4.
「……言えない」
恐怖と混乱で、すでに言ってしまってはいけないことは大概口にしてしまっている気もする。それでも、これ以上自分から話すのは躊躇われた。
「俺、多分見ちゃいけないものを見たんだよな? 言えよ。ほぼバレてんだから。言わなきゃ離さない」
生徒の腕に力が込められる。
逃げられない。よしんばこの腕をふり解けたとして、その後は追いかけっこが始まるだろう。
この子から全速力で走って逃げられる体力は、私には残っていない。
「……本当は、見られても、知られてもいけないものなの。絶対、誰にも言わないで」
「秘密な、了解」
結は覚悟を決め、大きく息を吸い込んだ。
「裏山様を、鎮めてた」
「裏山、様」
「県史によると、この裏山には昔、集落があった。昭和初期辺りで廃村になって、そこにあった小さな神社もまた、管理する人がいなくなって、放棄された。
裏山様は、その神社に祀られていたモノだと推測されてる。
神の名前は記録には残っていないけれど、村の人々に崇め奉られ、鎮まりたまえと願われたモノ。
この裏山全体の生命力の集合体、みたいなモノ、この山を守護する神様みたいなモノと思って良いと思う。
廃村になって周囲に人が誰もいなくなり、社はそのまま廃れて朽ちて……鎮めの力が弱まったか、近年になって発生した何かの影響か。どちらにせよ、最近力が増してきたみたい。
善悪のあるモノではないのよ、本来はね。ただ、運の悪いことに、生命力の強さを増した山の麓に、高校があった。有り余る力は、高校の中に及んだ。
人の感情、例えば恐れとか恨みとか、強い想いみたいなのと相性が良いのよね、ああいう存在って」
「そうかなるほど、年始頃から春にかけて流行ってたあの噂か!」
「そう。怪異が起こり始めたの。誰もいないはずの音楽室でピアノが鳴るとか、誰も入っていないはずのトイレの扉がずっと閉まってるとか」
「夜中に巨人が廊下を歩いてるとか。先生は、ああいうのが見えるのか?」
「ああいうの?」
「幽霊とか……お化け?」
「そうね、いまは感じたり、はっきり見えたり見えなかったり。モノによるかな。昔よりは見えるモノが少なくなったわ。
とにかくそういうモノの対処のために、私が派遣された」
「先生は、外部から来たのか。派遣されたってことは、どこかに所属してるんだよな。
ていうかここ、山の中だろ、学校内で起きてる怪異に対処するなら、校内だけで充分じゃないのか?」
結は首を横に振った。
「当初は、校内の怪異に対してのみ処置を行ってたそうなの。でも、怪異は一向に治らなかった。それで学校周辺の調査をしたら、活性化した裏山様の影響だろうということが判明したそうよ。
この辺り一体を管轄している神主さんが裏山の中で地鎮祭とかお清めとか結界を張るだとか、やれることはやったんだって。でも、全く成果は上がらなかった」
「地元の人間だけでは対処しきれなかったから、外部へ対処の依頼をして、先生が派遣されたってことか」
「そう」
「で、先生がやっている、鎮める方法ってのは、どんなものなんだ?」
「……」
結の逡巡を見てとったのか、生徒が言葉を続けた。
「魂が獣と同化って、言ってたよな? タヌキの身に起きたことを、自分の身に起きたかのようにも話してた。つまり、さっきのタヌキは先生で、先生はタヌキになれるってことか?」
「いいえ、違うわ。逆よ」
「逆?」
理解してもらえるとは、思わなかった。
気持ち悪いと拒絶されるかも、という考えがふと頭をよぎるが、むしろその方がいいだろう、とも思う。そうしたら、彼は質問攻めを止めて立ち去ってくれるはずだ。
きっと、私とこの状況から距離を置いて、忘れたいと思ってくれるに違いない。
息を大きく吸って、一気に言った。
「……獣の身体に、自分の魂を降ろす」
「獣に」
彼の言葉が途切れた。構わず話を続ける。
「私が獣に魂を降ろすと、裏山様は、自分の力のカケラみたいなもの、便宜上私は眷属って呼んでるけど、それを出すの。で、私がそれを、食べる。そうすると、裏山様の力がその分削れて、影響力が少なくなる」
「獣、ってことは、タヌキじゃないものにもなる?」
「……ええ、そうね」
「何になるかは指定できる?」
