道先7
白旗 元木の夕食
銀色の缶を3本出して来てテーブルに置いてまずは溜息を深く吐く。
「疲れたなぁ」
今日も残業。明日も残業。明後日も、そのまた…………ずっと残業。
俺は何の為に仕事してるんだったかな。夢を追いかけていたのはいつだっただろう。何でも叶えられると信じて疑わなかった。掴む為にやるだけやってきた、そうだった筈なのに。
望む暮らしとは程遠く、狭苦しいオフィスで生気の無い顔色の同僚達と共にPCに噛り付いている。
この会社は、ただのステップに過ぎないと、足掛かりにしたらすぐ辞めて悠々自適な生活へと進む予定だったのに。
そんな理想は露と消え、今は一人きりで侘しい生活を送っている。
腹は減るから簡単だが一人で作る飯。小さな冷蔵庫は、10年前にここへ越して来た時に買い揃えた家電の一つでまだ活躍している。
中古で、安くてすぐ壊れると思っていた。扱いもぞんざいで掃除だってろくろくしてやってない。それでも、電気が供給されている限り食材を冷蔵冷凍しておいてくれる優秀な奴であり、相棒のような感覚だ。
冷凍庫から大ぶりのホッケを一尾取り出し、セットしてあった卓上グリルへ水を入れてからホッケを入れてスイッチオン。後は焼けるのを待つだけである。
――やればなんだって出来る。
いつからでもスタート地点に立てる
夢物語の主人公や一部の秀でた選ばれし逸材にしか適用されないスキル
何も無い俺に、夢を追いかけるなんて事出来るのか。
10代、20代で何故か持ってた底なしに根拠の無い自信は一体どこからやってきていたのだろうか。
仕事最優先の道を走ってきたら、いずれ止まったゴール地点で『長い間お疲れ様、これからはゆっくりしてね』と微笑んでタオルを差し出してもらえるのだと思っていた。そんな老夫婦になる事が憧れでもあった。
だが、現実はそんな老後なんて物は無く、結婚2年で嫁は子供を連れて出て行ってしまった。
当時はかなり憤慨したが、今思えば『子育てを手伝ってる、よくやってるだろう俺は』そう言ったのがいけなかったらしい。
入り浸るようになっていた【嫁ロスター】の掲示板では、俺の知らなかった常識が日々流れていく。
どうやら、亭主元気で留守が良いなんて時代はとっくの昔に終わり、共働き夫婦の新常識は上手に家事を分担する事にあったようだ。
父親はずっと仕事漬けの人で、帰ってきたら温かい飯と風呂が用意されているのが【普通】だった。母は専業主婦で俺を含めて兄弟4人を育ててきた。朝でも夜でも兄弟喧嘩は茶飯事だったが父は新聞やテレビで家の中で起きている事には一切関与しないスタイル。
母は父に二歩も三歩も下がっているような態度で、何をするにも父を立てた。親戚の集まりの時には決まって『うちの女房は本当に出来が悪くて』そう言う会話で盛り上がるような時も母はにこにこと父の側についていた。
日本には身内を卑下して笑いを取る文化のような物がある。
よく考えたら、何をもってしてそんな事が横行してきたのだろうか。
体格差があるのだから、男が女を守るのは頷ける。だがそれが優位性として君臨してきてしまったのがいけない。そもそも、人類両方居なきゃ繁栄しなかった訳で、更に言うなら腹で育ててから生んでもらわないと生も受けられない訳で……。
古い日本に、男尊女卑なんてものがあったから悪いのだ。最初から、夫婦は寄り添い支え合いましょうと伝えてきてくれたのならば俺の家も嫁は子供出て行かなかったんじゃないか。
…………まぁ、反省の色が見えない事が何よりの原因だろう。
銀色の缶をテーブルに置く。
終わってしまった事を思っても仕方ない。後の祭りとはこの事を言うのだと身をもって知った。
仕事は楽ではなかったが、家族の為だと思うと頑張れた。産前産後の状態が良くない嫁を放っておいた罰。子供に合わせる事は無いと綴られていた手紙は、取ってある。勿論、自分への戒めも込めて。
じっくりふんわりジューシー焼き上げを謳った卓上グリルは魚を焼くのにかなり時間が掛かる。
が、どんな魚も身が固くならずにいつも旨い。料理の出来ない俺でも焼ける。
魚用の長い皿にポイと乗せ移し、グリルの電源を切る。
皮はこんがりと香ばしさを漂わせ、少し腹の虫が鳴く。身はふっくらとしていて艶がある。
箸を入れるとそくり、そくりと身が外れていくのは分厚いホッケの成せる業。
骨からするする剥がれた大振りの身に一口噛り付き、急いで白飯を口に入れる。よく噛んで、後はビールを煽る。
「ああ、旨いな」
思わず声が漏れていた。
辛くとも、飯は旨い。
ふと息を抜く時、生きている意味だとか、俺はこんなはずでは無かったにのとか、そんな事ばかり考えてしまうが旨い物を腹に入れるとどこからともなく幸福感が訪れる。
どんな懺悔も独り言として一人の部屋にコダマしていくが、今日もこうして食べる事で俺は生かされているのだ。
ぷりぷりのホッケを箸で摘まみながら、ビールを煽り一人、夕食兼晩酌はいつも通りに進んでいくのだった。
ホッケが食べたい