1.
夜空を飛ぶ。
翼をめいっぱい拡げ、風を捉えて羽ばたいて、高く、低く飛ぶ。
身体を自由自在に操ることができる。
全ては思う通り、という万能感。
なのに、心には焦り、というよりは危機感がある。
それが何なのか、分からない。
ふと、向こう側に崖が見えて、身体全体が怖気立つ。
そうだ、このまま人間に戻れないかもしれないのに。
その可能性すら忘れて、呑気に空を飛んでるだなんて!
いつの間にか崖の真上まで到達していた。
崖の下は真っ暗闇だ。きっともう限界値を超えている。
気づくと、パニックに陥っていた。
翼をめったやたらに羽ばたかせ、この囚われた感覚から逃げ出そうともがく。
途端に、右の翼に激痛が走り、動かせなくなる。
羽ばたきを止めた身体は、崖の下目掛けて頭から真っ逆さまに落ちる。
風を切り、底の見えない暗い奈落へ。
嫌。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!
「……や、嫌!」
自分の叫び声で目を覚ます。
血の気が引き、体温が下がっているのか、手の震えが止まらない。
「大丈夫、大丈夫。いまのは夢、ただの夢。本当じゃないし、本当になんてならない」
自分の腕で、身体をぎゅっと抱きしめた。
――――――――――――――――
「さて、と」
下校時刻はとうに過ぎ、日は沈んで、暗闇がゆっくりと、しかし確実に広がる夜八時頃。
都司結は、ひと気のない校舎を背に、通勤してきた格好――白いブラウスに紺色のタイトスカート、低めの黒いパンプス、ストッキング――のまま、大きな黒いボストンバッグを肩にかけ、キャンドル式のランタンを手に、学校の技術棟裏手にある「裏山」の前に立っていた。
生い茂る雑多な常緑樹林を見れば雑木林と呼称するのが正しいようにも考えられるが、木々の間には常時水分を含んだ湿地帯の様な場所もあるので、詳しい知識のない結には、にわかに判別がつかない。ただ、地元の人間や学校関係者はこの一帯を、更に後ろに広がる小高い山と合わせて「裏山」と呼んでいたので、結もそれにならっていた。
結は周囲に人の目が無いことを入念に確認し終えると、点火したランタンで地面を照らした。そこには慣れた者にしか気付けない、小さな獣道がある。
その獣道を使って、結はいつものように、裏山の中へと足を踏み入れた。
下草についていた大量の露が、結のパンプスとストッキングを容赦なく濡らし、泥まみれにしていく。昼頃まで雨が降り続いていた影響だ。
構わず十分程獣道を進むと、辺りの木々にしめ縄を張り巡らせた場所まで辿り着く。
結はつま先立ちになり、右手を伸ばして縄を掴んだ。
掴んだ手に力を込め、縄全体に神経を行き渡らせ気配を探る。綻びはなさそうだと判断し、手を離して縄の下をくぐった。
途端にひんやりとした空気が額や頬、腕や足を撫でる。無意識に腕をさすりながら、更に獣道を辿って歩くと、直径3メートル程の拓けた場所に出た。
バッグとランタンを近くの木の根元に置き、パンプスとストッキングを脱いでバッグの隣に置く。
バッグの中から塩を入れた小さなビニール袋とカップ酒を取り出し、裸足で場所の中央へ。ビニール袋を開いて塩を掴み出し、腕を振って周囲に撒く。
ビニールの残骸を地面に置き、なんとなく、カップ酒を掌で転がす。これを見ると、結はいつもあらぬ妄想に駆られる。
毎日ボストンバッグに入れて持参しているカップ酒を日中の校内で誰かに見られ、騒がれて問題になり、教師をクビになってこの任務を解かれる、という状況。
いっそのこと、そうなってしまった方が楽かもしれない。
「……冗談」
ふ、と小さく笑った。
あまり粗相をすると、新人の私なんて、学校どころか協会まで追い出されてしまう。
父の反対を押し切ってまで祓い師になった意味が無くなる。一時的に楽にはなっても、一生後悔するだろう。
祓い師として協会に所属するところまで、ようやくたどり着いたというのに。
せめてこの初年度の縛りの任務を終えることができたら、自分で依頼案件をある程度選べるようになる。それまでの辛抱だ。
結は頭を振り、一息吐いた。酒の蓋を開ける。塩と同じく周囲の地面に撒いて、わざと大きな音を立てて手を払った。
ゴミをビニール袋の中に拾い集めてボストンバッグの中に戻し、代わりに扇を引っ張り出す。
