-序章-
【序章】
二〇〇六年八月九日午後三時。三重県堀川市
その日、世界の人々に恐怖と恩恵を与える出来事は、突如として起こった。
「何が起きたの…? 佳代子は、お父さんは大丈夫なの……。」
もう70になる若宮文子は一人、自宅でうつぶせに倒れていた。文子の上には、何か重いものが乗って体が動かない。砂埃が舞い、文子は震えながらもなんとか動く両手であたりをまさぐる。がれきやら木片やら、畳だったものに触れた。少し感覚を取り戻してくると、どうやら自分の身体の上に布団が乗っかっているようだと分かった。だが、布団の上にもさらに何かが乗っているようで、とても重い。倒れたたんすやらがれきが目の前を覆っていて、それ以外に何も見えなかった。感じられるのは、腰の痛みと人々の叫び声だけだった。
30分前――――。
堀川市は8月だというのに、いやに涼しい日だった。
文子は自宅の掃除をしていた。いま取り掛かっているのは二階の客室。もうすぐお盆。神奈川に住む息子の隆司が妻と孫娘を連れてこちらに遊びに来ることになっていた。
「隆司が結婚してから、そろそろ10年になるのか……」
時間の流れは年が増すにつれどんどん早く感じていく。堀川市の文化遺産となっている海女漁を腰痛で辞めてしまってからはますますだ。大学進学で隆司が東京に行ったのも、つい最近のことのようにも思える。まさか、大学で知り合ったアメリカ人の女性と結婚するとは思ってもいなかったけれど。
その女性との間に生まれたと思ったばかりの孫娘も、今年10歳になるそうだ。前に会ったのがお正月だから、会うのは約8か月ぶり。目がくりっとしていて、とてもかわいい。正直テレビに出てる子なんかよりも数倍可愛い。
文子は、孫が遊びに来たら渡そうと思っている物を手作りしていた。この地方で〝魔除け〟として伝わる星形と格子形が描かれた黒い石の付いたペンダント。10歳の子どもにペンダントはまだ早いかもしれないが、喜んでくれればうれしい。
客室の掃除を終え、外の空気を少し味わおうと開けていた窓に近づく。文子と夫の勝雄が住む家は海のすぐ近く。磯の香りが混じった涼しい風が、掃除終わりの少し疲労感のある肌に心地よい。
今日は年に一度の「清坂祭り」がある日だ。この日が近づくと、無病息災を願って杉の小枝を各家庭の玄関に吊り下げるという習わしがあり、夜には三重県一といわれる花火大会もある。そのためだろう、通りには普段より人が多くにぎやかだった。カップルと思われる若い男女が浴衣を着て楽しそうに会話している。私にも昔、夫とあんな時があったんだな―――。
通りをそのまま眺めていると、人々の中に数十年来の友人が歩いているのが見えた。あっちもこっちに気づいたようだ。手をこちらに振りながら歩いてきて、文子の家のすぐ下まで来た。
「おはよー」
「買い物?」
白い手提げバッグを持っている佳代子に、文子が尋ねる。
「そうそう、息子が来てるから、曽我屋さんでお刺身と、あとお酒も買ってこようかと思って」
曽我屋さんというのは、このあたりの住人御用達の鮮魚店だ。最近、長年務めてきた店長が息子に後を継がせたらしい。
「あら、もう謙二くん来てんのね。お盆はまだだけど」
「息子の会社は夏休みが早めに始まるんだってさ。早いうちにパパっと顔だけ出して帰るつもりなんでしょうよ、嫁ももらわないで何してんだか」
「もう、そんなこと言わないの」
文子は笑った。おそらくそう言われるだろうから、謙二くんは実家にあまりいたくないのだ。
「それにしても今日は涼しいわねぇ」
文子が空を仰ぐ。
「たしかにそうよね。ここ数年、私たちが子供のころと比べたら、ずいぶんと暑くなってきてたもんね」
「ホント地球がどんどんおかしくなってきてるのよ。前と比べてアワビも取れなくなったし…」
その話は市報で読んだり、周りの人々からよく聞かされたりしていた。堀川市では、昔はもっとアワビが取れた。ただ、それも乱獲やら海産資源が減少した結果、どんどん取れなくなってきている。堀川で採れるアワビは、稚貝を放流して育ったものが増えてきているそうだ。
