10.
結局、泣き止むことが出来なかった結は「明日絶対そっち行くから住所と職場教えろ」「儀式は明日手伝うから今日はもう帰って寝ろ」とミアに言われ、結は本当に、そのまま家へ帰って寝てしまった。
翌日、結はいつも通り学校へ来て業務をこなしていたが、時間が経つにつれ、憂鬱な気持ちが増していった。
結は、一度しか会ったことがないミアが、どういう人なのか全く知らない。
いまどこに、何の任務で行っているのかも知らなかった。唯一知っていることといえば、彼女が魔女という、祓い師としてはかなり珍しい系統の人であるということくらいだ。
なのにどうして、ミアの「そっち行くから」「手伝うから」という言葉を鵜呑みにして、昨夜儀式をせずに帰ってしまったのだろう。
まともな判断とは思えない、完全に、冷静さを欠いていた。
裏山が荒れて、手に負えない状況になっているのではないかと戦々恐々とする。
しかも、一人でやらなくちゃならないのに。思い返すたびに、涙目になりながらパソコンを打つ。
ところがだ。
「よっ、都司っちお勤めご苦労! 迎えに来たよー」
十七時四十五分きっかりに、外に通じる窓から(職員室は一階にある)満面の満面の笑みを浮かべたミアが現れた。
非難するような他の教職員の視線などガン無視だ。
結は誰かに何か言われる前にと、慌てて教員用の靴箱がある玄関の方向を指差し、説明して先に行かせ、急ぎ荷物をかき集めて挨拶もそこそこに、職員室を飛び出した。
「ちょっと、どうして……!?」
玄関前で落ち合ったミアは、手のひらをパタパタと上下させながら、
「どーしてって、昨日約束したじゃん! だから来たんだよー。あたし、こんなんだけど約束は守る方だし、自分から提案して見捨てるとか、どんだけ非情な奴だよって話じゃん!
それに昨日都司っち言ってたっしょ、いつも学校の仕事が終わってからそのまま儀式に向かうって。
早速行こう、場所どこ?」
「まだ学校の仕事、終わってなかったのに」
「え、いま学校って夏休みじゃんやることなくない?」
「それがあるのよ……」
「いやいや、あるっていっても、いうて公務員って十七時四十五分が退勤時間じゃなかったっけ? 残業とか社畜とか知らんし。そもそもあんたの先生業はおまけであって、真面目にやる必要は全くありませーん。
あー、でもアイツらの顔、それであんなんだったん? クッソおもろ」
ミアは、くっくっく、と笑う。
「もー……」
文句を言おうと思っていた結は、しかし他の教員達の表情を思い返すと、確かに面白く思えてきて、つられてくすくすと笑ってしまった。
「さーて、で、どこよ?」と促され、誰かに見られていないかを確認しつつ、裏山の獣道まで到達。行く先を眺めて、ミアはにやりと笑いながらリュックを背負い直した。
「わーお、スニーカーで来て正解じゃん、あたし天才」
結は、ミアに手を差し伸べた。首を傾げられたので、上にあるしめ縄を指し示す。
ああ結界ね、と言ってミアは結の手を掴んだ。
結界を潜る瞬間、ミアの腕がビクッと跳ねる。
「え、うそ、大丈夫?」
「はははー、なんだこれゾッとするー」
と口調は楽しげだが、頭上を見上げる目つきは鋭い。
空いている手を握ったり開いたりして動作確認をした後、
「うん、問題ない、へーきへーき。先行こう」
と言ったので、結は気になりながらも先へと進んだ。
しばらくすると、いつもの開けた場所に到達する。
結は身支度を済ませ、達正が儀式中陣取っていた場所を指し示し、ミアに座ってもらう。
「安全のために、三十分経ったら戻れるように携帯のアラームを設定してる。もし私が近くにいなくて戻りそうになかったら、探し回らなくて良いから、ここで名前を呼び続けて」
「うんうん!」
ミアはリュックを下ろしてその隣に胡座をかいて座り、頭をぶんぶん縦に振る。
若干の不安を残しつつ、結はいつものように祝詞を上げ始めた。
「――ひのやまの ごうのつかを しずめまもる
たまよりひめ
