17.
「達正、お前こんなところで何をしている!?」
声のする方を見ると、神主と校長が息を切らしてこちらへ向かって来る。
結は達正から身体を離そうとしたが、達正は腕の力を緩めない。
「その女から離れろ、達正。生贄だと知っているだろう!?」
「どうして結さんなんだ」
はっ、と神主が笑う。
「いまさら何を……お前はあの日、父さん達の話を聞いてただろう! 決まったことだからだ!」
「誰が決めた?」
「協会本部だ!」
「別に結さんでなくてもいいはずだ」
「いいわけがない! その女でないと駄目だ」
「根拠は?」
「は?」
「結さんでないと駄目な根拠を示せよ」
頑なに結の身体に回した腕を離さない達正に、
「全く、子どもの駄々に付き合ってる場合ではないというのに……
そもそも生贄とは、処女の女性がなるものだ。現に、事態を収拾するに相応しい、生贄となる処女の巫女を寄越すと協会から言われて、そこの女が派遣された。それが根拠だ!」
次に、はっ、と笑ったのは達正の方だった。
「馬鹿かよ」
「何……?」
達正は結の身体をようやく解放し、結を自分の背に隠すようにして立った。
「“必ずしもその犠牲となるものは婦女とは限らない。別して人柱として選ばれたものは多く男子であった”」
「な、に」
「旅人とか、その集団に属していない人間を捕まえて、ってのもあったらしい。喜田貞吉の、『人身御供と人柱』。
“人権乏しい男女小児を家の土嚢に埋めたことは必ずあるべく”ともある。南方熊楠の『人柱の話』」
「何が言いたい!?」
「生贄は、結さんである必要はないってことだ。
古今東西、老若男女、誰だって生贄になり得た。若い女性である必要も、処女である必要もない。巫女であることすら全く求められてない。
ちなみに巫女の方も、処女じゃなくて未婚が条件と思われる記述も見つけた。結さんのお母さんやおばあさんがずっと力を使えていたことを考えると、それだって怪しいが」
「では何故処女の巫女が協会から斡旋された!? 準備したのはあちらだ」
「そういうことにしておけば都合が良い、って奴らがいるってことだろ。なあ、もっと自分の頭で考えろよ親父」
うるさい! と神主が怒鳴る。
「他の事例などこの際どうでも良い! 事実、その女は裏山様に気に入られて――」
「裏山様も、誰でも良いってスタンスらしいぞ。証拠はある。裏山様に言ってみたんだ、代わりに俺が行く、って」
「……は?」
「『ならばそなたがこ』、って言ってきたから、俺でも受け入れてくれるんだろ」
「なっ、なんだと!? ではアレは」
「ああ。俺を探してる」
「この馬鹿者が!!」
パァン、と派手な音が響いた。
神主が走り寄り、おおきく振りかぶって繰り出された拳を、達正は手のひらで受け止めた。
「人を騙したり脅して生贄にするより、全然マシだろ!? 俺が自分の子どもだから生贄に出すのがいやだって? 結さんにだって親はいるんだぞ、どっちが馬鹿だよ!
大体、こっちの都合で人の命差し出して、こっちの都合で大人しくしてくださいってそんなのめちゃくちゃ勝手だろ、差し出したところでほんとに収まるかどうかなんて確証、どこにあるんだ? どこにもないだろ!?
