14.
年が明けてから卒業式までは、教職員としては、業務量が膨大だったこともあって、あっという間だった。
卒業式当日。
一年生の副担任である結は、式に関わることもなく、しかしその雰囲気はあちこちにあったので、生徒達の集団をなるべく避けるように移動し、ほぼ一日中、裏山に引きこもっていた。
三月末。
「……先生、都司先生」
ガヤガヤと騒がしい店内で正座していた結は、同じクラスの担任である田嶋に声をかけられていることにやっと気づいた。
コース料理はすでにデザートまで出され、周りはそれぞれの会話に集中している。
壁際に座る結の周りには、誰も残っていなかった。
「隣、良いですか? 酒飲んでます?」
「……いいえ」
田嶋はビールのジョッキを手に持ったまま、結の隣に壁に背中を預けて座った。
結はこの春休み中、次の年度、自分がどのような扱いになるのかも分からないまま雑務を言いつけられてはこなし続けていた。
以前と同じように、夜になってから裏山へ行く日々を過ごしており、もちろんこの飲み会が終わった後も裏山へ行くつもりだったので、酒は飲んでいない。
そもそも心身ともに飲み会に参加できるような状態では全くなかったのだが、曲がりなりにもお世話になった――同じクラスの担任、更に女子バスケ部の顧問を男子バスケ部と兼任で引き受けてもらっていた――身としては、田嶋の送別会には形だけでも出ておいた方が良いかと思い参加したのだった。
「……教員を辞めて、ご実家に帰られるんですね」
田嶋が驚いたような顔をした。
「おや、都司先生、認識してたんですね?」
「クラスでも部活でも、子ども達に送別会してもらってたじゃないですか。私、その場にいましたし……」
なんなら準備の手伝いも行った。
どちらも正味一時間程度の会だったが、みんなとても楽しそうで、そして田嶋がいなくなることを悲しんでいた。結には、普通の教職員と生徒の在り方の見本のように思えた。
遠過ぎて、眩しかった。
「ははは。いつもぼんやりしていたから、よく分からないまま参加してたのかと」
はは、と結も笑って返す。会の間、遠巻きで眺めているだけだったので、否定のしようがなかった。
「そうです。俺、農家の長男なので、一区切りついたら戻って来いと言われてたんですよ」
お酒が入っているからだろうか、いつも一人称が「私」だったのに、と結は思った。
「何年、教員をされたんですか?」
「ちょうど十年です。そろそろ転勤かもしれなかったので、声がかかる前に辞表を提出しました。区切りいいでしょ。
すみませんね、こんなギリギリでしかゆっくり話すタイミングが掴めなくて。
都司先生は、これからどうするんです?」
田嶋は身を寄せ、声を落とした。
「本当は、先生じゃないんでしょう? いや、免許は持っていらっしゃると思いますが。正規のルートで雇われていない」
結はたじろぎ、少し身を逸らした。しかし、ここまで断定して言うのであれば、確信があるのだろう。
それに、否定する元気も残っていなかった。
結は黙ったまま、麦茶の入ったコップを手に取り、足を崩して伸ばし、田嶋の横の壁に背中をつけた。
「恐らく、不本意な形で先生をやっていらっしゃることはなんとなく感じていました。校長室へ頻繁に行かれていたのは、そのことで校長と揉めていた、ってところですかね」
ふふふ、と小さく笑う。
「安心してください。この会話に他意はなくて……そう、ただの答え合わせですよ。
俺はあなたが、先生の仕事をおろそかにしていたとか、力不足だった、なんてこれっぽっちも思ってません。
むしろ俺が一年目の時しっかり授業やってたんじゃないかな。
授業だけじゃなく、雑務にも、子ども達とのコミュニケーションにも手を抜かない、真面目な方なんだなろうなと思ってました。
でも、ここは本来あなたのいるべき場所ではない。そう自分自身が考えているのであれば尚更だ。
来期はどうされるんです?」
「……分かりません」
「自身のことなのに?」
「私が決められることではないので」
ふうん、そういうものなんですか、と田嶋は言いながらジョッキを一口あおり、テーブルの上に置いた。
「夏頃、誰か頼れる人ができたのかと思ってたんです。だから大丈夫なんじゃないかと、思ってたんですけどね……冬に向かうにつれ、言い方がアレかもしれませんが、なにか変な風に拗れたのかな、と」
話が飛びますけど先に謝っときます、酔っ払いなもので、と田嶋は断りを入れた。
「俺、一度校長に、あなたへの態度を改善した方が良いと進言したんです。周りへの影響も大きかったし、なにより目に余るものがあった。
そうしたら、彼女は普通の教職員とは扱いが違う、田嶋先生の口出しすることではない、と一蹴されました」
結は驚き、田嶋を見る。しかし田嶋の視線は、ジョッキに固定されたままだった。
「正直、なんだそれ? って感じでした。だって俺、先生としてのあなたの扱いじゃなく、一人の人間としての扱いの話をしに行ったのに……
あー、違う違う、恩を着せようとして話してるんじゃないんです」
田嶋はゆっくりと首を振った。
「俺、校長先生に反論したかったんです。腹立ってたから。
でも、俺は知らなかった。あなたの本当の立場も、なぜここにいるのかも。あなたから何も、聞いていなかった
だから反論できなかった。何をすれば改善できるのかも、分からないままだった。
あなたは頑な過ぎるんですよ、一人で抱えてしまう傾向がある。一緒に働いていて感じていました。
俺は同じクラスの担任で、先生方の中では一番俺がそばにいたのになにもできなかった。
いいですか、ここが重要です。
しなかったんじゃなく、できなかった。なにも教えてもらえなかったので。
責任転嫁がしたくてこういう言い方をしてるんじゃありませんよ、お間違えなく。
忙しくて聞けなかったってのもありますが……いや、これは単なる言い訳だな。
もしかすると、聞いたところで一般人が立ち入ることが無理な領域なのかもしれないとも思ってましたが」
結が返答に困り、口を開いたり閉じたりしていると、いつの間にか田嶋が結を窺うように見ていた。
「お、当たったかな?