まいをまいて たま まつるわざを
しろしめせともうすことのよしを
きこしめして
きがんえんまん かんのうじょうじゅ」
目を開けると、視界が低い。身体の感覚と足の形から、キツネになったことを自認する。
その場で一回転して、自分の身体とミアの場所を確認した。
そういえば、彼女に儀式で何が起こるのかは説明していなかったな。
結はキツネのまま茂みの中を進んで、ミアの前に姿を現した。
「へー、そういうこと!」
どうやらミアは一目で事情を把握したらしい。結は頷き、そのまま身を翻して茂みの中へ戻り、眷属を探し始めた。
『あれ』
気配を感じて空を仰ぎ見ると、黒いカラスが飛んでいた。ぐるぐると旋回し、下の様子を探っている。
これまでは儀式の間、自分と用意された眷属以外の生き物が動いているのを見たことがなかったのに。
『なんだろ……』
目を凝らしてよく見ると、足に糸が巻き付いている。場所を移動しながらその糸の先を辿ると、立ち上がってカラスを見守るミアに行き着いた。
『……そうか、使い魔なのね』
では、結の目に見えた糸は、縁の糸なのだろう。
しばらく様子を見ていると、カラスは光る獲物を問題なく捕食できているようだった。結はその付近をカラスに任せ、更に山の奥の方まで探索範囲を拡げた。
アラームの音を耳が拾う。駆け足で開けた場所まで戻ると、ミアがいなかった。とりあえず術を解き、先に自分の身体へ魂を戻す。
「痛ったた……」
負傷箇所を確認しながら、ゆっくりと身体を起こす。久々に、あちこち打撲しているようだった。
辺りを見回すが、やはり、先ほど立っていた場所にミアの姿はない。
まさか、いつの間にかアラームも聞こえないところまで行ってしまった? 道中では山歩きに慣れていそうな身のこなしだったが、まさか遭難してしまっただろうか。
慌てて名を呼ぶと、先にカラスが飛んできて、ミアのリュックの上に降り立った。
「やーごめんごめん。あんたも使い魔も熱中してて面白そうだったからさ、うっかり参戦しちゃった!」
生い茂った下生えをガサガサとかき分け、ミアが現れる。
「参戦!? って、方法は」
「短剣常備してるんで、それ使って物理攻撃、って考えてたんだけどさ。やー、ぜんっぜん無理だった! あいつら、あたしからだと見つけにくいわ逃げ足速いわで、一匹も仕留めらんなかった。使い魔の目も使ってみたけど、逆に難易度爆上がり!」
ざーんねん、と言いながら、ミアは楽しげに笑う。
「あーあ、面白かった! や、そんなことより。あんた、毎回あんな唐突に倒れんの? めちゃくちゃビビったよ。いつもこんな土にまみれて傷だらけになんの?」
腕を掴まれ、頬に掌を当てられ、パタパタと軽くはたかれる。乾いた土が落ちていった。
そうだった、レジャーシートを敷くのを忘れていた。言われてたのに。
「なに、どしたん?」
ぼんやりとして、されるがままになっている結にミアが問いかけた。
「いつもなら、私が倒れる時に受け止めてもらえてたの。それで最近は、あまり怪我することがなくなってたんだけど……」
「え、あの状態からタイミングよくあんたの身体キャッチすんの? いやいや無理っしょ同じにはできないっての、わがまま言うなし」
「言ってない」
あーもー、とミアは頭をガシガシと掻き、
「ね、それってこれまで一緒にやってくれてた子の話でしょ? 詳しい話は後で聞かせてもらうとして。とりま、その子なんでそんなことできたの?」
「男子バスケ部の、副部長だったから……でも、正座ができたのは、きっと神社の息子さんだったから」
「正座??? どゆこと??? バスケ部関係ある???」
やっぱり、嘘つかれてたんだな、私。
結は思い至って、涙が溢れる。
「あー? ちょ、何でここで泣く!?」
ミアは慌てふためき、上に乗っている使い魔に構わず自分のリュックからタオルを取り出して結の頬に押しつけた。
使い魔は一目散に近くの木の枝まで避難した。
「ごめんって! こんなとこで思い出させて悪かった!