「いいえ。昔の人達はコントロール出来ていたらしいのだけれど、私にはそこまで出来ない。近くにいる、役に立ちそうな獣に降りるだけ」
「人に魂を降ろすってのはよく聞くよな、イタコとか。動物に人の魂を降ろす、ってのは聞いたことがない。しかし、降霊術の一種ってことになるのか?」
「そう、なるわね……ねえ」
「ん?」
「気持ち、悪くないの?」
「? なにが」
結の後ろで生徒が首を傾げるのが。衣擦れの音で察せられた。
どうもおかしい。気持ち悪く思っている様子がないどころか、さらに質問を重ねてくる。一般の人間にしては、あっさりと受け入れすぎではないのか。
「もしかしてあなた、関係者?」
生徒は、はは、と笑った。
「まさか。俺、幽霊とか見えないし、そういう方面には全然縁がない。ただの高校生だ」
結が振り向かなかったせいで、表情は見えなかった。
ちゃんと振り向いて顔を見た方が良かったかも、と結は思った。見ればまだ、どこまで話して良いのか、判断がついたかもしれない。
「で? 都司先生が先生としてうちの高校に着任したのは四月だろ。いつから山に入り始めた?」
「みんなが春休みの期間中、教室内のみの対処を何度か試してみたけど、やっぱり埒があかないと私も思ったから、三月末くらいから」
「それからずっと?」
「……ずっと、毎日」
「毎日? いま六月だぞ。まさか、休日も同じようにやってるのか?」
「あの、あのね、違うの、学校にも現れなくなったからちゃんと裏山様の力は削れてると思うし、継続していけば……」
なんだか言い訳のような口調になってしまい、校長に言われた『一体いつ解決するんだ』という言葉が頭をよぎる。
「げ、嘘だろ、三ヶ月間休みなしかよ。まだ終わらなさそう?」
「うっ……」
あー、と生徒が声を上げる。
「ほらまた、そんな顔するなって」
そんな顔とは、どういう顔なのだろう、と結は思う。
というか、彼には私の顔が見えているのだろうか?
「別に責めてるわけじゃない、状況を整理したいだけなんだよ。
つまり先生がさっきやってたのは、裏山様を鎮め、力を削ぐための儀式。で、まだ終わってないんだろ」
結はおずおずと頷いた。
「俺、手伝うよ」
「え!?」
一瞬、何を言われたか分からなかった。慌てて振り向こうとして手が滑り、生徒に支えてもらいながら、体勢を変えた。
結は生徒の太ももに跨った状態で、真正面から対峙する。
ランタンの灯りを頼りに彼の顔ををまじまじと見るが、全く見覚えがなかった。
「手伝うことで少しでも早く終われるなら、手伝う。それに、まだ時間がかかるってことは、今日やってた儀式を今後も続けるってことだろ? 一人じゃ危険だ。
ていうか、こういう儀式って、セーフティーネット的なものはないのか? 先生が自分で確立したんじゃないってんなら、ずっと昔から引き継がれてきたやり方のはずだ。なら安全策もちゃんと講じられてるはずだろ。どうしてそれをやらない?」
「……本当は、上座がいる」
「上座って?」
「儀式中見守って、補佐してくれる人」
「は!? 一人でやる儀式じゃねえじゃねえか! なんでいままで一人でっ……!」
突然の大声に、結はびくっと身体を揺らし、目をつぶった。
「ああごめん、大きな声出して悪かった。先生に怒ってるわけじゃないんだ、目を開けてくれ」
両肩を軽く揺すられ、薄目を開ける。
「なあ、俺にその上座、やらせてくれ」
結は、先刻と打って変わり、目と口をまん丸と開けた。
「え、う……そ、なんで」
はー、と生徒が大きく息を吐く。
「なんでもなにも。あのさあ先生、さっきだいぶピンチだっただろ。もう忘れたのかよ。俺がもし来なかったら、どうなってた? あんなに混乱して、怯えてた癖に」
先ほどまでの状況を思い出し、結はぶるりと震えた。
「ちなみにここに来るまでは誰にやってもらってた? 決まった人じゃないとやれないとか?」
「私には母さんがついてて、母さんには、おばあちゃん。おばあちゃんには、おじいちゃんがついてた。母さんは、協会に所属した後は、仕事でチームになった人に頼んでたはずで、」
「そうか、お母さんやおばあちゃんも、同じことができるのか」
「うん、そう……というか、いいえ待って、待って!
