2.
父に対してバカ正直に話すのではなかった、もしくは頼み事は控えるべきだったと結が後悔するのは何度目になるだろう。自分の学習能力の無さに、結はほとほと呆れてしまった。
「まったく、電話に折り返しもせず、『朝五時半に起こして』だって!? 父さんがメールを見ていなかったらどうするつもりだったんだ、しかも送信時間は三時だったぞ、睡眠時間はたったの二時間半か!?」
テーブルの上に置いた携帯電話から、結の父である都司哲人の怒鳴り声が部屋中に響き渡る。マグカップにお湯を注いでインスタントコーヒーを作っていた結は、携帯の音量調整ボタンを慌てて連打し、小声で抗議した。
「声が大きい! どうせ父さん、仕込みの仕事で五時起きなんだしついででしょ。そんなに怒鳴らないでよ……」
「こんな時間に連絡させたことを言ってるんじゃない、お前の睡眠時間のことを言ってるんだ! 眠れなかったのか?」
「ううん、眠れないのはたまにあるけど、今日のはそうじゃなくて。生徒に出す課題の準備してたら遅くなったの。で、自分だけで起きれるか自信が無かったから」
「また仕事か。しかし課題の準備は終わったんだろう、どうして五時半に起きる必要がある?」
「……終わらなかった」
「はあ!?」
哲人の呆れ返った声は、やはり大きかった。結は更に音量調整ボタンを連打する。
「なあ、落ち着いたら帰省すると話していたよな? 就職してから一度も帰って来てないじゃないか! 『仕事で土日も離れられない』だの『まともに食事が摂れない日がある』だの、どう考えてもまともじゃない。そもそも、お前は教職員としてそちらに赴任したわけじゃ無かっただろう? 勤務形態は一体どうなってるんだ!?」
それは私が一番聞きたいことだ、と思いつつ、結はイチゴジャムを塗ったトーストをもそもそと頬張った。
「聞いてるのか結、返事くらいしなさい!」
飲み込むのと無理矢理出そうとした声が相まって、んぐっ、と喉で返事をしてしまう。
哲人が、盛大な溜め息を吐いた。
「ほんとに、どうしてこうなったかなぁ」
「……安定した職をって、教員免許を取らせたのは父さんでしょ」
「そのあと県の教員採用を受けずに祓い師になったのはお前だろう!」
「まさか祓い師になってまで、教員をさせられるとは思ってなかったんだもん。カモフラージュ程度かと思ってたらまさかのがっつりだし。登録初年度の協会から割り振られた仕事は絶対断るなって言われてるから選択肢もなかったし」
あのな、と哲人は続ける。
「とにかく、父さんはいますぐにでも辞めて欲しい。お前が母さんのことを探すために協会に入ったのは分かっているが、必要無いと何度も説明しただろう。待つしかないんだ。おじいちゃんがそう言ってるんだから」
待ってるだけじゃどうしようもない、現におばあちゃんだって帰って来てないじゃないのと言いたいのを、トーストと一緒に口の中に詰め込み、コーヒーで無理矢理飲み下す。
「おじいちゃんが送った御守りは、校長先生か神主さんに渡せたんだろうな?」
結は無言のまま、コーヒーを飲む。
「全く……父さんは、そっちの世界のことは何も知らないし分からないんだ。だから、関わっている人にちゃんと話をして、儀式中そばにいてもらえるようにしなさいと、何度言わせれば分かる?
