おままごとみたいな二人は
一人でも多くの方に読んで頂ければ幸いです。
―子守りなんてうんざりだ。
十一歳のトビアスはそう心の中で悪態をついた。
それもこれも、年下の婚約者ができたのが原因だ。
親同士が勝手に決めた婚約。婚約者の顔は一度も見たことはない。何でも自身よりも四つ年下だという。七歳の子守りなんてうんざりだ。おままごとの間違いじゃないか。
「トビー決して失礼があってはいけないよ」
こちらの鬱屈たる心の声が聞こえたように、父親が窘めてきた。
一応、ツリ目を細めないように注意しながら、澄ました表情を作る。
そう言って待ち構えた婚約者は、とてつもなく緊張していた。そして、想像以上にか弱く見えた。
彼女は子供らしい発展途上のマナーで、一生懸命お話をしていた。どんな食べ物が好きか、いつもどんなお勉強をしているか、そんなことを自分に聞いてきた。
元来、口数が多くもお喋り得意でもないトビアスはその質問に一問一答形式でしか答えることしかできなかった。それでも彼女―マリーネは懲りずに次々と質問をしてきた。
「トビアス様は、何が好きですか?」
それがなんとなく嫌ではなかった。自分を知ろうとしてくれてることに照れるものがあった。
マリーネとその家族が帰る頃には、トビアスの中のうんざりした気持ちは嘘みたいにキレイサッパリなくなっていたし、彼女とこれから婚約者として付き合っていくことが悪くないと思えた。
******
―初夏の爽やかな朝の風が王立高等学園を吹き抜ける
十三歳から十八歳の貴族の子息子女が通う学園でトビアスは第五学年に在籍している。
口数少なく、自分から積極的に人と関わりに行く方ではないトビアスは、数少ない友人と共に青春を謳歌していた。
「トビアス!今度の休み街に出掛けようぜ!」
登校して早々、友人のジルが魅力的な誘いをする。だが、
「ごめん。その日は、婚約者と会う日なんだ」
「そっかー、じゃあまた今度誘うわ」
「悪いな、せっかく誘ってくれたのに」
「仕方ない仕方ない。先約が優先だ」
第一学年から友人であるジルはトビアスに婚約者がいることを知っている。婚約者との先約がある場合、そちらを優先しても気を悪くしないでいてくれる。
トビアスにとっては、ありがたい友人だった。
トビアスとジルとのやり取りを聞いて、他のクラスメイトたちが数人やって来た。
「トビアスー、お前、またあの婚約者とデートなのか?先月もしただろ?」
「年下過ぎると、お守り大変じゃね?」
「家のためとはいえ、本当はもっと大人っぽい女と付き合いたくならないか?」
口々にそのように言う。まるで、トビアスの婚約者であるマリーネを貶す言い方であるが、彼らは決して悪気がないのだ。
世間的に見たら四歳差の婚約は珍しくはない。しかし、年の離れた婚約は、学園卒業後に結ばれることが多い。
学園内で婚約が決まってる者達は、大抵同い年か一、二歳しか年が離れてない場合がほとんどだ。
そのため、トビアスの婚約は学園内の生徒からは珍しいものに映るのだ。
「別に、僕はこの婚約も婚約者も不満に思ってないよ」
トビアスは答える。婚約に対して口々に言われた場合のお決まり一言である。
それに対し、他のクラスメイトが
「でも、幼い婚約者だと、自分好みに染められるからいいよな。男のロマンだわ」
―気持ち悪い奴。
トビアスはそう思ったが、決して口にはしなかった。クラスメイトから反感を買ったら、生きづらくなる。それを理解しているから。
「お前ら、好きに言ってるけど、婚約者の前でそれ言えるか~?女は怖いぞ。人の婚約に茶々入れる暇あるなら、お茶会の一つでもしろとか思ってるからな」
『あ、これ、姉ちゃんの受け売りな』ジルは茶目っ気を込めて、そう言った。
場を白けさせない、友人のフォローにトビアスはありがたいと感じた。
『お前の姉ちゃんどんだけ恐いんだよ』とクラスメイトが笑い、ジルの姉の武勇伝が始まる。
ジルの姉が誕生日を忘れた婚約者に怒り、扇を壁に叩きつけた話を聞いてた時だ。
教室の扉がガラッと開く。
―ああ、もうこの時間かと、教室にいたみんなが心の内で思っただろう。
一人の女子生徒が、複数の男子生徒に囲まれながら教室に入ってくる。
女子生徒はピンクゴールドの髪を肩先まで伸ばし、ぱっちりとした緑の目をしている。一般的に見ても美少女の部類に入る。
特筆するべき点は、最近男爵家に引き取られた編入生という点と、カースト上位の良家の御子息たちの心を次々と鷲掴みにしている点だ。
女子生徒の名前はイレーネ。
彼女は複数の男子生徒の心を虜にし、侍らせながら学園内で行動しているのだ。
それは彼女と同じクラスの者にとっては見慣れた光景になりつつあった。
そして、彼女はトビアスにとって最近の悩みの種でもあった。
「あ!トビアス君おはよう!」
自身を取り囲む男以外には挨拶をしないイレーネは、なぜか毎日トビアスに挨拶をし、事あるごとに話しかけてくるのだ。
イレーネの周りの男子達はギロリとトビアスを睨んだ。胃が痛くなる。そっとトビアスは胃を押さえた。
「また、難しそうな顔してる。トビアス君は一人じゃないよ。いつか私にも一人の寂しさとか分けてくれたらいいな」
男子の輪の中にいるトビアスを見て、イレーネは可憐な笑みを浮かべながらそう言う。絵画でその瞬間を切り取ったら、さぞかし美しいだろうが、あまりに頓珍漢なことを言うので、彼女の頭の中には妖精でも住んでるのではないか、半ば本気でトビアスは疑っている。
「イレーネさん、ひどいな~俺らもいるよ」
すぐさまジルがツッコミを入れ、彼女も『あ、ごめーん』と笑いながら謝罪をする。ジルが男子だからイレーネは話を聞いたが、これが女子相手だと無視するらしい。
「もうすぐ、先生来るけど…」
もう、あっちに行ってくれという気持ちで、トビアスが呟くと、『あ、本当だ~』と囲いこむ男子もとい取り巻きと共に自分の席へとむかう。
「彼女、今日もスゲーな…」
ジルが小さな声で呟き、近くにいた男子達はみんな頷いた。
******
婚約者のマリーネの家は金持ちの子爵家だ。そして、それこそがトビアスと婚約を結んだ理由でもあった。
トビアスの家は歴史が古くあり、名門と言われても差し支えのない家柄であるが、何代か前が事業に失敗し、経済的に苦しくなった。一方マリーネの家はというと、商人の家系で祖父の代から貴族の仲間入りをしたいわゆる新参者だ。
ここにお金が欲しい名門貴族と、家名に箔をつけたい新興貴族の利害が一致し、婚約が成立したのだ。
婚約したのは、トビアスが十一歳でマリーネが七歳、親同士の話し合いで成立したと聞かされた時は、子守りなんてうんざりだと思ったが、実際にマリーネに会うと、そんな気持ちがなくなったから不思議だった。