ダメよ、上座なんてさせられない! 危険なのよ、もしも私が大型の獣に降りたとして、あなたを傷つけるかもしれなくて――」
「もしもなんてそんなもん、その時にならなきゃわからないだろ。それにさ、先生に拒否権、無いから」
「え?」
結は思わず聞き返した。
「これ、脅しだから」
生徒は、笑いながら堂々と言い放った。
「なっ……!」
「ちなみに今後上座をやるにあたって、条件をいくつか出す。まずは、そうだな……俺のことは達正、って呼んでくれ。俺は先生の事、結さん、って呼ばせてもらう」
困惑が顔に出たのだろう、
「俺の苗字本藤だけど、掃いて捨ててもまだ有り余るくらい同じ苗字の奴がいる。田舎あるあるだ。先生、一年の副担だろ、クラスに一人は確実にいるだろうから分かるよな? とにかくややこしいから」
「うん、確かにそう、なんだけど……」
結は唸った。確かに、担当のクラス全て合わせたら、本藤という苗字の生徒は五名くらいはいたはずだ。学年全体だと、一体どれくらいの人数がいるのだろう。神主ですら本藤姓だ。
「ってわけで、俺のことは達正で。敬語もいらないだろ。な、結さん」
「待って、ちょっと待って。それじゃ、先生としての威厳が……」
「そもそも結さん、先生じゃないんだろ? 威厳もクソもない。
大丈夫だって。校内ではちゃんと先生、って呼ぶ。まあ、結さんは三年の担当はしてないし、ほぼ会うことないだろうけど」
彼の言い分は、正しいのか、間違っているのか。あと、クソって。
「結さん、聞いてる? これ、脅しだから。考えても無駄だ。断るって選択肢は無い」
首を捻る結の頬を、達正は人差し指で軽く突いた。
「……分かった」
どうせ名を呼ばれたり彼の名を呼ぶところなど、誰にも見られはしないだろう。支障は無いはずだ。一般人に知られたことを、協会関係の人間にバレないように考えることを優先すれば良い、きっと、多分。
それにこれ以上、頭が回らない。他に何かいい打開策を思いつけそうにもなかった。
はー、と達正が大きく息を吐く。結にはなぜか、彼がひどく安堵したように見えた。
「……よし、決まりだな。じゃ、後の条件については追々。そろそろ動けるか? ええと、いま何時だ」
まだ他にもあるのか、と思いつつ、上を仰ぎ見る。木々の間から見える空には、まだ星が浮かんでいる。
結の腕を掴んでいた達正の手が離される。
寝る時間が残っていれば良いけれど、と思いながら足に力を入れて、
「!?」
「え、どした!?」
真正面で見つめ合う。
「ご、ごめん。足に力が、入らない。たぶん、私の身体の限界時間を越えたからだと思う」
情けなさ過ぎる。
結は、んっ、ふっ、ほっ、と言いながら、気合を入れて足を動かそうとするが、びくともしない。
「……くっ」
ははははは、と達正が笑い始めた。結は情けなさで少し、涙が出る。
「マジかよ! ったく、世話の焼ける」
結は一旦地面に降ろされる。達正はバスタオルを手早く畳んで自分のバッグに入れ、結のバッグと一緒に肩にかけた。
「よっし」
準備を整えた達正が、結の背中と膝の裏に腕を差し込み、抱え上げた。結の視線がいつもより高い位置になる。
「ちょっ、何してるの!? おっ、降ろしてっ」
「はいはい大人しくしろって。結さんが回復するの待ってたら、いつまで経っても家に帰れないだろ」
いまさら、結は自身の名前を呼ばれて、少しだけ心臓が跳ねる。抱えられているという状況のせいだろうか。
言葉を失っていると、
「これも、脅しな」
達正は嬉しそうに笑い、歩き始めた後も、その笑顔は変わらないままだった。