仕事のことも、もっときちんと調整してもらえるように――」
「はいはい分かってます、だから儀式中はちゃんとアラームかけてるってば」
コーヒーを一気飲みし、トーストを載せていた皿と空のパックを流しに持っていく。
「もし何かの手違いで、アラームが鳴らなかったらどうするんだ」
誰にも知られること無く、誰からも探されず。
もしもそうなったら。
時折見る夢の感覚を思い出し、結はぶるりと身震いした。
「ね、おじいちゃんはいまなにしてるの、元気?」
「あ? ああ、今日も朝から山に入っているが……」
「そう、良かった」
言いながら、結は立ち上がった。
「おい、話は終わってないぞ!」
「はいはい、起こしてくれてありがと。もう時間無いから、切るね」
携帯を手に取り、終話ボタンを押す。
「……言われなくても、分かってる」
「すみません、すみません校長先生」
朝の職員会議を終えて先生方が移動して行く中。結は足早に立ち去ろうとする校長の左ひじ辺りのスーツの袖を掴んだ。
「いまから少しお時間、いただけませんか?」
「なんだ、また君か!」
校長の声が大き過ぎて、一気に先生方の注目を集める。
「いつもの相談事か。ははっ、仕方がないな。来なさい」
周りを気にしての事なのか、こういう時、校長はわざわざ大声を出して笑顔を作る。目立たぬよう、小声で話しかけた結の努力は、常に無駄に終わるのだった。
“新人教師の我儘を聞いてやる器の大きい校長”を演出しているつもりだろうが、その態度が、あらぬ方向での誤解を招いていることに未だ気づいていないらしい。
結は、職員室中の視線を背中に感じ、じっとりと嫌な汗が出る。今朝も、会議が始まるギリギリのタイミングで職員室に飛び込んだせいで、先生方から厳しい視線を送られたばかりだったのに。
立ち去った後、きっと言いたい放題言われるに違いない。
結は肩を落としながら、校長の後をついて行った。
校長室に入ると、応接用のソファに腰掛けた校長はあっという間に不機嫌な顔になった。
「で、裏山様を祓い終えた、という報告ではないのだろう? 一体いつ解決するんだ。本当に、都司君のやり方で合っているのかね? パッとやって、パッと解決は出来んのか」
「あの、何度もお伝えしている通り」
結は、促される言葉も仕草もないため、テーブルを挟んだ向かいのソファの横に立ったまま、校長に出会ってから数回目の、同じ説明を繰り返す。
「“裏山様”は性質上、いわば“神”に分類されるものです。神は、完全に祓い、滅することができません。もし万が一できたとしても、反動でこの土地に災害や呪い等の災いが起こる可能性が非常に高い。協会の方でもそう判断したからこそ私が派遣されたのですし、神主さんも同じように仰ってました。
それに、そもそも私は祓うのではなく、大きくなった力を削って」
「祓えない、つまり君の能力が低い、そういうことだ。神主が言っていたとおりだな」
真っ向から言われ、結は地味に凹む。
「最初に聞いていた話とは随分違う」
「最初とは?」
「君は知らなくていい、こちらの話だ。大体君はまだ社会人としても先生としても新人だろう、少しは遠慮というものを覚えなさい」
校長はしかめ面で黙り込む。
「あの、少しずつではありますが、裏山様の力を減らすことが出来ていると考えています。春以降、校内での怪現象の報告がほぼ無くなっているのがその証明になるかと。
裏山様は、元々裏山で鎮められていた神が社を失い鎮める者がいなくなったことで暴走し始めた、もしくは裏山に溜まった力が神の様相を呈するようになったものです。
無理矢理消すのではなく、このまま力を削っていくことができれば――」
「削る? 打開策になると聞いて君を雇ったんだ。いつまで経っても怪異の原因は祓えない上に、完全な解決にも導けない、しかも朝の会議には遅刻寸前だと? これで授業にまで影響が出始めたら、教師としてすら役に立たないことになるぞ」
「以前もお伝えしましたが、私は教師ではなく」
「文句があるならまず自分の仕事を全うしてから言いなさい。だいたい、本当に解決に向かっているのか? 君の勘違いじゃ無いのかね」