場の中央へ戻り、結の実家のある方向に向かって正座。扇を膝の前に置き、その上に両手三つ指を揃えてついて、深々と二度頭を下げる。二度目の礼で、頭を下げたままぴたりと止めた。
「たかまのはらに かむづまります
かむろぎ かむろみの みこともちて
すめみおやかむい いざなぎのおおかみ――」
身禊の大祓を奏上して頭を上げ、二度手を打つ。
最後にもう一度三つ指を揃えてついて頭を下げると、後方から吹く鋭い風音が耳を塞ぎ、全身が粟立つ。身体が震えるが、構わず扇を右手で掴み、立ち上がった。
扇は閉じたまま右腕をまっすぐに伸ばし、大きく深呼吸する。
「かしこみ かしこみも もうさく」
ぐ、と、身体全体が地面に引っ張られる感覚が増す。特に胸の辺りが上から押さえつけられる感じがして、あっという間に息が切れる。額から汗が吹き出し、流れ落ちるのを手の甲で拭う。
無理矢理に大きく息を吸い、手に持ったままの扇を、思い切り開いて面を上向きに、前方へ押し出した。
「たかまがはらに かみづまりまします
かぐつちのみことを もちて」
掲げる扇が重みを増し、持ち手が微かに震える。
さて、今日は何に降りるだろうか。
結は膝を少し曲げ、扇を持った右手を左手で支えて目を閉じ、その場でゆっくりと回転を始めた。
「ひのやまの ごうのつかを しずめまもる
たまよりひめ」
回転を重ねていくと、次第に身体に纏っていた布の重さ、手に持っていた扇の感触も失われ、身体の重ささえ、するすると解け落ちていく。
「まいをまいて たま まつるわざを
しろしめせともうすことのよしを
きこしめして
きがんえんまん かんのうじょうじゅ」
はっ、と目を開けると、視線が随分と高くなっていた。
次にどさりと重そうな音が、地面の方から起こる。つられて下を見てみれば、丸首の白いブラウスに、紺色のタイトスカートの女――先ほどまでの自分が倒れていた。
ああ、またやってしまった。絶対怪我してる。
自分の身体が顔面から倒れ込んだことに気づいた結は、慌てて身を乗り出そうとしてバランスを崩しかけた。
足に力を込めて初めて、己の足が太い枝を挟んでいることを知る。動かした腕から、バサッ、という音がした。よく知った色と、羽の形。
結は胸を撫で下ろした。一番馴染みがあり、この場この時間にふさわしい身体。暗い中でも周囲がはっきり見える。フクロウだ。
ありがとうございます、という呟きは声にはならず、カカッ、という嘴を打ち鳴らす音となった。
飛び立つためにやや身体を前に傾け、両翼を思い切り拡げる。途端に派手な音を立てて、左の翼を樹の幹に激突させた。ふらついてさかさまになりそうなのを、翼を小さくはばたかせ足踏みすることで、どうにか持ち堪える。
誰も見ていないのは理解しているが、恥ずかしさで顔がかっと熱くなった。
仕切り直しだ。結は加減しながらもう一度翼を拡げ、両足にぐっと力を籠める。
枝を蹴ってジャンプしながら、思い切り羽を動かして、空中へ飛び出した。
周囲の木の葉が舞い、自分の身体が倒れた地面に降り落ちるのが見えた。結は構わず、上昇を続けた。
脇目も振らず、一心に空を目指す。
裏山の木々から抜け出し、月の光で明るさを保つ空を旋回する。何度も翼を動かし、目を動かし呼吸を繰り返して、身体を慣らしていく。
結は周囲を眺められ、かつ掴みやすそうな枝に目星をつけて下降した。無事に枝を掴んで止まれたら、次は周囲を見渡し、状況の変化を待つ。
きらりと、目の端に青白い光を放つ小さな動きを見つけた。今夜、裏山様が用意した眷属はネズミの形をとったようだ。
結はすぐさま翼を拡げ、枝を蹴った。はばたきは最小限度、音を立てずに滑空する。
地面すれすれで光るネズミを捕らえる。かぎ爪でしっかりと光るネズミを捕まえ、止まらずにまた、上昇する。
結はネズミを先ほどの枝に持ち帰り、間髪入れずに嘴をめいっぱい開けて、噛んで引きちぎった。
血は出ない。本物の、生きたネズミではないからだ。しかし、それなりの重さがある。頭を上げて首を伸ばし、何度か嘴を動かして、喉の奥まで流して飲み込んだ。ネズミの身体は小さいので、二、三度繰り返せばあっという間になくなる。
爪の下に残った欠片を啄みながら、更なる獲物を探す。
東に二、北に一……いや、もっと出てきた。四? まあ、例え気づかれ逃げられたとしても、確率的に仕留めやすい方向へ行けば良いか。
