第一章 因縁(3)
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「この女優がどれだけジグラットのことを理解しているのだろう……」
門根は、ジグラットに向かう車の後部座席で改めて今回のイベントに関する資料にさっと目を通していた。参加者一覧やフォーラムのスピーチでしゃべる内容、事前に環境省の官僚に記者に電話して聞き取らせた囲み取材で聞いてくる質問への回答をまとめた資料などだ。
フォーラムに参加する記者一覧を見ていると、そのなかに経業の石田記者がいたことに、門根は少し驚いた。彼は若いのに深くエネルギー問題について分かっている記者だが、こないだ〝あんなこと〟があったのに、わざわざ栃木まで来るとは。たしか近いうちエネルギー担当から異動することになったと聞いている。大した記者だ。
門根を乗せた車は、警備のチェックを受け、ジグラット構内に入る入場門を抜けた。ジグラットでは、危険かつ貴重な特異隕石「ゼログラビティ」を取り扱っているため、警備はほかの施設よりも手厚い。門根は環境省副大臣という立場上、スマートフォンを中まで持ち歩くことができるが、一般人が入る際には構内を撮影できないよう、スマートフォンをシンアルの社員に預けなくてはいけないことになっている。
駐車場に車が到着した。門根は車のドアを開ける。
「はるばるありがとうございます。本日はどうもよろしくお願いいたします」
ドアを開けると、深々と頭を下げる黒姫とシンアルの社員たちがいた。この男とは長い付き合いになるが、この腰の低さはまったく変わっていない。本心では、表に出ているほどにこやかなタイプでないことが門根にはわかっていた。上にのし上がる人間には、本当に優秀なタイプと、他人に取り入るのが上手いタイプの2種類がいる。黒姫は後者だ。
「久しぶりだね。今日はよろしく」
「はい。ありがたいことに、ジグラットも稼働してから11年目を迎えることができまして。皆様方の大変ありがたいご指導のたまものです」
ついにジグラットも稼働してから10年を過ぎたことに、門根は感慨深かった。これまで、稼働にこぎつけるまで、どれくらいの困難があったか。まず、特異隕石の研究開発予算を通すまでが大変だった。堀川の隕石落下事故から2年が経ったものの、多くの犠牲を出したゼログラビティには当時否定的な意見もあった。しかし、現状を見るとどうか。批判意見を出す人なんてしょせん一部の左に寄ったやつらばかりだ。
Climate Crisis(気候危機)とまで世界で言われるようになり、過剰な表現などではなくまさに人類の存亡がかかっているほど深刻な気候問題の解決に向け、特異隕石発電が果たそうとしている役割はとても大きい。グリーン化に積極的な欧米諸国に、資源小国の日本が食らいついていくうえで特異隕石発電は重要なもののひとつだ。
今日のフォーラムでは、そういった話を地道にでも広く伝えていくことに意義があると思い、休みを削って参加を決めた。このフォーラム1つにそこまで効果があるものではないだろうと分かってはいたが。
「では門根さん、事前視察までまだ大分時間がありますので、事務本館でお茶でもいかがですか? 門根さんは甘いものお好きですので、今回は今話題のアルパカまんじゅうをご用意しておきました!」
黒姫の言葉を聞いて、隣から門根の秘書が黒姫に耳打ちする。
「それ、こしあんですよね? 先生は粒あん派です」
「え?」
黒姫の表情が曇った。
6
そんな門根と黒姫、シンアルの社員たちが駐車場を歩いている様子を、ジグラット構内にある事務本館3階の窓からじっと眺めている者がいた。京王大学の阿久澤教授だ。ゼログラビティの研究における日本の第一人者であり、フォーラムに参加する以外にも、視察に同行してジグラット所長とともに特異隕石発電やゼログラビティの解説などを務めることとなっている。
「来るねェ」
阿久澤は笑みを浮かべる。
彼は、普段こういうフォーラムのような場には出ないタイプなのだが、今日はどうしても参加したかった。
「今日は良い天気ですなァ」
外は曇りだ。
7
ジグラット構内にある事務本館には、環境省副大臣やシンアル社長、若手の女優らが集まるイベントということもあって、栃木県警が多く警護員を配置していた。霧島深雪もその一人だ。深雪はいま、事務本館一階にある小部屋で待機していた。
深雪が1年間警視庁で研修を受けたのち、警備部警衛警護課に配属されてまもなく2カ月になる。仕事の段取りにもようやく少しずつ慣れてきたものの、まだまだ分かっていないことばかりで大変だ。やりたい仕事ならそれでもよいのだが、そうじゃないのでなおさらつらい。