だから、この婚約も婚約者のマリーネのこともトビアスは別に嫌ではなかった。
「トビー様、紅茶のお味はいかがでしょうか?」
テーブル越しに自身の愛称を呼ぶ柔らかな声が耳に届いた。
「うん。味も香りもいいね。さすがだ」
「気に入ってくださりよかったです」
ホッとしたようにマリーネが笑った。淑女の笑みとは違う柔らかな笑みだ。
彼女の長いさらさらの金髪は、ブラウンシュガーのような茶色も少し交ざっていて温かみがある金色だ。瞳は雨上がりの青空みたいに澄みわたったそんな青だ。
自身の硬い茶髪と、周りに不機嫌だと勘違いさせてしまう茶色のツリ目とは全く何もかもが違うとトビアスはいつも思う。
「マリーは最近はどう?」
彼女の愛称と共に毎回聞くお決まりの質問だ。
「私の方はやっと女学院で初めての試験が終わりましたの。とても緊張しました」
「それはお疲れさま。でも、マリーは努力家だから、大丈夫だったろ?」
「そんなことはありません。もう、試験対策も友達とのお勉強も初めてで…本当に初めてのこと尽くしでした…」
今年十三歳のマリーネは淑女教育が売りの女学院に入学した。彼女が話す最近の話題は女学院のことがほとんどだ。友達とのやり取りやマナーに勉強を頑張っていること、女学院で起きたこと、それらを楽しそうに話すマリーネを見てると、トビアスは彼女を応援したくなるのだ。
「お友達ってこの前言ってた、ヤルミラ嬢のこと?」
「はい、彼女、とっても面白くて。興味を持ってることには全力なんですよ」
楽しそうに話すマリーネに思わず、トビアスの目が細められる。
『そういえば…』と彼女は何かを思い出したように、
「何でも最近の演劇では、女性が複数の男性を魅了する逆ハーレムというジャンルが流行っているって、ヤルミラが言ってました!」
マリーネの口から飛び出た言葉に、トビアスは思わず飲んでた紅茶を吹き出しそうになった。
なんとか、吹き出さずには済んだが、マリーネの口から衝撃的な言葉が出たことと、逆ハーレムというものにデジャブを感じたのだ。
というか、ヤルミラという女子生徒はなんというものを見てるのだろうか。
「あ、もちろんヤルミラもそれに興味がある訳じゃなくて、好きな俳優が出てたから、観に行ったって…ただ、女性に侍る男性の一人だったから、観てるのが辛かったと言ってました」
どうやら、ヤルミラは好きな俳優見たさに、苦行を体験したようだ。
「そうなんだね…」
「あと、ヤルミラと演劇みたいな逆ハーレムが現実に起きたらきっと大変だと話し合ったんですよ」
『あ!もちろん、男の人が女の人を侍らすハーレムもダメですよ!絶対に!』一生懸命に言うマリーネ。
「現実にそんなことをする奴なんていないよ」
トビアスはそう答えたが、とてもじゃないが言えなかった。
王立高等学園でまさか、一人の女生徒が高位貴族の子息を骨抜きにしてるなど。
トビアスの頭には、ピンクゴールドと新緑の目をしたイレーネが思い浮かばれる。もちろん悪い意味でだ。きっとあのピンクの頭には謎な言葉を話す妖精が住んでいる。
こうして思い出すと、マリーネとイレーネは名前の響きがなんとなく似ていると思ったが、人となりは全く別物だと思った。
マリーネはきっと男性を魅了する力があっても、それを使おうとはしないだろう。トビアスにはそんな確信があった。
「ていうか婚約しちゃえば、ハーレムも逆ハーレムも簡単には作れないさ」
『僕らには関係ない話』そう言って、トビアスはお茶をすする。そういえば、マリーネの家で飲むお茶は、猫舌の僕でも丁度いいんだよな。とそんなことを思った。
「確かにトビー様の言うとおり、私達には関係ない話ですわね」
そんな彼女の淑女ぽく見せようとした、いまだ子供っぽい笑みに、『別に嫌じゃないな』とトビアスは力を抜きながらそう思った。
******
トビアスはある日の放課後、教員から授業で使った備品を教材室に片付けるよう頼まれていた。
友達は少ないが、校則をきちんと守り、真面目に授業を受けるトビアスは教師受けが良い。このように用事を頼まれるのはよくあることだった。
地理の教師から頼まれた世界地図の二つは両手に抱える形になった。今日の授業では、年代の違う地図を見比べて、地形の変化を学んだ。百年時代が違うだけで地形が変わるのに、今から百年経った未来では地形がどのように変わるのだろうか、そんなことを思いながら授業を受けた。
世界地図は問題なく教材室に運ばれ、元の場所にしまわれる。一仕事が終わったから自分も帰ろう、トビアスがそう思った時だ、
「だから、みんな友達だって…!」
「俺のこと、かっこいい…すごいって言ってたじゃないか!!」
「それは本当のことよ!」
「じゃあ、他の奴らなんてどうでもいいだろ!俺を選べ!」
「無理!一人なんて選べない!!」
痴話喧嘩だろうか、廊下で男女が言い争う声が、教材室にまで聞こえてくる。
というか、話の内容とこの声は、
「なんでだ!イレーネ!」
やはりあの女生徒か。トビアスはそっと胃を押さえた。
つまりはイレーネと彼女を愛する取り巻きの一人の痴情のもつれか。
このまま、教材室に籠って、嵐が過ぎ去るのを待つか。そうトビアスは思ったが、
「離してッ!痛い!」
イレーネのそんな声が聞こえてきた。
完全に男を弄んだ彼女の自業自得だと思うが、さすがにケガをするのは忍びないし、見て見ぬふりは後味が悪い。
トビアスは扉を開ける。開けてすぐ側に、件のイレーネと、その細い手首を掴む赤い顔をした男子生徒がいた。確か伯爵家のご子息だった気がする。家格は同じくらい。
「廊下で何やってんの?」
冷めた声でトビアスは言った。
「何だッ!」
まさか邪魔が入るとは思わなかった伯爵子息は怯んだように吠えた。
「その子の手首見てみなよ。赤くなってる」
慌てて伯爵子息は掴んでいたイレーネの手首を見た。指摘された通りに赤くなっている。
パッと手を離す伯爵子息。
別に悪い奴ではないんだけどな。ただ、少し熱くて、血が上りやすい。ある意味イレーネの被害者だ。そんなことをトビアスは思った。
「他の生徒に見られたら不味いんじゃない?」
そう言われて伯爵子息の顔が赤から青にサーッと変わる。
「今なら、僕以外誰も見てない。ちょっと頭冷やしてきたら?」
「心遣い感謝する…」
伯爵子息はトビアスにそう言うと、イレーネを見て、
「すまなかった」
謝罪をして、イレーネを置いて、その場を去っていった。
残ったのは、トビアスとイレーネだけだ。
「あの、ありがとう…」
震える声でイレーネが礼を言った。
「別に。教材室にいたらたまたま、アンタ達の声が聞こえたから」
「でも、助けてくれてありがとう…」