その可能性は大だ、と結は思う。力を削れている、と捉えるのはこちらの思い込みというオチだって、無きにしも非ずなのだ。
裏山様と意思疎通は出来ない。実のところ、全体像すら見えていない。正解が解らない。
「もっと抜本的な解決策を行使したまえよ! 君はその道のプロなのだろう? 神主に任せていた時の方がよほどマシだった」
その神主さんでは解決できなかったから協会から私が派遣されたはずですが、と言いたいのをぐっと堪える。
「あの、すみません。今日お時間をいただいたのは、こちらの件で」
このまま話し続けても埒があかない。
結は、握りしめていた赤い絹織物で作られた御守り袋を差し出す。校長はしかめていた顔をさらに歪め、不快感を思い切り露にした。
「またその話か、先日断ったはずだが。
それでもまだ言うのか、指定の時間を超えても君が裏山から出てこない場合、これを持って、中まで迎えに来いと。時間外の、しかも夜中近くに、校長である僕が?」
「は、い……」
「とかく君は、立場というものを全くわきまえていない! 社会人として恥ずかしくないのかね? 自分の職責を全うできない、教師としての振る舞いも全くなっていない。
周りとのコミュニケーションが充分に取れない。部活の顧問すら免除してやっているのに、常に余裕がない。
僕はそちらの世界のことなど何も知らないがな、君のような仕事のできない人間を寄越されて、こちらも心底困っている」
「ですが……」
「そのような君に、下校時間以降まで、校長である僕を拘束する権利があると思っているのか? 僕にだって、下校時間以外にもやることはあるんだ。
そもそも僕は、一連の騒動を収めるために仕事を依頼した、いわば顧客だ。何故客が派遣されてきたスタッフのわがままのために、その身の安全など考慮せねばならんのだ。そもそも一般人を巻き込むことは良しとされていないのではなかったのかね」
「あの、ですが他に事情を把握されている方が……」
「神主がいるだろう! 彼には話したのか? 今回のことは彼に一任しているはずなのに、何故こちらへ話を持ってくる?」
「あの、神主さんにはお話もお願いもしたのですが、神社のお仕事でご多忙ということで」
以来、何度電話をしてもメールをしても、返事が返ってこない、もしくは「多忙のため、話は校長へ」とだけ記載されたメールが返ってくるのみだった。
ふんっ、と校長が鼻で笑う。
「君のその言い方はあれだな、神主の仕事より校長の方が暇だとでも言いたいのか?」
「いいえ、違います! 決してそういう意味ではありません!」
意図していなかった方向からの非難に、結は焦った。
「だいたい、この数ヶ月間一人でやっていたじゃないか、何故いま頃そんなことを言い出す?」
「万が一のことを考えておかなければ、私の術は……」
あーあー、と校長が声を上げ、結の言葉を遮った。
「そういう話は神主としてくれ、詳しい話をここでするな、僕は一般人だぞ!
とにかく君は、臨時教師としての職務と巫女としての役割さえ全うしてくれればそれで良いんだ」
聞いてきたのはそちらの方だ、と言いたいのをぐっと堪える。
「ですから、その職務に支障をきたすかもしれないので、持っておいていただきたくて……」
「君は自分自身の怠惰を、自分が置かれた状況が特殊であるためだと思っていないか?」
校長はやれやれ、と言わんばかりに首を振る。
「甘い! 近頃の若い者は、駄目だと思ったらすぐに逃げようとする。
今日の遅刻がいい証拠だ。君自身が、いまのやり方を選んだのだろう? 自助努力をもっとしなさい」
「……申し訳ありません。以後、努力します」
結は頭を下げながら、ひそかに息を吐く。
「しかし申し訳ありません、ただ持っておいていただくだけでいいんです。後ほど、神主さんにご報告、ご相談して頂いて構いませんので」
神主に面談の時間さえ割いてさえもらえなかったのだ。校長の口から現状が伝わるのであれば、逆にありがたいとさえ感じられた。
「受け取るだけで構わないんだな?」
「はい」
校長が渋々手を差し出し、その上に結が御守りをそっと置く。しかし御守りは、すぐさまテーブルの上に置かれてしまった。