深雪は、本音を言えばこの部署に来たくなかった。自分はずっと刑事部に行きたいと思い、どんな仕事であっても頑張ってきたのに、30間近になって希望とは全く別の場所に配属された。どうやら、女性の警備を増やしたいという上の意向があるらしい。異動前の上司に、「お前が美人でスタイルもいいから、お偉いさんが来てテレビに映った時の見栄えがいいだろうって話らしいよ」とセクハラ発言されたことを思い出すと、余計に怒りがわいてくる。そもそも、警備がやりたくて警察官になった人なんて、どれだけいるのだろうか。
組織なんだから仕方がないと自分に言い聞かせても、いや、言い聞かせれば言い聞かせていくほど、なんだか悲しい気持ちになる。深雪が学生のころから仲良くしていた友達は、どんどん結婚していった。一時期はSNSに毎日のように「結婚しました」という報告の投稿があふれ、見るたびにちょっと悲しい気持ちになった。そして、ついには昨日、幼稚園時代からの幼馴染である亜香里からも「浩紀くんと結婚することになりました」という電話が……。うれしい気持ちも強かったが、心のどこかにで少し悲しい気もちもあった。純粋に友人の結婚を祝えない自分が少し嫌になる。
「それにしても、さっきの社長の『やっちまった』って顔は少し面白かったな」
隣にいた4つ上の先輩、菊田が話しかけてきた。
「『あ、アルパカまんじゅう以外にもあるので、少々お部屋でお待ちくださいね。安心してください、粒あんですから』…って、どこの穿いてる芸人だよ。てか、そもそもアルパカまんじゅうってなんだおい」
菊田が黒姫の声真似をして突っ込む。絶妙に似ている。特に顔が。
「いま、栃木で流行っているおまんじゅうみたいですよ、足が体の内側にしまわれている状態のアルパカがまんじゅうみたいだから、そのまままんじゅうにしてみたら思った以上に売れたみたいです。私もまだ食べたことはありませんが」
「そうか、あの社長のセンスだとホントに流行ってるのか疑っちまうけどな。あれでシンアルの社長になれるんだからすげーわ」
深雪は思う。もう30になるというのに夢だった刑事になることもできず、周りの女友達に置いていかれ、あの社長を守って今日死ぬことになったらいやだな……と。
「あ、いま少し顔が険しくなったぞ、霧島」
「すみません、表情には出していないつもりだったんですが」
「警察やってりゃ顔見ればそいつが何言いたいかなんとなく分かるよ。あんな人でも俺らが守るべき対象の一人なんだぜ。しっかりと仕事はこなせよ」
「分かっていますよ。今日は多くの人が集まる日です。市民を危険にさらすようなことは起こさせません」
「頼もしいね~。お前くらいの若造なら叱るようなこともままあるんだが、お前は優秀かつ真面目過ぎて突っ込みづらいところもあるな」
ふっと菊田が笑った後、野上係長からイヤモニで指示が入る。
「菊田、霧島、俺の部屋に来てくれ」
「分かりました。向かいます」
菊田と深雪は、滞在している部屋を出た。
8
はいはい、私はどうせ真面目すぎますよ。
深雪は、菊田と野上係長が滞在する部屋に向かっている最中、かつての記憶がふと頭によみがえってきた。優太が2年前、深雪を振った時のことだ。
「人々を守る仕事が大事なのはわかる。それでも、彼氏や家族との時間を大切にしようという気持ちはもっとないのか? 何かあったら俺より市民を守る方を優先するのか?」
優太が深雪の自宅に来た時、深雪が上司との電話を終えてリビングに戻ると、突然優太から告げられた言葉だ。ちゃんとあなたのことを第一に考えていると必死に伝えても、優太は良い表情をしなかった。たぶん長年ふつふつとたまっていたものが湧き出てきたのだろう。
それから一週間後、電話で振られた。大学時代から7年ほど付き合ってきて、もうそろそろ結婚かなと思っていたのに。だいたい7年付き合ってきた女性を電話で振るって何よ。考えられない。
もう吹っ切れてはいたが、SNSに表示される優太のプロフィール画像が最近赤ちゃんのものに変わっているのを見たら、悲しみと怒りがふつふつと湧き上がっていたのを思い出した。
あの野郎……。
深雪がそんな風に思っていたその時、白衣を着た男が深雪と菊田の目の前を通り過ぎた。
「えっ…?」
ちらっと見えたが、深雪にとって見覚えのある顔な気がした。ただ、まさかその人が栃木の、しかも今深雪が警備しているジグラット構内にいるなんてことある?
そう思った深雪が見たものは、間違いなく深雪が考えていたその人、九十九耕介だった。
つづく。