イレーネは先程まで伯爵子息に捕まれていた手首を擦った。まるで、被害者のような仕草がトビアスの癪に触った。
「あのさ、反省してる?」
「反省?」
「だって、色んな男にいい顔して、曖昧な態度とるからこうなるんだろ」
「だって…」
「だってじゃないだろ。君、男を惚れさせる話ができるくらいの頭があるんだから、少なくとも馬鹿じゃないはずだ」
「……」
「男に媚売って、わざわざ自分を馬鹿に見せるために、その頭使うの勿体無いと思うけど」
言いたいことは言った。ずっと思ってたことを言えたので満足だ。トビアスは軽い足取りでその場を去っていく。
イレーネはその後ろ姿をじっと見つめていた。
******
その出来事が起きてから数日後、イレーネは別人になったかのように大人しくなった。
今までは複数の男子生徒に囲まれてるのが、当たり前の光景だったが、最近は男子生徒達に断りをいれ、一人にしてもらっている。いや、元々、男子生徒がいなければ寄り付く人間はいなくて、一人ぼっちなのだ。
女子生徒からは、『いい気味』と笑う声は少なくなかったが、彼女は気にしてないようだった。
それよりも気になるのは、
「あ!トビアスくん!」
彼女はトビアスを見掛けると、必ずといっていい程、話しかけてくるのだ。今もジルが隣にいるのに、その存在をまるっと無視してやって来た。
「トビアスくんあのね…」
「何?」
不機嫌さを隠そうともせずトビアスは答えた。大抵の人ならば、これで近づかなくなるはずだが、
「あのさ、さっきの授業難しかったね!」
イレーネにはさっぱり効果がない。
「なんで僕にそれを言うの?」
「それは、トビアスくんと仲良くなりたくて…」
トビアスは意味不明でかなり不名誉だと思った。面倒なことになったと胃を擦った。
「イレーネさん、それなら俺とも仲良くなってよ~」
ジルが助け船を出してくれた。それに対し、
「ごめーん!でも、トビアスくんと仲良くなったら、ジルくんとも仲良くなるよ!」
あっけらかんと答える。
「ねぇ、トビアスくん。もし、甘いものが苦手じゃないなら、クッキー作って明日持ってきていいかな?」
「あ、イレーネさん、それは…」
「ごめん無理」
トビアスはバッサリと断った。
「なんで?甘いもの嫌いじゃないよね…むしろ大好物のはずじゃ…」
なんでこの女は、自分の好物を知ってるんだ。学園では甘いものを口にする機会がないから、この女の前では甘いものを口にしたことはないのに。トビアスは戦慄した。
そもそも異性からの個人的な贈り物は受け取れないのだ。
「僕、婚約者いるから、プレゼントは受け取れない」
「嘘!?誰なの?この学校の人!?」
「君が知らない人。女学院に通ってる」
それを聞いてイレーネは顔面蒼白になった。
「あのさ、トビアスくんと、その人は、仲良しなの?」
「別に普通だよ。普通の婚約者同士。仲は悪くない」
もういいだろと、トビアスはジルと共にその場を去った。
******
数日後、トビアスはマリーネと一緒に馬車に乗り、街を散策していた。
今日の彼女は爽やかなミント色のお出掛け用のワンピースに同色のリボンで三つ編みのお下げにしていた。涼しげな装いだ。
対するトビアスも薄いシャツに白のアスコットタイと涼しげな装いをしている。下は髪色よりも濃い赤茶にした。
「今日はご一緒してくださってありがとうございます」
「別に。気にしないで。当たり前のことだから」
今日はもうすぐやってくるマリーネの誕生日のために、一緒に買い物に来たのだ。
「でも、私、嬉しいんです。トビー様とアクセサリーを買いに行くなんて初めてですから…」
「確かに。カフェやレストランには結構行ってるけどね」
マリーネの言うように、装飾品を共に買いに来たのはこれが初めてかもしれない。これまで飲食店で食事を共にすることは何度かあった。
しかし、毎年マリーネの誕生日には、トビアスが装飾品を買いに行って後日渡していた。逆も然りだ。トビアスの誕生日には、マリーネがプレゼントを買って後日渡していた。
だから、マリーネのプレゼントを一緒に買いに行くなんて新鮮な気分だった。
「どういうのがいいの?」
トビアスが尋ねる。すると、マリーネの顔はみるみる赤くなり、緊張した顔になった。
「…スをッ」
「なに?」
「お揃いのピアスがいいんです!」
言いきった彼女はすぐにアワアワし出した。
「トビアス様が嫌なら別にいいんですッ!ただ、仲のよい婚約者同士はお揃いのアクセサリーをつけるって…いうから…」
マリーネのその言葉にトビアスの胸はざわついた。不思議と嫌な感覚ではなかったが、ざわついた理由がわからなかった。
「ピアスなら、僕もつけるとなると、あまり華やかにできないけど大丈夫?」
「それはいいんです。ただ毎日お揃いでつけられるなら、どんなデザインでも…」
『私は嬉しいんです』そう嬉しそうにはにかんだマリーネがトビアスには眩しく見えた。
******
馬車は程なくして、宝飾品店に着いた。
ここで応接間に通され店員から丁寧なもてなしを受けながら、次々と商品を見せてもらう。
形から、パーツ、宝石まで一つ一つのことを決めて、ピアスの設計図がスケッチブックの上に描かれていく。
ピアスは小さな金属の円盤に、そこにさらに小さな宝石を嵌め込んだデザインだ。
「私、絶対この石がいいです!」
マリーネが決して譲ろうとしなかったのは、赤茶のガーネットだった。元から、マリーネの誕生日プレゼントなので、彼女の好きにしていいのだが、ガーネットへの熱意は凄かった。
そんなにガーネットが好きだったろうか?トビアスはそう疑問に思った。しかも彼女は、ガーネットの赤い部分よりも、茶色に近い部分を使いたいのだと言う。どうしたというのだろうか自分の婚約者は。
ただ、彼女の要望が詰まったピアスのデザインはトビアスにとって、普段使いがしやすそうで、ありがたいデザインだった。しかし、14歳のマリーネが着けるには、少々大人っぽすぎるデザインかもしれないと思ったが、これをあの小さな耳に着けるのだと思うと、また胸がざわついた。
トビアスはお手洗いを理由に席を立つ。
店頭のショーウィンドウの方にいくと、ピアスがズラリと並んでいた。マリーネに似合いそうなピアスは何個かあったが、しっくり来るものはなかった。
しかし、その隣のネックレスの列の中に雨上がりの青空を閉じ込めたようなアクアマリンのネックレスがあった。それは、楕円形で、マリーネの細い首に映えるだろうなと思った。何より彼女の青い瞳と同じ色なのが気に入った。
トビアスは店員を呼んでそのネックレスを購入した。
いつ渡そうか、これを見たらマリーネはどんな顔をするだろうか。そんなことを考えてると、自分が楽しんでいることに気づいた。
―お守りなんて大変じゃね?