結は北側を向き、再び枝を蹴って飛び立った。
リリリリリリリリリ、という小さい電子音を耳が拾う。フクロウの身体がびくりと揺れ、嘴から食んでいる途中のネズミを落としてしまった。
早い、もう一時間経ったんだ。
いつものことながら、この姿になりきっていた自分に冷や汗が出る。
結は足元に残っていたネズミの欠片を急いで嘴で拾い、顎を上げて喉の奥に一気に入れ、自分の身体が横たわる、最初の拓けた場所の中央へと舞い降りる。
目を閉じ、上がる息を整える。
結はこの時間が心底苦手だった。動悸が激しくなる。
断崖がすぐそこにあるような感覚を、無理矢理無視しなければならない。
大丈夫、大丈夫。落ちるはずがない。私は大丈夫。
胸が詰まる感じがするのを無視して、人としての身体、自分が動かせる手足が自分のものであることを思い浮かべる。耳や目、鼻、口があり、最後に喉に、声帯があることを自覚する。
――大丈夫。慌てず、騒がず。そこにあると思えば、有る。無い、なんてことは無い。
「するするすると
むすびめ ほどく
つないだ ごえん
ごえん つないだ
ほどく むすびめ
するするすると」
バサバサっ、と羽ばたく音がすぐそばで聞こえて、結は目を覚ました。どっと、倦怠感に襲われる。
「い……っ!」
脛に激痛が走る。
足元を見遣ると、こぶし大の石が落ちており、ちょうどその真上に倒れ込んでしまったようだった。
痛む個所を手で拭うと、皮が剥け、血が滲んでいた。
情けない。
痛みと相まって、涙が出そうになる。気持ちを誤魔化すように、頬やシャツ、スカート、足の裏についた土を丹念に払い落としてパンプスを履き、身なりを整える。
そういえば、と思いながら、そっと顔中を手で撫で回した。
顔から倒れたように見えていたけれど、血が流れるほどの傷はできていないようだ。
大丈夫。今回は顔に傷がないんだもの、上等上等。脛の傷は、パンツスーツにすれば良いだけの話。小言は言われるだろうが、傷のことを咎められるよりはマシだろう。
クリーニングの受け取り、してたっけ?
考えつつ、結は辺りを見回す。残留物は無さそうだ。
これで、本日の業務がようやく終了だ。
来た道を逆に歩いて裏山を出る。学校はもう真っ暗で誰もいない。
結は街灯の灯りを頼りに職員用の駐輪場へ向かい、自転車に乗る。やっとの思いでペダルを漕いで、アパートへ戻る。
戻ったらすぐに浴室へ向かい、汚れた足を洗うついでに湯船にお湯をためる。冷蔵庫を開いて野菜ジュースのパックを取り出す。電気ポットでお湯を沸かし、カップ麺に注ぐ。二人掛けの小さなテーブルに着き、カップ麺と野菜ジュースを腹に流し込みながら携帯を見ると、着信が二件。
折り返しせずに携帯をテーブルに裏っ返しで置いてお風呂へ行くと、お湯も大体たまっている。
「いてててて」
湯船に身体を沈めると、脛の傷だけでなく、あちこちにできた細かい擦り傷が痛みを伝えてくる。
ボディーソープが沁みるのを無視して身体を洗っていた時には、こんなに傷が多いとは思っていなかった。
「……慣れたと、思ったのに」
慣れたはずなのに、やっぱり痛い。
じわじわと来る痛みを放置して、結は強張るふくらはぎや太腿を揉む。山の中を動き回ったのは、結自身の身体ではないはずなのに、揉んでおかなければ、なぜか次の日重度の筋肉痛に襲われる羽目になるからだ。
「こんなの慣れるわけがない」
身体の擦り傷も、打撲も、筋肉痛も。教師の仕事と祓い師のダブルワークも。
言葉にすると、やたら身体が重く感じられる。情けない。もう嫌だ、本当は逃げ出したい。もっとベテランの祓い師なら、もしくは別の同期の祓い師だったら、こんなことにはなっていなかったのかもしれない。
日本史の教師の仕事も、祓い師の仕事も、嫌いではない。どちらかだけであればきっといまより全然マシだったはずだ。問題は、どちらも同時にこなさなければならない状況にあることだ。
きつい、辞めたい。でも、それは出来ない。
ぼたぼたと、目から涙が溢れ落ちる。毎夜毎夜、同じことを思いながら、しかし何もできずに同じ日々を繰り返す。
「……あー、課題の準備の続き、しなきゃ」
分かってはいるのに、湯船から立ち上がれない。
結は、自分の髪から落ちた雫で揺れる水面を眺め、はあ、と大きく息を吐いた。
「つっかれた……」