もしも今回生贄差し出して運良く裏山様が大人しくなってくれたとして、数年後、最悪来年にでもまた同じような騒動を起こしたらどうする? その度に生贄を、人を一人ずつ差し出すのか?」
オオオオオ、と山の奥からの唸り声が、そこらじゅうに響き渡る。
「……このままでは、山に張り巡らされた結界が破られる。裏山様はお前を求めてここまで出てくるだろう。時間がない、早急に対処しなければ」
神主は達正に掴まれていた拳を振り解いた。
「私は、ただ鎮まり給えと祝詞を上げる。それでも収集がつかなかったから協会に報告し、協会が対処することになった。以降は協会の責任、すなわちこの女の責任だ。
もし次にまた同じようなことが起こったなら、それも協会の責任、協会が対応すべき案件だ。私には関係ない。
私としては、当代さえ無事に過ぎれば別に構わん」
「こんの、クソ親父がっ……!」
「もう、止めて下さい!」
達正が作った握り拳を、結は後ろから両手で捕まえた。
「私、行きます」
「結さん!?」
慌てて振り向く達正に、大きく頷いた。
「大丈夫、考えがあるの」
「考えって、どうするんだ?」
振り向いた達正に、両肩をまた強く掴まれた。納得できなければ、離すつもりはないということだろう。
「これまでは裏山様から出た力の余剰分を食べていて、本体はあまり削れていなかったのかもしれない。だから、なかなか終わらなかったし、本体が活性化すればいとも簡単に力を増大させることができたのだと思う。
なので、裏山様本体の大部分を食べます。そうすれば力は縮小し余剰分は発生せず、かつ、一部を残すことにより、呪いも発生しない。
残された部分は、数年、数十年、どれくらいかかるかは分からない、再び今の大きさに戻る可能性はありますが、神主さんの神社に合祀してもらえれば、そのリスクも軽減できる。
いまの荒ぶる状態が落ち着いたら、合祀は可能ですよね?」
「可能だが……そんなことができるなら、何故いままで」
「そんなことして、結さんは大丈夫なのか!? 戻って来れないリスクが」
「うん」
これは、裏山様の対処を魂依りの法だけにし始めた段階で検討した方法だった。戻れないことを恐れて、選択しなかった。
明らかに心配そうな達正の腕を、軽くポンポンと叩いた。
「通常の鎮めは効かない。完全に祓う方法は、私だけでは到底無理だし神相手となると論外。
生贄として身を差し出さないのだったら、自分に出来ることをただ続けるしかないわ――最大出力でね」
結は達正の両手を掴み、肩から外す。
「やるわ。上座をお願い。私をこの身体に繋ぎ止めて」
「結さん」
「上座が導いてくれればきっと大丈夫。私は諦めないから」
失敗する可能性の方が、恐らく高い。短時間では終わらないだろうし、最大出力を試したことなど一度もなかった。でもこう言わなければ、達正は行かせてくれないだろう。
結は強張る顔で、無理やり笑顔を作った。
「さあ、裏山へ入りましょう」
万が一の時に備え、神主と校長には引き続き校庭に待機してもらい、結と達正の二人で裏山へ入る(達正が入ることに対して神主が渋り、また一悶着あったが)。
一歩、結界の中へ入ると、そこらじゅうに眷属の気配がする。
「奥まで進めそうにないわね。この場で始めましょう」
スニーカーを脱ぎ始めた結に合わせ、達正が正座する。
「かしこみ かしこみも もうさく
たかまがはらに かみづまりまします
かぐつちのみことを もちて
ひのやまの ごうのつかを しずめまもる
たまよりひめ」
大量にいる眷属を蹴散らすには、何に降りればいい?
「まいをまいて たま まつるわざを
しろしめせともうすことのよしを
きこしめして
きがんえんまん かんのうじょうじゅ」
グッと足に力を入れる。
四つ脚、地面に近い。毛と体感で、恐らくタヌキ。
走り出すが、目の前に同じタヌキに変化した眷属が現れ、飛び掛かられる。
眷属に重さはない。だが、身体の動きは封じられてしまう。
「ダメ、これじゃダメだ」