先日クラスメイトから言われたことをふいに思い出した。かつて婚約が決まった際に自身も『年下のお守りなんてうんざりだ』、『おままごとのまちがいじゃないか』そう思っていたのだ。
だが、どうだ。現在の自分はこの婚約も婚約者のマリーネも悪くないと思っていて、楽しいとすら思っている。それが不思議だった。こんなにも心が変わったことが。
その後、マリーネが探しに来たので、ネックレスを慌てて隠す羽目になった。
******
宝飾品店を出たあとは、カフェに行くことにした。
最近、出来たばかりの富裕層向けのカフェだ。
店は外装も内装も明るくて清潔な印象だった。トビアスはチョコケーキを、マリーネはショートケーキを選び、2人ともアッサムティーを選んだ。
「今日は本当にありがとうございました」
「さっきも言ったじゃん、気にしないで」
「それでも私嬉しかったんです。婚約者の特権の1つである、一緒に宝飾品店に行く。これができたから」
「婚約者の特権なんて、そんなものあるの?」
「だってヤルミラが言ってましたから。宝飾品店に行くなんて婚約者がいないと出来ないって」
「あぁ、彼女ね」
別に宝飾品店には婚約者がいなくても行けるし、実際に一人で買い物に行ってるご婦人だっているのだ。しかし十代で一人で行くのは勇気がいる。
トビアスだってそうだ。今日は婚約者のプレゼントを買いに行くという大義名分があったから、宝飾品店に入れた。なんでもない日にフラリと入るなんて無理だ。
トビアスはチョコケーキを一口食べる。口の中に苦みと共に甘さが広がった。甘いものはやはりいい。
「ヤルミラだけじゃなくて、女学院の婚約者のいない子達は今、お相手探しを頑張ってるんですよ」
「そうなの?」
「えぇ、なんでも早く相手を見つけて、お茶をしたり、宝飾品店に行ったり、お揃いのアクセサリーを着けたり、他にも一緒に遠出したりとか、そういう婚約者の特権を全うしたいそうです」
「婚約者ができれば、全部叶うよ」
そう言いつつもトビアスもその婚約者の特権とやらを全部叶えてあげているかは疑問だった。
「マリーにはない?他にも叶えて欲しい婚約者の特権って」
「私は…」
マリーネが口に出そうとしたその時、カフェの扉が開いて、2人の男女が入ってきた。
顔の見知った2人で、男の方は確かトビアスの1つ上の学年の男子生徒。女の方はというと、
「トビアスくんだ!奇遇だね!」
最近の悩みの種イレーネだ。
「どうしてここにいるの?もしかして、お気に入りのお店だから」
「別に婚約者との買い物帰りに寄っただけ」
不機嫌さを隠さずにトビアスは答えた。
「婚約者…?」
イレーネの目がマリーネに向けられる。
彼女と一緒にいた男子生徒は少し不機嫌そうに、
「ねぇ、イレーネその男は誰なんだい?」
「アンドリュー先輩、友達のトビアスくんです!同じクラスなんです!」
思わず『ハァッ!?』と声が漏れそうになったが、公共の場なのでトビアスは何とか抑えた。
「へぇ…」
アンドリューと呼ばれた男子生徒は冷たい笑みをトビアスに向けた。
面倒なことになったと、トビアスは胃を擦った。
しかも、イレーネは空気が読めないのか、他にもテーブルがあるにも関わらず、わざわざ隣のテーブルに座ってきた。
「トビアスくんは、なに食べてるの?チョコケーキ?私もそれにしようかな」
『これでお揃いだね』とウインクまで飛ばしてきた。意味がわからない。トビアスは引いた表情になった。
「お揃いねぇ…私もそうしようか」
なんとアンドリューまでもがトビアスと同じチョコケーキにしようとする。依然トビアスに注がれるのは冷たい視線のままだが。
「これでトビアス君とイレーネとお揃いだね…」
店員に注文を終えたアンドリューは勝ち誇った笑みをトビアスに向けた。別に勝負をしてないし、なんならこの場からイレーネを引き取って欲しいとトビアスは切実に思った。
イレーネとはというと、マリーネを不躾にもジロジロ見ていた。そして、
「ねぇ、あなたがトビアスくんの婚約者さんなの?」
イレーネがマナーも礼儀もへったくれもなく、とんでもないことをした。
学園内では、みんな平等という理念のもと、イレーネの奔放な言動も見逃されてた。しかし、ここは学園内ではない。彼女は男爵令嬢として子爵令嬢であるマリーネに敬意を払わなければならないのだ。
「おい!」
「イレーネ!」
トビアスとアンドリューが同時に呼ぶ。アンドリューも彼女の行動がマナー違反だと思ったのだろう。
「あの…」
マリーネが何かを言おうとするが、イレーネはその言葉を押し潰すように口早に喋り続ける。
「トビアスくんて、すごく勉強ができるの!だから、トビアスくんは、学校の先生の信頼も篤いんだ」
「それにね、見た目もかっこいいのに、チャラチャラしてなくて女の子の誘いにも乗らないの。だから、女の子達みんなで、トビアスくんって素敵だよね~て言ってるんだよ」
『だからね』と、イレーネの唇が弧を描いた。
「そんな、トビアスくんとすごく仲良くなれて、私嬉しいの」
デタラメだ!