大丈夫、危機的状況に陥らなければ良いだけだ、と結は思う。そうすれば、この御守りは意味を成さないし、問題は無い。
「ところで君、きちんと貞操は守っているんだろうね?」
校長の視線が、結の胸の辺りに吸い付くように止まった。
まただ。結は苛立つ。術に関する話は嫌がるのに、結との会話の終わりには必ず、このような系統のネタを振ってくる。
「常に心身共に清らか、処女であることに間違いないな?」
ん? と首を傾げ、全く悪気が無さそうに尋ねてくるが、身体中を舐め回すような視線に、結は怖気立つ。
「神主の代わりに確認してやっているんだ、返事は?」
「……はい」
「よろしい」
平静を装い、校長室を退出した後、結は足早にトイレへ駆け込み、蛇口をひねって手を洗う。
気持ち悪い。
最後の質問こそ、どういう立場で、何の権利があって言ってきているのか。術の話はするな、自分は一般人だぞとあれほど拒むのに。
気持ち悪い。
どうにかして逃れたい、でもこの職場からは逃げられない。何か、何か解決策が……
『恋をしてはダメ、結。誰とも、しちゃダメ』
「――先生、都司先生?」
結はびくりと肩を揺らす。結と同じく、一年生の副担任をしている鷹乃が真後ろに立っていた。
「もう充分手は洗えたのでは? 水がもったいないですよ」
「……すみません」
「都司先生って、いつも校長先生と何の話をされていらっしゃるんです?」
放課後、教員らが職員室に戻ってくる時間帯。午前の出来事以降、何事も起こらず通常業務をこなせていたので、すっかり気の緩んでいた結は、呼びかけてきた相手の方向へ思い切り振り向いてしまった。
椅子ごと結に近寄ってきた相手は、隣の机の島、結とはいつも背中合わせに座っている、普段あまり接点のない三年生担任の女性教員だった。満面の笑みを浮かべ、さらに椅子を結に近づける。
「吉野先生……」
「怒られてる訳じゃないですよね、ご自身で行ってますもんね?」
「いや、あの」
他の教員達からの視線が集中している。身じろぎをすると、吉野は結の耳に口を近づけた。
「私、恋バナとか好きなんですよ。もし良かったら」
「ダメですよ都司先生!」
三年生学年主任の武林だった。
「ご存知かと思いますけど、校長先生は既婚者ですよ。不倫は自由恋愛とは違いますからね、更に貴女は子ども達を導く立場にいるんです、きちんと立場を自覚してわきまえなさい!
いいですか都司先生。若い女性だからこそ、行動を慎むべきです。貴女のために言ってるんですよ?」
吉野先生すら一応気を遣って小さい声で言っていたのにとか、何故不倫が前提なのかとか、頭をよぎるが何も言えない。
「大体なんですかその格好は! 特に貴女のような若い女の先生がパンツスーツを履くのは遠慮しなさいと何度もお話ししたでしょう!
生徒達に年齢が近いんですから、模範を示すためにもあれほどスカートにしなさいと言っているのに、私の忠告を無視ですか?」
吉野は武林のもの凄い剣幕に黙り込み、そっとその場から離れて行った。こちらを見ていた他の教員達も、それぞれ移動を始める。
「都司先生、お返事は? 小学校の児童でも、お返事くらいはしますよ!」
「……はい、申し訳、ありません」
全くこれだから若い女性は、と呟きながら、武林は自分の席に戻って行った。
皆の意識が逸らされてもなお残る空気に、結はいたたまれなくなった。
いつもなら、職員室で書類の作成等を行いながら人気が無くなるのを待つのだが、結は居残りを諦め、教材をひとまとめにして、ボストンバッグに入れる。机の上に置いていた携帯の画面をチラリと見ると、また着信が入っていた。
構わずボストンバックに入れる。かなり重くなったバッグを、なんとか肩にかけた。
ポン、とその上に手が置かれた。
「……田嶋先生」
「気にしないことですよ、都司先生。特に郡司先生は若くてかわいい女性の新人さんだから、ちょっと注目が集まってるだけです。後輩が入れば、そっちに興味は移りますから。私の時もそうでしたし」
結のクラス担任の田嶋だった。結は、
「――お先に失礼します」
会釈をしてバッグを掴み取って、逃げるように職員室を後にした。