さて、結局何が言いたかったんだか……ああそうだ。つまり、頼れる人に頼ってくださいって話です」
田嶋は、人差し指で、結が持つコップを指差した。
「でも、これだけは覚えといて下さい。何も説明せずに救ってくれるヒーローなんて、存在しませんよ。察してくれて、しかも無償で手を伸ばしてくれる人が、どれだけいると思います?
ほぼゼロですよ。正直親兄弟ですら、なんの見返りもなく手出ししてくれる存在ではないと思っていますから、俺はね。
そんな相手がもし現れたなら奇跡だし、絶対に手を離すべきじゃない。
それはさておき、あなたには頼れる人が必要だ。察して無償で手伝ってくれる人なんて現れない。だから、頼れそうな人がいたら、ちゃんと自分で自分のことを説明して、助けて、って、言うんですよ」
「あの、」
咄嗟に思い浮かべた人の顔はただ一人。自ら手を離してしまった、最早会えるはずがない相手だ。
そう伝えようとしたら、田嶋から右手を出された。
「これからいなくなる、一般人な俺じゃなくてね。ズボラをしちゃ、ダメですよ」
そうじゃなくて、とは言い出し辛かった。結は曖昧に笑いながら、その手を握り返す。
「良かった、言いたいこと言えました。こんな酔っ払いの話でも、聞いてくれてありがとう。
都司先生が副担任で良かった。一年間、本当にありがとうございました」
「……お世話になりました、色々とありがとうございました」
もっと何か言わなきゃ、と思うのに適切な言葉が思い浮かばない。
田嶋はスッキリしたのか、さっさとその場を離れ、別の先生方のところへ混ざりに行った。
知らないところで、知らないなりに精一杯、守ってもらえていた。
結は、自分のことばかりで周りが見えていなかったのだという事実に衝撃を受けた。
こんなことなら飲めば良かったな、と結は思った。
感謝の気持ち自体よりも、感謝の気持ちをもっと上手く伝えられなかったこと、気づかなかった自分の不甲斐無さ、情けなさの方が圧倒的に勝っていて、動けない。
酔っていれば、勢いでまだどうにかできたかもしれない。
悶々としているうちに会の解散の挨拶があり、皆が外に出始めたので、結もその流れに乗って外へ出る。
外では、しとしとと小雨が降っていた。
そういえば、昨日の夜から雨が続いていたんだった。裏山は、昨日よりもさらに足元が緩んでいるはずだ。
気づいたら、田嶋先生を囲んだ一団が遠くへ移動していた。きっと二次会へ行くのだろう。
かけられる言葉はやはり出てこない。もう、間に合いそうになかった。
「……もう、明日にしよ」
少々ヤケクソな気分になりながら、三々五々散って行くその他の先生方にそっと紛れて、結も帰宅の途についた。
次の日は休日で、朝から強い風が吹くものの、とても良い天気になった。
明るい時間に裏山へ入ったこともあり、いつもより少し長めに六十分間、ヘビに降りて眷属を喰らう。
『……?』
違和感があった。
アラームの音で自分の身体へ戻るが、何か周りの様子がおかしい気がする。
濡れたタオルで足全体を軽く拭いて靴を履き、荷物をボストンバッグへ入れていた、その時。
視界の隅に、白い何かが映った。と同時に、圧倒的な力を持つ何かの気配。
一気に気温が下がり吐き出す息が白くなり、身体がガタガタと震える。
寒さ? それとも、まさか恐怖?
顔を上げると、
「……!」
そこには、人の姿をした、裏山様が立っていた。
それが裏山様だと判別できたのは、眷属達から感じていた気配そのものだからだ。濃度は圧倒的にこちらの方が濃ゆい。服装は上下ともに白い斎服。神主などの儀式を行う者を真似たのか。
下草を踏む音を一切立てず、一歩、二歩と結の元に近づく。
そして、口を開いた。
『此方へ来』
透き通りすぎて身を貫くような声。結に向けて、手が差し伸べられる。
『嫁に来』
結は叫びそうになるのを手のひらで押さえ、空いた左手で荷物を素早く掴み、踵を返して走ってその場を離れる。
「うそ、でしょ……」
必死に走りながら、あまりの衝撃に思わず声に出る。
約一年間、ずっと裏山様の力を減らし続けてきたはずだった。どうして裏山様は人の形が取れるくらいの力が余っている?
そこで結はようやく違和感の正体に気づいた。
「そうか、今日は終わり頃になっても、眷属の気配が減った気が全くしなかったんだ」
いつもであれば、儀式終わりには眷属の数は目に見えて減っていたはずなのに。
思い返せば、六十分も時間があったのに、身体に戻る直前まで喰らっていたし、なんならそばに取り残しもあった。
「なんで……どうして?」