トビアスは叫びたくなったが、マリーネの顔が真っ青になっているのを見て、怒りを呑み込んだ。
「マリー、店を出よう」
トビアスはマリーの手を引く。
「あの…トビー様、あの…」
「大丈夫だ、大丈夫だから…」
柔らかい口調で安心させようとするも、マリーネの手は冷たい。
トビアスは急いで会計をすませて、マリーネと共に出入り口まで向かう。
「また、明日ね!トビアスくん!」
能天気なイレーネの声が響く。今のトビアスにとっては忌々しいものでしかなかった。
外に出ると、待たせていた馬車にすぐに乗り込んだ。
依然青い顔のままのマリーネ。彼女は震える声で『あの、トビー様…』と呼んだ
「トビー様は…あの女性と……仲がいいのでしょうか…?」
震える声だった。マリーネは怯えてる。
トビアスは後悔した。イレーネが来たとき、すぐに退散すれば良かった。そうすれば、マリーネが傷つかずにすんだのだ。
「安心して。ただのクラスメイト。個人的に仲良くもなんともない」
「でも、学園でのトビー様を知ってました…。私の知らないことまで…」
「そんなの、僕の友達の方がもっと知ってるよ。彼女はね、ちょっと変わってるんだ…」
「変わってる?」
「うん、何て言うかな…きっと自分の思い通りに物事を進めたいんだ」
「では、あの女性は、トビー様と仲良くなりたいけど、嘘をついてるってことですか?」
すがるような目でマリーネが見てくる。
『トビアスくんと仲良くなりたくて…』
以前、イレーネが言ってきた言葉をトビアスは思い出す。なぜ仲良くなりたいかはわからないが、彼女は最初からやり方を間違えている。しかもトビアスにとって受け入れがたい方法ばかりで。
「そうだよ嘘っぱち。全部デタラメだ」
「…でも、トビー様が勉強が得意なこととか、カッコいいところは、嘘じゃないです」
不意打ちにマリーネが言ってくる。
「トビー様は私のために、プレゼントを毎年選んで贈ってくれるし、エスコートも丁寧です。難しい話もわかりやすく教えてくれるし…あ!あと高原にピクニックに行った時、つまずいた私を支えてくれましたね!それにとても優しいです」
マリーネの口からは次々とトビアスの良いところが出てくる。トビアス自身が忘れていたエピソードまで、彼女の頭の中には分厚いアルバムがあるのではないかと思うくらい。
「あ、私、学園のトビー様は知らないけど、それ以外ならトビー様の良いところたくさん知ってますね…」
初めて気づいたとばかりにマリーネは驚いた顔で呟いた。
不思議とトビアスの胸がざわついて、キュッとなった。やはりそれは不思議と嫌なものではなかった。
トビアスはズボンのポッケに手を入れた。
「マリー」
自分の婚約者を呼ぶ。
その手には、先程買ったネックレスの箱。
トビアスはそっと箱の蓋を開けた。
ネックレスが姿を現すとマリーネの目が輝いた。
「わぁ、きれい…」
「この青い石さ、マリーの青い目と似てるなっと思って…」
「私の目…?」
マリーネは呟くとみるみるうちに目を潤ませた。雨上がりの青空の色。澄み渡ったその目の色は、トビアスにとって嫌じゃないものだ。
マリーネはトビアスからネックレスを受け取ると、大切な宝物をもらったみたいに胸に抱えた。
「トビー様は、いつも私に対して誠実ですものね」
『私はそれだけで満足なんです』そう言いながら、淑女とはほど遠い泣き笑い。トビアスは決して嫌ではなかった。
******
次の日教室に到着するなりに、案の定、イレーネは、トビアスのもとにやってきた。
「おはようトビアスくん!」
「……」
トビアスは昨日の出来事から、イレーネのことは相手にしないことにした。無視だ。これで嫌がられてることに気づかないなら、最早おめでたいと思う。彼女のピンクの頭の中では妖精が酔っぱらってダンスでもしてるのかもしれない。
「昨日、偶然会えて嬉しかったな~」
やはり彼女は頭に妖精を飼い、おめでたいようだ。彼女はこちらが相槌を打たないことも関係なく話を続ける。
「昨日一緒にいた婚約者さんさぁ、思ったよりも小柄だね」
「……」
「繊細ですぐ傷ついちゃいそうな、正真正銘の貴族のお嬢さんって感じ」
一体何が言いたいのだろうか。
いつもは助け船を出してくれるジルはまだ登校していない。
そして、間が悪いことに、近くにいたクラスメイト達が
「そうなんだよ!守ってあげたくなるような、将来が楽しみな可愛い子なんだよ!」
「でも、付き合うには物足りないよなぁ。年下過ぎるというか」
「トビアスと婚約者って、兄と妹って感じだよなぁ…」
不躾に口々言う。
―彼らには悪気はない。普段は気の良い奴らだ。ただ、婚約に対する価値観が違って、珍しがってるだけなんだ。
―トビアスは自分に言い聞かせた。もし今感情を表に出したら、人付き合いが苦手な自分はもっと生きづらくなるのが目に見えるから。
しかし、
「私も昨日の2人でお茶してる姿見て、なんか‘おままごと’みたいって思った」
その言葉に、トビアスはバンッと拳を机に叩きつけた。
我慢の限界だった。
しかし、すぐに血が上った頭が冷たくなっていく。
「トビアス…?」
クラスメイトの1人が呆然としたように名前を呼んだ。周りを見渡すと教室にいた多くの生徒が皆、驚いた顔でトビアスを見ていた。
「あ…」
視線の数々。トビアスは耐えられなくなり、逃げるように教室内から出た。
逃げた先は中庭だった。なんとなく今の時間は人がいなそうだったから。近くにあるベンチに力なく座り込む。
―婚約のこと、とやかく言われたからって、もっと上手く躱せる方法はあったかもしれない。
―周りを気まずくさせてしまった。
―教室にいた奴ら、みんなが見ていた。
そんな後悔が次々と湧いた。
そして、ふっと空を見ると青空が見えた。朝の空は、雨上がりの空と色が似ている。自然と思い出されるのは、自身の婚約者マリーネ。
―僕は、アイツらにマリーネのことを言われても、強く否定はしてこなかった…。
マリーネに対してひどい罪悪感が湧いた。
クラスメイトがマリーネのことをあれこれ言うのは、本当は嫌だった。
しかし、自己保身のために、口では反論するものの受け入れていた。
なんて最低な奴なんだろう。トビアスは自分を軽蔑した。
校舎からはカーンカーンと1限目が始まる鐘が鳴る。
今まで授業をサボったことはなかった。しかし、今さら教室に戻る気にはなれない。
何かをする力が湧いてこなかった。
そんな時、中庭に人影が入ってきた。
「トビーこんなところにいたのかよ」
「ジル…」
相手はジルだった。
「何やってんのジル…。授業始まってるよ?」
「その言葉、そっくりそのままお前に返すぞ」
『どっこいしょ』とジルもベンチに座り込む。
「授業くらい、どうでもいいんだよ。それよりも大親友が悩んでる。そっちの方が重大だ」
「僕の悩みなんて…」
「教室の奴らから聞いた、婚約者を貶されて、トビアスがついに怒ったって」
その言葉にトビアスは思わず声がつまる。今頃、どんな風に自分は噂されているのだろうか。
そんな心の内は、五年来の友人にはお見通しのようで、
「言っとくけどよ、誰もトビーのこと悪く言ってなかった。むしろ、‘婚約者のためによくぞ怒った’って言われてる。特に婚約者がいる女子達が、お前のこと褒めまくってた」
「でも、アイツらに悪いことした…」