「ん…?」
会話のなかで眉尻が下がっていた佳代子の眉が突如険しくなった。周囲の人々もなぜか少しざわっとしだす。
「どうかし――」
「ねえ、あれなに…?」
文子の言葉をさえぎるように佳代子が口をはさむ。
佳代子が指さしたほうを見た。その瞬間、文子の目の前が真っ白になった。あまりに突然すぎて、思考が目の前の出来事に追いつかない。
「うっ……!」
思わず目をつむった途端、テレビの音量を上げすぎたときのような轟音が鳴り響いた。
数秒後、耳を覆いたくなるような爆発音が鳴る。文子は思いっきり吹き飛ばされ、背中が突如固いものにたたきつけられた。文子は意識を失った。
文子が意識を取り戻すまで、数時間が経過したような気がした。だが、実際は数秒にしか過ぎなかった。耳にはキーンという音がずっと響いている。目を覚ましても、視界は真っ暗だった。
身体がうごかない…。何か重いものが文子の上に乗っているうえ、腰があまりに痛いこともあって起き上がることができない。砂埃が舞い、文子は震えながらもなんとか動く両手であたりをまさぐった。がれきやら木片やら、畳だったものに触れる。少し感覚を取り戻してくると、どうやら自分の身体の上に布団が乗っかっているようだと分かった。だが、布団の上にもさらに何かが乗っているようで、とても重い。倒れたたんすやらがれきが目の前を覆っていて、それ以外に何も見えなかった。感じられるのは、腰の痛みと人々の叫び声だけ。
一体…、何が起きたの…?佳代子は、お父さんは大丈夫なの……。
「誰か、誰か助けてぇ!」
なんとか布団から顔を這い出し、声を上げる。ただ、その声はむなしく響くばかりだった。
それからどのくらい経っただろうか。しばらくして、「大丈夫ですかー!」「家の中にいらっしゃる方はいませんかー?」という男性数人の声が大きくなってきた。
文子の心を覆っていた絶望の中に、光が差し込む。
「こっち、こっちでぇえす!」。
自分でも、こんなに声を出せると思っていなかったほど大きな声が出た。
だが、その男性たちは自分以外の近くにいる誰かのもとへ向かったようだ。「いま出しますからね」という男性の声と少しして「あ…ありがとうございます」という返事が聞こえた。この声は向井さんだ。三軒ほど隣に住んでいる、80過ぎのおじいちゃん。あんな体だが無事だったのか……。
「こっちも、こっちもいます!!」
文子は引き続き大声を上げた。のどがかれて痛みがひどかったが、そんなのはあまり気にならなかった。
「二階か、二階ですね!」
階段を上がる音がする。どうやら、自宅は全壊というほどでもないらしい。
文子の視界を塞いでいたものが取り除かれていくと、40代くらいの短髪の男性と目が合った。知り合いではないが、文子の家から近い市役所西庁舎で見かけたことがある市の職員さんだった。
「いま、持ち上げますからね!」
そうして文子の身体を押し潰していたものが取り除かれていくと、少しだけ体が軽くなった。ただ、腰が痛く起き上がることはなかなかできない。男性に支えられ、なんとか立つことができた時に分かったのは、自宅二階の一部が吹っ飛ばされ、天井がほとんどなくなっていたということだった。文子は押し入れから飛び出してきた布団がうまいこと体に乗っかり、落ちてきた木片や瓦、飛んできたガラス片などのクッションになってうまいこと防げたようだった。
「佳代子が、佳代子さんが…」
文子はしゃがれ声になり、男性に寄り掛かりながら声をかける。文子が男性から目を離し、窓から外を眺めると、文子にとって信じられない光景が目の前に広がっていた。
