとしていた結に、達正が問いかけてきた。
「顔色が悪い。調子が悪そうに見える」
「でもっ……」
ちゃんと儀式はできていたはず。反論しかけた結に、達正は手のひらを見せて制止する。
「確かに舞もできてたし、数もこなしてた。儀式はいつも通りだった。非難したいんじゃないし、そもそもそこじゃない。結さん自身の調子の話だ。何があった?」
バッグに仕舞おうとしていたレジャーシートを再度広げ、その上に正座した達正は、自分の手前を手のひらを返して指し示し、結を座らせた。
「多分生徒にはまだ言っちゃダメな話で」
「分かった、誰にも言わない、黙ってる。言って」
「……校長から、相良先生の代わりに女子バスケ部の副顧問をしなさいと言われて。これ以上本業と違う業務が増えるのは困るって話したんだけど、最近余裕があるように見えるし、本業が終わらないのは私の能力不足、他の先生方が業務過多だからって」
「余裕? 嘘だろ、どこにあるんだそんなもん。結さん、結局週末休んだのってこの前の一回きりだよな?
能力不足って、相手の性質考えたら長期戦になるのも無理なくないか? 一気に消すわけにはいかない神様だし」
「うん……」
俯いたままの結の様子を見て、達正は「なあ、それだけ?」とさらに問う。
「絶対それだけじゃない、他にもなんかあるよな?」
正座のまま身を乗り出して近寄ってくる達正に対し、結はおずおずと、祓い師業務の件で校長と接触するたび、毎度校長と不倫関係を疑われ、その件で揶揄われたり注意を受けていること、更に今回は本命ができたのではないかと言われたことを話した。
「先生方からの私への苦情が校長のところに届いているなら、不倫の話も聞いているはずなのに……一体どんな風に他の先生方へ説明してるのかもわからない。そんな事実はないし、校長室へ行くのは業務の相談のためだと校長が否定しているならば、何度も同じことを聞かれるのはおかしい、と思うのだけど……」
達正は勢いよく下を向き、大きくため息を吐いてから居住まいを正した。
「妄想激し過ぎだしそれを本人に言うとかマジでゲスい。不倫の噂話放置もキモい。
なるほどそりゃ精神的にくるな……
ちなみに校長の他に、この話ができる人は? 協会に相談室とかないのか?」
「一応、今回の任務についての窓口は近くの神社の神主さんが担っていて、私からは直接協会への連絡は取ってない。でも神主さん、お忙しいみたいで、初回に挨拶したきり、会ってなくて。電話もメールも、返事がこないし」
問題は残ったままなのに、話の流れから、達正からはこれ以上突っ込んで聞かれることはないだろうと考えた結は小さく安堵した。
校長からいつもされる質問については、どうしても言えない。
単純に、自分より年下の男の子に「処女」という単語を聞かせる気恥ずかしさもあったし、言葉にすることによって、自分がそういう言葉を投げかけられているという現実を、再度認識してしまうと思ったからだ。
それに、もし伝えることができたとして、気持ち悪いと同調されても、当たり前だと突き放されても、どちらにしろ恐らく凹んでしまうに違いない。
「……へえ、忙しい、なるほど」
そう言ってしばらく黙り込んだ達正は、
「なあ、他に相談できる相手は? お父さんとか、あの電話の綾世さんとか。同僚なんだろ」
「父さんは、そういう方面とは全く関係がなくて、理解できない、分かる人に聞いてくれ、って感じかな。おばあちゃんのことも、母さんのことも全部おじいちゃんに任せてる」
「おじいちゃんは?」
「おじいちゃんは無口で、何を思ってるのか、考えてるのかあまり話してくれない」
「綾世さん」
「綾世さんは……まともに話したことが無くて」
「じゃあどうして綾世さんは、結さんに電話を?」
「分からない」
協会に入って最初の説明会の際、かなりの強い圧で挨拶され、強引に電話番号を交換させられた。しかしその後、会ってもいないし会話もしていないので、電話がかかってくること自体、正直なところ結には心当たりがなかった。
「え、ちょっと待った。じゃあもしかして、俺だけ? 俺にだけ、このことを話してるってことか?」
達正は、結と顔を見合わせる。
結はこくりと頷いた。
「いやいやほら、地元じゃちょっと難しかったかもだが、大学で、親しい友達とか、そういう方面について、話ができる人ができたりとか」
結は首をぶるぶると振った。達正は、ゆっくりと口元を手で押さえて俯く。
「ねえ、もしかして、面白がってる?」
達正が笑いを堪えているように見えた結は、ひどい、と言いながら達正の半袖の裾を軽く引っ張った。
達正は、掴まれた裾を見た後目を固く閉じた。
「ねえ、一体どうしたの?」
「なんでもない。なんでもないが、あと十秒待ってくれ。そうしたら落ち着く」
落ち着く? 達正の言っていることが理解できず、結は首を傾げる。
達正は目を開け、「そうか……俺にできることなんて限りがあるし……もっと考えなきゃな……」と呟き、手を外して再び顔を上げた。
「ちなみにさ、結さん。どうして俺にだけ、その話をしてくれたんだ?」
「どうして……?」
「ほん……」
言葉を途中で切り、達正は頭を振って、笑った。
「いやいやごめん、ほんと、なんでもない。調子に乗り過ぎた。いまのは忘れてくれ」
「……さん、結さん」
「眠いんだろ、ベッドで寝ろよ」
言われている言葉は聞こえているものの、身体が動かない。
「隣の部屋まで自力で……行けそうにないか」
背中と膝裏に腕が回され、抱え上げられる。
心地よい体温と揺れを感じていると、そっと、柔らかいところへ下ろされる。
ぼんやりと目を開けると、もうベッドの上にいた。
達正は結にタオルケットをかけ、そっとその場を離れようとする。
ありがとう、と言いたかった。
それとも、実際に口に出したのか。
達正はこちらを振り向き、ゆっくりと戻ってきて、ベッドの横に跪いた。結の左手を取り、頭を撫でる。
「どうして、そんなにやさしいの……」
結は眠気に逆らえず、そのまま目を閉じた。
朝、目が覚めてベッドの上で身体を起こし、周りを見回した。
いるはずのない達正の姿を探していることに気づいて、結は自分の行動に驚く。
そういえば、何か心地の良い夢を観た気がしたけれど、いままで感じたことがないくらい清々しい目覚めだったせいで、結はその内容を、すっかり忘れてしまった。