「それこそ気にすんなよ。逆に‘失礼だったって、トビーに悪いことした’って反省してたぜ」
友から言われる言葉に胸のつっかえが取れていく。
「でも、僕、今まで何回もマリーのこと言われてきたのに、止めて欲しいって言ってこなかったんだ」
「そんなこと…お前いつも言ってただろ、‘この婚約も婚約者にも不満はないって’」
『充分だろ』とジルは足を組みながら言った。
「だいたい、将来結婚して家族になるんだ。歳が離れていようが、同い年だろうが婚約者を大事にするのは当たり前だ」
「……」
「俺はさ、まだ婚約者なんていないから、偉そうには言えないけどさ、トビーが婚約者と会う約束守って、贈り物も悩みながら選んでること知ってる」
「それこそ当たり前のことだ」
「分かってないな~、その当たり前が大変なんだぜ」
『だからな』とジルは一呼吸おいて、
「俺はその当たり前ができるトビーはすごいし、いい奴だと思ってる」
その言葉に、凝り固まった何かがほどけていくのをトビアスは感じた。そして、心の内にある本音を話していく。
「僕さ、マリーが大事なんだ…」
「おう、いいねぇ~」
「この先、喧嘩をするかもしれないし、怒らせることもあるかもしれないけど、それでもマリーとなら、話し合いながら上手くやれると思うんだ」
「そうだ!お前達ならできる!」
「それにマリーのことは僕が守らなきゃなって思う」
「よ!男前!」
こちらは大切な話をしているのに。しかし、ジルのいつもの軽い調子が今はありがたかった。
「マリーと僕を見て、兄と妹みたいとか、おままごとみたいって言われてさ…僕、腹が立ったんだ。でもさ…」
空気を吸い込み、一気に吐く。
「女の人として、好きかって言われたら違うと思う。僕自身、マリーを妹みたいに思ってるんじゃないかって…」
それは婚約した当時からずっと思っていたことだった。頭では婚約者と分かっている。将来結婚して夫婦になることも。
マリーは大事だ。
でも異性として恋人のように好きかと聞かれたらきっと違う。
それに対し、ジルは
「だってマリーネさんって、まだ十三歳だろ?女として見ろって言う方が無理だろ」
「そうだけどさ…」
「それなら簡単だ。時間が解決してくれる。あと数年待て。マリーネさんだって魅力的な女性になるはずだ!」
数年後のマリーネを想像した。すぐには頭に描けなかった。
「あとな、俺の姉ちゃんが言ってた。女はされて嫌だったことは何十年も、それこそ死ぬまで覚えてるって」
『だから、今のお前は大正解だぞ!』そう言いながら、ジルは親指を突き立てた。
その姿が妙に様になっていて、トビアスは笑った。そして、ジルが友人で良かったと思った。
「ジル、ありがとう」
「礼には及ばんさ。なにせお前は俺の親友だからな」
親友。その言葉にトビアスの胸が熱くなった。自分には友人は少ないが、頼れる親友がいるのだ。
―余談だが、その後教室に帰ると、マリーネのことをあれこれ言っていたクラスメイトが謝罪に来た。
「自分の婚約者のこと悪く言われたら、誰だって怒るよな。ごめんな」
口調や言葉は違えど、だいたいがそういう内容だった。
蛇足だがイレーネからの謝罪はなかった。別にそれでもいいと思った。ただ、もう関わってきてほしくない。彼女にはその思いだけだ。
あと、意外なこともあった。以前、廊下でイレーネの手首を強く掴んでいた男子生徒がやってきた。
「教室にいづらくなったら、俺のところに来い。なに、俺の仲間には人の婚約者を悪く言う奴はいない」
「え?ねぇ…」
「パトリックだ。以前は迷惑をかけた。あの時は止めてくれて感謝している」
『ぜひとも友になってくれ』そう真剣に言われ、握手を求められる。トビアスは良く分からないまま、握手に応じた。
「ありがとう友よ。ではまたな」
そう言って颯爽とパトリックは去っていった。トビアスは思いがけず新しい友人を得た。
******
その数日後、婚約者とのお茶会の日だった。
お茶会はトビアスの家の庭で行われた。今は初夏だから、色とりどりの花が咲いている。
「いい天気で良かったです」
「そうだね。どう?うちの庭は?」
「いつ見てもきれいです。それにお庭も広いですから、お茶会をするのも心地がいいです」
経済的に困窮しているとはいえ、あくまで名門貴族だ。庭も広く整えられている。
「僕が小さい頃は、ここでお弁当を広げて父上と母上と共にピクニックをしたんだ」
「すてき!私もいつかしてみたいです!」
目をキラキラさせるマリーネ。その首もとには、先日贈った青い宝石のネックレスが飾られている。それにトビアスは胸がざわついたが、やはり嫌なものではなかった。
「ピクニックもお茶会も、これからたくさんできるよ。だってマリーはいつかここに嫁いでくるんだから」
その言葉にマリーネの顔がみるみる赤くなる。
表情に出やすいマリーネは面白いなと思うと同時に、いつかマリーネと結婚して夫婦になるのだとその事実に気づかされる。
それと同時にジルから言われた言葉も。数年待てばマリーネも魅力的な女性になる。
あの時は考えられなかった未来のマリーネを想像する。
彼女は優しいし、努力家だ。それに下に幼い弟がいて、よくお世話をしているから、将来はきっといい母親になるだろう。
―子供か…。
貴族に生まれたからには子供は作らなくちゃいけない。
自分達の子供は何人になるだろうか。トビアスはそんなことを思った。
子供ができたなら、自分が親にしてもらったみたいに、この庭でピクニックをするのもいいかもしれない。きっとその時、子供を見ているマリーネは笑っているのだろう。
たまにはそこに祖父母になった親達を招いたり、友人を招くのもいいかもしれない。
たくさんの未来が想像できた。春にはお茶会をして、夏には遠出をしよう、秋には共に本を読もう、冬には雪だるまを作ってあげよう。どの未来も宝物のように輝いている。そして、自分の側にはいつでもマリーネがいるのだ。
トビアスは思った。全然嫌じゃない。むしろ幸せな未来だと。
‘おままごと’。そういうふうにからかわれてもいい。だって宝物のように輝き、心休まる幸せな時間なのだから。
「トビー様」
マリーネが愛称と共に自分を呼ぶ。
「なに?」
「急に黙ってしまわれてどうしたのですか?」
「ううん、ちょっと考えごと」
マリーネの温かみのある金髪にはいくつものはてなマークが浮かぶ。
それすらも可愛らしいとトビアスは感じた。
そして、強く、彼女を裏切ることだけはしないと誓った。
******
学園生活は驚くほど静かだった。
クラスメイトはあれ以来婚約に関してあれこれ言わなくなったし、イレーネが近づいてくることもなくなった。
ジルとは今まで通りだし、思いがけずパトリックという新たな友もできた。
おおむねトビアスの学園生活は落ち着いたの一言に尽きた。
悩みの種や煩わしさから解放されて、トビアスはらしくもなく心の中では『万歳!』と両手を上げて喜んでいた。
今は放課後で用事があるジルとは早々に分かれ、トビアスは中庭で読書を満喫していた。
読んでるのはミステリー小説。場面もクライマックスに差し掛かり、トリックと犯人がもうすぐで分かりそうだ。
トビアスが集中してると、
「どうしてくれんのよ!」
女子生徒の激しい金切り声が聞こえてきた
「あなたと関わってから、彼はおかしくなったのよ!?」