文子が生まれてからずっと過ごしてきた堀川市の景色ではなかった。周辺の家々はなぎ倒され損壊し、家としての形を保っているものはあまりなかった。真向い2件右にあるコインランドリーの看板は、真っ二つになって地面に倒れている。なぜ文子の家が二階の天井がそこまで被害を受けていなかったのかというと、道路を挟んで真向いにあった三階建ての旅館と、さらにその先にあった市役所の西庁舎がなんらかの衝撃の壁になったからのようだった。偶然、自分の上に布団が覆いかぶさってきたことも含め、偶然の産物としか言いようがない。テレビで見た突風に襲われた外国の町のようだ。
ただ、それ以上にひどくて見ていられなかったのは、さきほどまで通りを歩いていた人々が倒れている景色だった。衝撃が襲い掛かってくる前ほど人がいなかったが、すでにここから離れた人がいるからだと思われる。
倒れている人々の中に、さきほど文子が見つけたカップルの男女を見つけた。青年の胸部には、どこから飛んできたものかは分からないが木柱が刺さっていた。その隣に、女の子が頭から血を流して横向きに倒れている。目を開けたまま動かず、この様子だともはや――。
文子は見ていられず、遠くに目を向ける。西庁舎のさらに先で大きな黒雲が地面から上がっているのが見えた。空には、ジェット機が通ったような雲が浮かんでいる。そこから職員を連れて窓に寄っていき、佳代子の姿を探すと……。
「佳代子…」
佳代子は、自宅の壁のすぐ下に転がっていた。我が家の壁に頭を思い切りぶつけたのだろう。頭から血が流れ、生気のない目は見開いていた。右足が関節のないところで内側に曲がっている。洋服には血が広くにじんでいた。飛んできたガラスの破片が刺さったためだと思われた。
服と体型、顔から佳代子以外には思えないが、そうじゃないと思い込みたかった。小さい頃から一緒に遊び、頭に深く刻み込まれている佳代子とはあまりにかけはなれている。さっきまで話していた時の笑顔が脳裏に浮かぶ。
「あ…あぁあ……」
足の力が抜け、倒れそうになるところを職員に支えられた。何も見たくなかった。
「大丈夫ですか」
だが、そんな言葉は文子の耳には入らなかった。なんで…一体なんでこんなことになってしまった……? 頭には今、その言葉ばかりが繰り返されている。
「ねえ…何が起こったの…。こんなことどこまで広がってるの?」
「私たちもよく分かってるわけじゃありません。西庁舎にいたら突然衝撃に吹っ飛ばされ、周りの職員も助かった者や、ガラス片に刺されるなり物の下敷きになるなり助からなかった者までさまざまです」
職員は空を見上げながら話を続ける。
「もうこの家にはほかに人はいらっしゃらないようですけど、ご家族の安全を確認するためにも、いったんここは小学校に向かいましょう」
〝ご家族〟という言葉を聞いて、友人と釣りに海に出たお父さんのことがまたも頭に浮かんでドキッとする。海に出ていたなら大丈夫だと思うけど、もし何かあったら……。
職員の名前は浜口というらしい。文子は裸足だったため、浜口におんぶされて階段を下りた。自宅がそこまで損害を受けていないといっても、部屋の中は家具や衣服、食器類、木片、ガラス片などが散乱していた。もう、この家に戻ることはできないのだろう。ふと浜口の足先に目を向けると、青い小包が転がっているのが見えた。
「ごめんなさい、その小包を拾っていただけませんか…?」
浜口に取ってもらい、文子は小包に入っていたものを取り出した。
それは、孫娘のために用意したペンダントだった。星印と格子形が描かれた石にはどこもキズは入っておらず綺麗なまま。〝魔除け〟とされているマークが書かれたそのペンダントを見ると、お正月に文子の家を訪れた孫娘の笑顔が思い浮かぶ。あふれていた涙が頬に流れた。
その後、文子は靴を履き、浜口に再度おぶられて外に出た。すぐ脇に佳代子の遺体があった。浜口に少しだけ時間がほしいとお願いし、遺体の前で手をすり合わせ、瞼を閉じて頭を下げた。
「ごめんね、ごめんね私だけ…また会えるから……」
現実はいまだ受け入れられなかった。それでも、涙を流しているうちに早くお父さんの無事を確認しなきゃという気持ちがどんどん強くなってきた。海に出ているなら、なんともならずに済んだかもしれない。いや、あの人が死ぬわけない。