「結さん!?」
ちょうど身体が達正に抱き止められたところだったらしい。意識を失ったと思ったら突然
喋ったのだから、驚くのも無理は無い。
結はそのままの体勢で、もう一度祝詞を上げる。
「きがんえんまん かんのうじょうじゅ」
ぱ、と目を開けて足に力を入れた。
四つ脚、さっきよりは目線が高い。シカだ。
走ると先ほどよりは速いが、そこらじゅうの眷属達がシカに変化して、もの凄い勢いで体当たりしてくる。
身体のひときわ大きな個体に突き飛ばされ、まばたきする内に、また達正の腕の中に戻っていた。
「ああ、戻っちゃう」
焦りと悔しさから、涙が出る。
「どうしよう、どうしたら良い? 進めないの、前へ行きたいのに!」
どれくらいの回数が必要になるのかは分からないが、もっと強くて丈夫な獣に降りるまで、繰り返すしかないのか。
達正の言葉を待たず、結は再度祝詞を上げる。
「きがんえんまん かんのうじょうじゅ」
先ほどよりももっと身体が重く、頑丈な足。
イノシシだ。
次は迷わずシカになった眷属達の群れに飛び込む。
周りの草と共に薙ぎ倒しながら、時折食いちぎりながら裏山様めがけてひた走る。
もうすぐ拓けた場所に辿り着く、というところで、巨大なイノシシに変化した眷属が立ち塞がった。
圧倒的な体格差。
結は立ち止まって、
「……いや、無理」
自分の声が聞こえた。と思ったら、もう達正の腕の中だった。
「あれ、ここって」
周りを見回すと、最初の地点と少し様相が異なっていた。少し離れてはいるが、あの巨大なイノシシが視界に入る。
「『前へ行きたい』って言ってたから……移動したの、マズかった?」
運んでくれたんだ、と結はようやく思い至った。
「ううん、ありがとう。すごく助かる。でも気をつけて、裏山様のいまの狙いはあなただから。
それに多分、なんとなく理解できた。これまで必要なかったから、していなかったけれど、こうなりたい、必要なんだと願えば、その能力を持った獣、もしくは近しい獣に降りることは可能みたい。
……多分、次は上手く行く」
結は立ち上がり、上空から滑空し裏山様に接触可能な獣をいくつか思い浮かべながら、舞を舞う。
「――まいをまいて たま まつるわざを
しろしめせともうすことのよしを
きこしめして
きがんえんまん かんのうじょうじゅ」
できた!
しかし降りた時にはすでに空を飛んでいた。意識のブランクができたため、体勢が保てず落ちそうになるが、懸命に羽ばたいて持ち直す。
羽の大きさ、爪の様子から、恐らくワシだ。
下を見ると、人の姿をした裏山様がこちらを見上げて立っている。アレが人でないことは、頭では理解している。しかし見た目が……やり辛い。
それでもやらなくてはと思い、滑空する体勢を取ろうとした。
瞬間、辺りから光が沸いて、一斉に裏山様に向けて飛ぶ。先程の巨大なイノシシも、あっという間に形が崩れ、裏山様に吸収された。
裏山様の形はどんどん変わり、光る巨大なクマに変化した。
結はワシの姿で滑空し、クマとなった裏山様に襲いかかった。鋭い鉤爪で頭の肉を引き裂き、硬い嘴で引きちぎる。本体から分離された力が戻らぬよう、嘴でちぎったものはなるべく飲み込む。
裏山様は腕を振り回し抵抗する。
腕を避けるために、結は空中へ飛び上がっては下りを繰り返す。
でもこれだと、喰らう量が少な過ぎるし時間もかかってしまう。
「……もっと!」
また達正の腕の中に抱き止められていた自分の身体に戻り、祝詞を上げた。
「きがんえんまん かんのうじょうじゅ」
今度は四つ脚で、裏山様の元へ駆け込む。
気合いが、オンっ、という吠え声に変換された。オオカミ、はいるはずがないのできっと違うだろう、ヤマイヌだ。
裏山様の背中に飛びつき肩に喰らいつく。
裏山様は腕と身体を振り回すが、結は振り落とされないよう爪を立て、肩の肉を貪り喰う。
このまま続けていければ。いや、続けるともしかして、どこかで喰らう限界が来たりはしないだろうか?