でもあたしにゃあんたをキャッチするなんて到底無理だから別の対策考えよ、えーと、んーと、あ、そうだ! 学校からマットレス借りパクしてこようか!? まかして、それならあたしできそう!!」
「ふっ。ち、違……」
ちょっと面白くて笑ったし、そっちじゃない、とも言いたかったが、涙が止まらない。
ミアはふんわりと結を抱きしめ、背中を軽くポンポンと叩いた。
「よし、まずは家帰ろう! お風呂入った後に、すっごい効き目がある軟膏塗ってあげるから! あたしお手製だよー、絶対傷跡残んないから! ね、だからお願い、泣かないでよお……」
結のアパートに辿り着くなり、ミアは結をテーブルの椅子に座らせた。
結がぼんやり座っているうちに、ミアは手早く風呂の掃除とお湯溜めを完了し、結を風呂場へと放り込む。
結が風呂から上がると、ミアはリビング兼寝室にある座卓の上にティーカップを二脚置いて待っていた。
ミントの良い香りが部屋中に広がっている。恐らく結が風呂に入っている間に、勝手にキッチンを漁ってカップを取り出し、電気ケトルでお湯を沸かしたのだろう。ティーパックは家になかったはずなので、持参したものか。
「ささ、どうぞそちらへ」
と、あぐらをかいたミアは自分と向かい合わせに座るよう促す。
結は、私の部屋なんだけど、とツッコミたいのをぐっと我慢して、おとなしく向かいに座った。
ミアはリュックの中から小さなアルミ缶を取り出した。蓋を回して開けると、緑色のゲル状のものが入っているのが見える。
「今日は特別だよー」
人差し指でそれを掬い取って、ミアは結の頬の擦れた箇所に塗り込み始めた。草をすり潰したような匂いが漂ってきて、鼻にツンとくる。
「他、どこー?」と言われたので、部屋着のパンツを太ももまでずり上げた。膝からふくらはぎにかけて、打ったところや皮が剥けて血が滲み出ているところにも塗り込まれる。
ひと通り塗り終わったミアは、「これ置いてくから使ってね」といい、アルミ缶の蓋を閉めて座卓の上に置き、ミントティーを一口飲んだ。
「ありがとう。それから、あの、私の術のことなんだけど……」
ストップ、とミアが手を挙げる。
「家系や自分固有の技の開示には気をつけて。特に同業には気軽に話しちゃダメ。常に秘匿を心がけなさい」
「え、う、うん」
ミアの真面目な顔と声のトーンに、結は気圧されるまま頷いた。
「でもまー、いうてあたしがあんたに電話かけてたの、技を見せてもらいたかったからなんだけどね」
「え!?」
「だって興味あるじゃん! 社を持たない巫女系ってどういう技使うんかなって。ちなみにあたし、実際に自分の目で見ないと信じないタイプだから」
あっという間にいつもの調子に戻り、にっ、と歯を見せて笑うミアに、ため息が出る。
「あんたの技についてはめちゃくちゃ驚いたけどだいたい理解した。
日本のああいう技って、自分の身に魂を降ろすってイメージ持ってたんだけど、まさか自分の魂の方を降ろすとはね……ちなみに魔女が同じようなことしようとしたら、変身になるよ。高度過ぎてあたしはいまのところ成功してないけど。
んなこたさておき、本題。いったいどうして泣いてたの?」