玄関を出て周囲を見渡すと、文子の家があるすぐ横の十字路を、黒煙が上がっている方と反対方向に走っていく人たちが見えた。
浜口によると、浜口と一緒に行動していた部下の職員たちとともに、近くにある堀川市立第九小学校に向かうという。そこの体育館が避難先になっているとみられるからとのことだった。
「浜口さん」
浜口が言っていた部下とみられる男性2人が近づいてきた。そのうち1人の右肩から、おぶさった向井さんの顔が見える。やはりさっきの声は向井さんだったようだ。向井さんを背負った男性職員が着るワイシャツの胸ポケットには「溝端」と書かれたバッジが刺さっており、もう一人の方には「谷村」と書かれていた。
「ここら辺一帯一応家を回ってみましたが、もうどうしようもなさそうです。一応中に入れそうな家には入ってみましたが、確認できたのはこのおじいさんだけでした。つぶれた家なんかは中に人がいたらもうだめかもしれませんね…」
溝端が話す。
「分かった。早く九小のほうに行こう。この辺りは、もう俺らだけでどうにかできるほどの状況じゃない。そのうち消防や自衛隊、救急隊なんかも来て救助活動に入るはずだ」
そう浜口が返すと、ちょうど救急車のものと思われるサイレンが聞こえてきた。
「ほらきた、行こう」
サイレンのした方向を見た浜口が、改めて溝端のほうを向く。
「おい、どうした?」
「えっ…?」
溝端の変化に、文子も気づいた。
「お前鼻血が出てるぞ…しかもなんか黒い」
溝端が鼻から垂れてきた液体を手の甲で拭く。
「なんだこれ…?」
拭きとった後も、黒い鼻血は止まることはなく溝端の右の鼻の穴の中から垂れてきた。そのうち、黒い鼻血は右だけでなく左の鼻の穴の中からも出てくる。地面にぼたぼたっと鼻血が落ちる。溝端がいくら拭いても、黒い鼻血は止まらない。量はどんどん増えていく。
「おい…! 大丈夫か!?」
浜口が溝端の肩をつかむ。
「な…だよぉ、こりぇ…。どぉ…て…?」
溝端の口が回らなくなってきた。目の焦点も合っていない。
そこから数秒も経たぬうち、溝端はそのまま膝から仰向けに地面に倒れた。体は痙攣している。背負っていた向井も溝端の背中から落ちた。
何が起こってるの…? 文子は困惑した。浜口と谷村は、かがんで倒れた溝端に近寄る。
「おい、どうした溝端! おい!」
谷村が浜口に伝える。
「課長! 倒れている方も、鼻から血が出て止まりません!」
文子が見ると、横向きに倒れ、痙攣している向井さんの鼻からも黒い液体が流れていた。
「なんだ、どうなってる…?」
「もう溝端は、脈も弱くなってきてます!」
「な、なにが起きたっていうんだ…?」
恐怖の表情を見せる谷村が、さっと自分の鼻を触った。
「あ」
文子には見えた。その手の指の先には、黒い液体がついていた。
「え…、え…?」
目の前のものを、谷村は信じられないかのように目を見開いて見つめた。
その瞬間、文子は思いっきり固い地面にたたきつけられた。浜口が文子を振り落とし、走り始めたのだ。
「え…?」
何かまずいと思ったのだろう。文子を振りおとしてでもそれから逃げたかった。谷村が浜口の名を叫んでも、浜口は一切振り返ることはなかった。谷村も浜口の方へ走り出す。だが、すぐに谷村も倒れ、痙攣し始めた。
文子はなんとか立ち上がり、腰の痛さでいまにも倒れそうだったが必死の思いで歩き出す。そうしている間にも、文子を後ろから追い抜いて行った人たちが次々に倒れ出していくのが見えた。
文子の頭は、ぐわんぐわんとしてきた。鼻がツーンと痛い。親指で鼻をさする。
「う…」
黒い血が指についているのが見えた。鼻の痛みは、どんどん増してきた。結局、私もか……。
そのうち、文子は言葉も思い浮かばなくなってきた。いま脳裏に浮かんでいるのは、お父さんが釣り道具を準備しているその背中。青い小包を握っていた力が抜けていく。
文子の意識は、なくなった。
本編へつづく