考え込んだせいで、隙ができた。結は突如頭をぶん殴られ、キャウンっ、という叫び声と共に吹き飛ばされた。
気づいたらまた身体に戻っていた。
殴られた衝撃は、こちらの身体には残っていないはずなのに、激しいめまいに襲われる。
「凄い鳴き声だった、大丈夫?」
「……私は平気、でも、イヌが」
でもあのヤマイヌは、生きていないかもしれない。
「大丈夫だ。もういなくなってる。走って逃げたんだろう」
「……そう、よかった」
結がしばらく目を閉じ頭を抱えていると、
「また始まった」
達正の声で目を開き、見ている方向を見遣る。
まだまだ眷属が残っていたのか、裏山様は更に光に包まれ……
「うわ、なんだあれ」
もう、クマの形を保っていなかった。
至るところがボコボコに盛り上がった体躯、異様に長い腕、反比例するように足は短い。左右のバランスが全く違う目玉は飛び出し、裂けた口は牙が剥き出し、よだれが垂れている。大きさも、拓けた場所のほとんどを埋め尽くしそうな程に成長した。
もはや異形の怪物、としか言いようがない姿だ。
見た目を整える余裕がないほどのダメージを与えられたのか、それともこちらが元々の姿なのか。
なんにせよ、あの異形に打ち勝てるほどの力を持つ獣に降りなければ、喰らうことなど到底無理だろう。
「……私の山から、呼ぶわ」
「何を」
結は達正の腕から離れ、地面に降り立つ。
あの姿を思い出して。具体的に思い描いて。いる。必ずいる。ここにいないのならば呼べば良い。
私の山から。
「かしこみ かしこみも もうさく
たかまがはらに かみづまりまします
かぐつちのみことを もちて――」
数刻も経たぬうち。
遠くから、ビィィィー、という鳴き声と共に、熱い風が吹く。
「あれは、まさか」
達正が上を見上げ、驚きの声を上げる。
「まさかそんな、実在するわけないのに……もしかして、鳳凰か!?」
ああ、覚えていた通りだ、なんて美しいのだろう。
大きな翼、紅い体躯。悠々と空を舞う。
少なくとも、私の山にはいたの。
言葉にして達正に伝えようとしたが、結には最早人語は話せなかった。
なのに、まだ魂は身体にある。
いつもより魂を降ろすのがゆっくりに感じるのは、相手が神様みたいな存在だからか。
結には、小さい頃から見えていた。ずっと山にいて、そばで見守ってくれていた。
大きくなるに連れて、見えなくなってしまったけれど。
きっとあれはうちの山の神様で、いつか願えば力を貸してくれると信じていた。
神様に降りるなんて分不相応なことをすれば、二度と自分の身体に戻れないだろう。
でも、たとえ戻って来れなくなったとしても。自分を差し出して戻れなくなるより、最期まで抗って戻れなくなる方が断然マシだ。
達正と目が合う。こちらへ手を伸ばし、結も手を伸ばそうとするが、間に合わない。
自分の目から涙が溢れた落ちた、と思った時にはもう、結の魂は鳳凰の中にいた。
結は鳳凰の嘴の中に火を溜め込み、裏山様の肩を両脚で掴む。口を大きく開け、頭を焼きながら喰らう。
裏山様はまた腕を振り回し身体を捩って結の攻撃を避けようとするが、その度に結は空へ舞い、肩や頭、可能な瞬間には腕に取りつき肉を焼いて引きちぎり喰う。
ワシの時よりも格段に身体は大きくなったのに、動きが早い。
焼いているからか、一口に引きちぎれる量も段違いに多い。
これなら順調に喰える。
ああ、美味しい。頭も美味しかったけれど、腕も別な味がして美味しい。胴体なんて、甘みのある中身が詰まっていて、極上だ。
どこまででも喰える、どこまででも焼ける。
喰って、喰って、貪り喰って。
焼いて、焼いて、焼き尽くして、そして全てを……
「……さんっ!」
遠くから、誰かの声が聞こえる。
「結さん、それ以上は食べちゃダメだ、呪われてしまう!! もう充分だから、戻ってきてくれ!!」
誰、邪魔しないで!
「結さんっ!!!」
『ウルサイ!!!』
鳳凰は、掴んでいる裏山様の二本足のうちの一本を掴んだまま振り返る。視線の先にあるのは、苦しそうな表情をして、結の身体を庇うようにして立つ、達正の姿。
いま私、うるさいって言った? 達正君は、どうしてそんな顔してるの?
鳳凰は視線を外さず、裏山様の残りを手放して上空へ羽ばたき、一直線に達正の元へ下降する。
『まさか、うそ、そんな……』
身体の自由が効かない。止められない!
鳳凰は、落ちる勢いのまま、達正の左肩を喰いちぎった。
血飛沫の中、倒れゆく達正が結の目に映る。
『いやっ……達正君!!!』