「本当、たかだか男爵令嬢が男性を侍らせて、何様のつもり?」
「婚約者がいる男性に必要以上近づかないって、男爵家で習わなかったのかしら」
口々に罵る複数の女子生徒達には、どうやら中庭の木が邪魔してトビアスのことが見えないようだ。
女の争いだろうか、恐ろしい。というか、女子生徒達の言葉から察するに、攻撃されてるのは、
「どうか言ったらどうなの!イレーネさん!」
やはりイレーネだったか。
トビアスはデジャブを感じた。
自然と耳は彼女達の会話に集中してしまう
「別にもう、あなたの婚約者の側にはいないけど」
「だったら、なんでいまだに彼はあなたのことばかり見てるのよ!」
「そんなの知らないわ」
「知らないじゃないわよ、男性に自分からベタベタ近づいてたくせに」
「…」
彼女達の間に沈黙が走る。
トビアスはそれよりもイレーネを罵る声に自身が知る声があることが気になった。
「娼婦の母親から生まれたっていう噂は、本当なのかしらね」
この声は同じ派閥の家の令嬢だ。令嬢の家とは家同士で付き合いがある。彼女が問題を起こし、評判を落とすのは、ハッキリ言ってデメリットでしかない。
トビアスは気は進まないが、胃を擦りながら彼女達の前に現れた。
「そこで何やってんの?」
前にも似たような言葉を言ったな。そんなことを遠い目をしながら思った。
「トビアス様ッ!」
イレーネと対峙していた女子生徒達が慌てる。
「さすがに思うところあるだろうけど、一人を数人で責めるのはやりすぎじゃない?」
「でも…」
「もういいんじゃない?わざわざ責めなくても。彼女は最近一人だし、反省したんじゃないかな?」
女子生徒達は納得がいかないようだったが、トビアスが出てきたことで、分が悪いと思ったのだろう。
そそくさと去っていった。
その場に残されたのは、トビアスとイレーネの二人。
「あの、助けてくれてありがとう…」
「別に助けてない」
トビアスは冷たい声で返す。
「それにしても、大層な恨み買ってるんだね」
彼女の行いを考えれば当たり前だろう。彼女は男性に自ら近づいて魅了していた。その中には恋人や婚約者がいる男子生徒もいたのだ。
これで恨みを買わない方があり得ないと言える。
イレーネは黙って俯いた。
しかし、すぐにパッと顔を上げてトビアスを見る。
「あのさ、私、最近変わったと思わない?」
急な言葉にトビアスの頭が追い付かないでいると、
「この前、婚約者さんと会った時は…アンドリュー先輩と委員会の買い出しで、仕方なく一緒にいたけど…もう男の人といることなくなったでしょ?」
イレーネは『だからね』と呟いて、
「私、もう男に媚び売る、馬鹿な女じゃなくなったよ……」
言葉の最後は震えていた。そして、息を一つ吐くと、
「私、トビアス君が好きなの」
思いがけない言葉にトビアスは絶句した。
「真面目なところも、きちんと叱ってくれるところも好き」
「なんで?」
自分は今まで彼女を邪険に扱ってきたのに。トビアスは不思議でしょうがなかった。
「私、お父様が手をつけて出来た娼婦の子なの。だから、見下されるのも嫌みを言われるのも慣れっこ。この学園に編入した時も馬鹿にされるって最初から分かってた。―でも、私は‘特定の男子を攻略できる’って知ってた。だから、その通りにして、男の子達と楽しく学園生活を過ごそうって思ってた」
『でもね』と彼女の声に影が落とされる。
「パトリックくんに言い寄られて、腕も掴まれてすごく怖かった。力で敵わないんだって思い知った」
「パトリックは、君が弄んだから、ああなったんだろ」
「それも分かってる。だって、トビアス君が教えてくれたから」
イレーネの緑色の瞳が力強く光る。
「私、不思議だけど、トビアス君に叱られたのが嬉しかった」
「勘違いでしょ」
「勘違い…。そう思うならそうでもいいよ。私はトビアス君が好き」
「でも、僕には婚約者がいる」
それは揺るぎない事実だ。
そして、それをイレーネは受け入れられないのだ。
「前にさ、トビアス君と婚約者さんを見て思ったこと…おままごとみたいって言ったこと、あれ本当だから」
「…そう」
「それとさ、ちょっとした嫌味で傷ついて、あの子弱すぎ。あんなんじゃ、将来トビアス君を支えらんないよ」
―だから、私の方が相応しいでしょ。そういうことをイレーネは言っているのだ。
マリーネが貶されてる。もちろん嫌だが、不思議とトビアスの心は落ち着いていた。
「―君は将来のこと考えたことある?」
「将来?」
「僕はある。といっても最近考えたばかりだけどさ」
トビアスは空を見た、夕方の少し寂しげな青。大事な婚約者とは違う青だ。
「大人になった僕は、毎日仕事をする。そして、結婚もして子供もいるだろう。そして、時間がある時は家族とお茶会やピクニックを楽しむ。たまにそこに親達と友人が加わる」
『そしてね』とトビアスは一呼吸おいて大事な言葉を吐ききった。
「僕の側にはいつでもマリーがいるんだ」
頭には、笑顔のマリーネが浮かんだ。時が経って顔が変わっても、きっとあの温かさは変わらないだろう。
そして、それはトビアスにとって嫌じゃないもので、幸せなものだ。
「たとえ、誰かにおままごとと言われてもいい」
「僕は君の気持ちを受け取れない」
それが、トビアスの揺るぎない答えだった。
その言葉を受けて、イレーネは取り乱すことはなかった。ただ、上を向いてため息を吐いた。
「そっか…」
小さな言葉が吐かれる。
「バチが当たったのかな…」
自分自身に尋ねるようにイレーネは呟く。
そして、視線をトビアスに戻す。
「私ね、今からメチャクチャで、意味の分からない話をするけど、聞いてね」
一呼吸をおいて彼女は語り始める。
「─私はね、イレーネに生まれる前に別の世界で生きてたの。前世っていうのかな」
「前世…」
彼女の口から語られたのは衝撃的なことだった。
「前世の世界はね、この世界よりも文明が進んでて、女の子が色んな男の人と恋愛を楽しむ物語みたいなおもちゃがあったの。…乙女ゲームっていうんだけどね…。この世界はその乙女ゲームの舞台なの」
信じられない。トビアスはそう思ったが、イレーネは真剣で嘘を言っているようには見えなかった。
「私は、乙女ゲームの主人公、イレーネに転生した。―ストーリーはこう…。男爵が遊びで手を出して生まれたイレーネは、母親が死んだことを機に、父親である男爵に引き取られる。そして、王立高等学園に編入し、たくさんの男性を魅了し、恋をしていくの…」
「……」
「信じられないよね。でも本当なの。私は、自分が攻略できる…落とせる相手のことを知っていた。だから、逆ハーレムを作れた」
確かにイレーネの容姿は優れている。だが、なぜあれほどたくさんの男子生徒を魅了できたかは謎だった。しかし、彼女の話が本当なら合点がいく。
「あのね、本当ならトビアス君もその中のひとりだったんだよ」
「僕が?」
「そう。人付き合いが苦手で、いつも孤独な存在。でも、本当は誰かの温もりに触れたい寂しがり屋さん。そういう設定だった」
「僕には数は少ないが友人はいるし、婚約者もいる。それに尊敬する両親もいるけど…」
「そうなんだよ。トビアスくんは乙女ゲームのトビアスくんとそっくりなのに全然違うの。婚約者さんだっていなかったんだよ」
