18.
ハッとして、結は飛び起きた。
立ち上がり、周りを見渡す。天井も周りも、どこまでも広がる白い空間。そして、少し離れたところから、こちらの様子を伺う黒いモヤモヤとした塊がいくつか視認できた。
ここがどこかは分からないけれど、少なくとも裏山ではないことは確かだ。
「達正君……」
『結』
懐かしい声に振り向くと、祖母が立っていた。
「おばあちゃん!」
『大きくなったねえ』
結は祖母に抱きつき、祖母もまた、結の身体に腕を回してぎゅっと抱きしめ返す。しばらく互いの存在を確かめ合うように、そのままの状態でいた。
ぽんぽん、と背中を軽く叩かれて、身体を少しだけ離す。優しく微笑む祖母の顔が、目の前にあった。
「私、おばあちゃんに会えたってことは、もう自分の身体には戻れないんだね」
戻れなくなることについて、驚きは無かったし納得済みだった。ただ、
「上座を務めてくれた子を、傷つけてしまった……」
せめて達正が無事かどうかだけでも確認したかったけれど、それももう叶わないのだろう。
『大丈夫だよ結、お前は戻れる。その子に直接謝るといい』
「えっ!?」
『お前は魂を降ろした先から、身体を奪い返された。弾かれた拍子に魂がここへ飛ばされたのは、降ろした先が、山の精霊だったからかもしれないね』
「精霊……鳳凰じゃなくて? というか、どうして知ってるの?」
『いつも結のことを見ているよ。特に、魂依りを使っている時はね。
お前にはちゃんと戻る身体がある。ちゃんと繋がっているよ、安心おし』
祖母は結の腕に手を添えた。
『結、あの子らをご覧』
言われて祖母の視線の先を辿る。先ほど黒い不確かな塊に見えていたものが、若い和服姿の少女達に変わっていた。
遠巻きに、こちらの様子を伺っている。
『塚に埋葬された先代の巫女達だよ、若いだろ? あたしと同じ、自分の魂が降ろした先の獣の魂と同化してしまって身体に戻れなくなった者。獣に降りたまま、命を落とした者もいる。
しかしどの子も、あたし程の婆さんになるまで生き延びた者はいなかった。そもそも二十歳を超えた子が、この中にいるかどうか』
「なんの話?」
『“祝い”の影響は、もうある程度薄まっているという話だ。
おじいちゃん……慈睿さんがあたしを愛して、子を作って、そちらに留め置いてくれたおかげだ。それであたしはそちらの世界に長くいられたんだろう。
お前に対する“祝い”の影響は、さらに薄まっているはずだ。今回は山の精霊のせいでこちらとの縁が強くなっていたからここへ飛ばされてしまったが、もう来ることもないだろう』
「薄まっていたのなら、おばあちゃんはどうしてここにいるの?」
『山で子どもが遭難した時、慈睿さんの反対を押し切って、あたし一人で魂依りをやったからだよ。
そもそも力を使った者の対価は、巫女自身の魂だ。ずっと力を貸してくれていたあの子らが、痺れ切らしてあたしの魂を迎えに来る、いずれそんな時が来ると分かっていたからね。だから慈睿さんはあたしを止めようとして、あたしは覚悟して魂依りをした』
「そんな……」
『仕方がないさ、これが魂依りの仕組み、神様との約束事だ。“祝いは呪い、呪いは祝い” 。誰も悪くない』
「後悔、してないの?」
『してないよ。呪いももらったが、あたしにとっては、祝いの方が大きかったからね……おや』
祖母は結の手を掴み、手のひらをじっと見つめる。
『とてもいい上座だね。お前を縁で繋いでいる。
それに、自分が傷ついてもお前の手を離さなかったようだ』
「おばあちゃん」
『ん?』
「私、母さんに『恋をしてはダメ』って、言われてたの。でもおばあちゃんの話を聞くと、それって」
祖母は、ふ、と笑みをこぼした。
『あの子はまたそんなことを……おおかたお前のことを心配していただけだよ、歴代の巫女達の結末もそうだが、あたし自身が、あの子の前からいなくなってしまったからね。
大丈夫だよ。あたしが慈睿さんの手を離さなかったように、お前も上座の子の手をずっと掴んでおくといい。その子のことなんだろう?』
結が口を開こうとすると祖母がふと顔を上げ、また少女達の方を見る。
遠巻きに立っていたはずの少女達が、ひとり、またひとりと、徐々にこちらに近づいてきていた。
祖母は、結の手をポンポンと軽く叩いた。
『さ、早くお戻り。あの子らは案外嫉妬深い』
「待って、母さんは? 母さんはここにいないの?」
『お前の母さんは、ここには来ないよ』
「来ない? どういう……」
『すでに薄まっていると言ったろう。さあ、時間がないよ、縁の導くとおりに行くんだ。