マリーネと婚約していない。仮定の話なのに、心がぽっかりと穴の空いた気分にトビアスはなった。
「他にも、色々違いがあった。パトリックくんは、私が他の男子とも仲がいいからって怒ってたし…アンドリュー先輩もゲームとは違ってネチネチしてるとこがあって、そこが嫌だった」
「現実なんてそんなものじゃない?」
「…そうだよね。この世界は現実。この世界の人たちも本物…」
力のない声でイレーネは呟いた。しかし、その表情は不思議と憑き物が落ちたかのような、サッパリとしたものだった。
「私はこの世界を、周りの人たちを…おもちゃにしようとした…。だから、きっとバチが当たったんだ…」
『ねぇ』と、
「私、トビアスくんにフラれてすごいショックなんだ」
「それはごめん。でも、気持ちは受けとれない」
「謝んないでよ。分かってる…」
そう言ったイレーネは笑った。何かを堪える下手くそな笑みだった
「私、今から泣くからさ、一人にして欲しいんだ」
―だって、泣き顔ってすごくひどいから。
「好きな人の前では、可愛くいたいの……」
『だから、早く行ってよ』震える声で、イレーネは言った。
言う通りにトビアスは背を向けてそこから歩き始める。
数秒経つと、後ろから啜り泣く声が聞こえてきた。
トビアスは振り返らなかった。ただ、自分は女の子を振ったのだという事実だけが胸に残った。
そして、ふと気づいた。彼女の話は荒唐無稽で、到底信じられないような話だった。しかし、今さっき、彼女と自分は初めて意思の疎通がはかれたのだと。
本来の彼女はどんな人だったのだろうか。
今となっては、それを知るのは無理な話だった。
トビアスは啜り泣く声から離れるように歩き続ける。
******
マリーネの誕生日がやってきた。
トビアスは宝飾品店から、商品を受け取り、マリーネの屋敷に向かう。
トビアスは身内扱いで早くマリーネの屋敷に向かうことになっていた。客人はまだいなかったが、会場の準備はできていた。
トビアスはマリーネに会いに行く。
応接間の扉を開けると、温かみのある赤茶のドレスを纏ったマリーネがいた。
―ハーフアップに纏めた金髪に、その白い肌に、弧を描く薔薇色の唇に、柔らかなその青い目に、全てに目が奪われる。
トビアスの胸は妙にざわついた。
そして、そのざわつきはやはり嫌なものではなかった。
―あぁ、そうか、自分は彼女の‘女’を意識しているのか。トビアスは胸のざわつきの理由を理解した。
同時に―あと数年経てば彼女も魅力的な女性になる。この事を理解した。親友のジルが言うように、あと数年経てばマリーネは誰が見ても魅力的な女性になるのだろう。
そして、トビアスはきっとその時、彼女を女性として愛する。
しかも、その未来を楽しみにしているのだ。
「トビー様?」
沈黙を続けるトビアスにマリーネが不思議そうに、声をかける。慌ててトビアスは、祝いの言葉を口にした。
「あ、ごめんマリー。今日は誕生日おめでとう」
「ありがとうございます。それにしても、トビー様、先程は黙ってしまわれてどうされたのですか?もしかして、体調が優れないのですか?」
「ううん。大丈夫。ただ、マリーがいつもよりも大人っぽかったからビックリしただけ」
その言葉にマリーネの頬が赤くなり、挙動不審に目もあちこちへ向く。
「今日はその、十三歳の誕生日ですし…。それに、少しでもトビー様と並べるようになりたくて…」
『このドレスもトビー様の髪と目の色なんです』と、顔が真っ赤で、声も小さくしながらマリーネが答える。トビアスはやはり、そんな彼女が可愛らしいと思った。
トビアスは、手に持っていたプレゼントをマリーネに渡す。
「はい、誕生日プレゼント。この前、一緒に決めたピアスだよ。開けてごらん」
「ありがとうございます!」
マリーネは嬉しそうに受け取ると、やはり胸に引き寄せ宝物のように抱きしめた。そして、すぐさま箱から取り出していく。
中のピアスは二組。一つはマリーネ用で、もう一つはトビアス用。宝飾品店で決めた通り、小さな金の円盤に、それよりも小さなガーネットが嵌め込められている。ガーネットは赤茶色。
この色が自身の髪と目の色であることに、トビアスは今更ながらに気がついた。
そして、婚約者の自身に向ける気持ちの強さにも。
「ねぇ、マリーネ…ピアスもう着けない?」
「いいんですか?」
「いいよ。本当は今度、一緒に着けようかと思ったけど…。それに僕も着けるから」
『婚約者の特権なんでしょ?』とトビアスは逆に質問する。今日は、マリーネの首もとにあの青いネックレスは飾られていない。ドレスとの兼ね合いを考えたら当たり前だと思うが、すこしだけ寂しかった。
だから、代わりにお揃いのピアスを着けたかった。
マリーネは、トビアスの申し出に嬉しそうに了承し、その細い指で、形のいい耳にピアスを着ける。トビアスも同様に着けた。やはり胸が妙にざわついた。
嬉しそうに笑みを浮かべるマリーネにトビアスは語りかけた。
「あのさ、マリーは、僕と釣り合いたいとかって思ってるの?」
「えぇ…。だって、トビー様は素敵ですし、私はまだ未熟ですから」
「マリー、そんなことはないんだよ。僕もまだまだ未熟でさ、周りに合わせてついてくので、精一杯なんだ…」
「そんなこと…」
「ううん、そうなんだよ。人付き合いに関してなら、マリーの方が一歩も二歩、それどころかずっと上だと思う」
マリーネは女学院で、控えめにしながらも空気を読んで上手くやっている。女学院に妹がいるクラスメイトが言っていたから間違いないだろう。
「僕は君が考えるよりもずっと弱くて、カッコ悪い奴なんだ…」
「私にとっては、そんなことありません!」
少しだけ怒ったような表情でマリーネが言う。
「トビー様は優しくて、私のことをいつでも助けてくれます。たくさん努力していることも知っています!」
『私にとっては素敵な婚約者なんです』必死にそう伝えるマリーネ。そんな婚約者が可愛らしくて、トビアスは笑った。
「なんで、笑ってるんですか?私は本気ですよ」
「ごめん、ごめん。なんか嬉しくて」
やはりマリーネは大事だ。トビアスはそう思う。
「釣り合うとか釣り合わないとか、正直言って僕らには関係ないと思うんだ。僕らの目線は同じで、立っている場所も同じ。目的地も同じ」
「同じ…?」
「そう、だから、僕とマリーは、僕らのペースで進んでいけたらいいなって思うんだ」
それがトビアスが考えたマリーネとの歩み方だった。
幸せな未来に行くために、苦楽を共にしながら、時に支え合いながら、時に喧嘩もしながらも、その度に2人で話し合って納得する道を決めていく。
―ゆっくりでいい。
―おままごとみたいでもいい。
それが、きっとマリーネとの未来に繋がっていく気がするのだ。
トビアスの提案を聞いたマリーネは少しだけ考える様子を見せ、数秒経つと、
「私も…それがいいです…」
そして、固いものがほどけたような笑顔で、
「トビー様と私…私たちなりの方法で歩んでいきたいです」
その時、使用人からもうすぐパーティーの打ち合わせが入ると連絡が入った。
トビアスとマリーネも共に向かう。扉を出る際、マリーネがトビアスを呼んだ。そして、顔を近づけて小声で
「トビー様、大好きです」
不意打ちの告白に、今度はトビアスが顔を赤くする番だった。
お読み頂きありがとうございました。