可愛い子。お前はこの魂依りの約束事に縛られず、好きなように生きなさい。いつも見守っているからね』
両腕でぎゅっと抱きしめられ、すぐに手が離される。結は重さを失ったように、ふわりとその場から浮いた。
「待って、おばあちゃん!」
手を伸ばすがコントロールが効かず、結の身体はどんどん上昇し、祖母から離れていく。
『慈睿さんに伝えとくれ、ずっとそばで導いてくれてありがとう、幸せだったよとね』
頭から背中、お尻辺りまで、心地の良い温かさを感じていた。
後ろ側から腕を回され、お腹辺りで手が組まれて、ずれ落ちないように支えられている。目を開けると、結の上には毛布一枚と、着ていたはずのトレンチコートがかけられていた。
何時なのだろう、陽の光のせいか、空気も暖かく感じる。
「気づいた?」
「達正君!」
慌てて身体を離そうとすると、痛て、と小さい声が上がる。
結はできるだけ寄りかからないように注意しながら、達正の方に身体の向きを変えた
達正の右膝をまたぎ、膝立ちで向き合う。
達正は、木の幹に背中を預けて座っていた。首が包帯で巻かれており、服の中までそれが続いていることが見てとれた。
指でそっと、首から左肩にかけて触れる。
「痛かったでしょう。本当に、ごめんなさい……」
「謝るなよ結さん、覚悟はしてたし、俺が自分でやったことだ。それにほら、大丈夫」
達正は左肘をゆっくりと上げ、下ろした。
「ミアさんがかなり強力な治癒魔法? かけてくれたんだ。無理矢理、変な味の液体も飲まされた。
おかげさまで出血も止まったし、痛みもそこまで感じてない。後で専門の病院に連れて行くとは言われたが」
「綾世さん、来てるの?」
「ああ、協会の仲間のうち、神社系の人を何人か引き連れてね。ちなみに結さんをここに寄越した奴らとは別派閥だから安心しろだとさ」
結は、しんと静まり返った周囲を見渡す。それにしては誰もいない。
「いま、みんな山を下りて神社の方へ行ってる。
さっきまでここらの後始末してたんだ。親父と、祓い師の人達で無事に裏山様を鎮めて、ほら、あそこ」
真新しい小さな祠が建っていた。
「裏山様はここで祀って、神社に遥拝所を作るんだと。で、みんな遥拝所を作りに山を下りようとして……ミアさん、当たり前のようについて行こうとしてたから、俺、言ったんだ。他の祓い師の人達はともかくとしてあんたまでついて行く必要はないんじゃないか、結さんがまだ目覚めてないのに、って。
そしたらあの人、こんなの見逃せるはずない、あたしはこの目で見たいんだって、一緒に行ってしまった」
ミアの様子がありありと思い浮かび、結はくすりと笑ってしまった。
「言いそう」
「それから、結さんのお母さんのことで判明したことがあるから落ち着いたら話すって伝えとけって。
あとは、結さんの魂はもうちゃんと身体に戻ってて、いまは眠ってるだけだしもうすぐ目が覚める、あんたがついときゃ大丈夫、って言われて……」
達正は右手を上げ、結の方へ差し出した。結は吸い寄せられるように、その手を両手で包み込んだ。
「……戻ってきてくれて、本当に良かった」
「あなたがいてくれたから戻ってこれたのよ。ずっと繋いでいてくれて、ありがとう」
結は達正に腕を引っ張られ、右腕を身体に回された。結も、怪我をした部分に触れないよう慎重に腕を回し、抱きしめ返す。
「なあ、結さん。ここでのことが終わったら、一緒に暮らそう。
結さんは祓い師を辞めても良いし、続けても良い。お母さんの捜索を諦めたくない、魂依りの法も続けるっていうなら俺、大学に通いながら結さんのおじいちゃんのところで上座の修行をさせてもらえるように改めて頼むし」
結は驚いて身体をやや離し、達正の顔を見る。
「まさか、うちの実家にも連絡してたの!?」
「ああ、もちろん。本気なら、結さんを通してもう一度話を持って来いって言われてる。何か問題?」
あまりにも堂々としている達正に、結は苦笑いした。確かに、達正のこの行動に助けられたのだろうけれど、
「うーん……」
「結さん。なあ、返事は?」
そうねえ、と結は思案する。
「今度は私がオムライスを作るわ。前に作ってくれたでしょ、作り方を教えてちょうだい。あの、ふわとろの卵の焼き加減とか。
達正君みたいに美味しくできないかもしれないけど……一緒に食べてくれる?」
「っ!? それって」
傍らに置かれていたボストンバッグの中から、携帯の鳴る音がする。
結は焦る達正の唇に人差し指を当てて微笑み、携帯を取り出して通話ボタンを押した。
「はい、――」