№15・マハジッカの媚薬・下
「……こんばんは」
そこにはなぜかメルランスが立っていた。部屋着らしいワンピースを着ている。宿屋からこの格好で来たのだろうか?
「どうしたんですか、メルランスさん? こんな時間に女性ひとりで、危ないですよ」
「ふふ、へーきへーき」
後ろ手に扉を閉めながら、メルランスは笑う。こんな風に笑う彼女を見るのは初めてだ。どこか……そう、妖艶な、ひどく幸福そうな。
あの未亡人のような。
「と、とにかく。なにかあったなら話を聞きますよ。そこに座って……」
「南野」
言葉を遮って、メルランスが名前を呼ぶ。とろけるような、甘えるような声音で。
次に彼女は、いきなり部屋着のワンピースを脱いだ。下はキャミソールのような黒い
ベビードールで、薄い胸がわずかにその膨らみを主張している。
「め、メルランスさん……?」
目を白黒させる南野に、下着姿のメルランスが抱きつく。やわらかというには熱すぎる体温がワイシャツ越しの肌に触れた。
「……抱いて」
「抱いて、って、あの、メルランスさん!? あの、あの……!」
「いいから、あたしを抱いて」
南野の胸元に頬ずりをしながら、メルランスは甘える子猫のような口調で命じた。
据え膳食わぬは男の恥、とは言うが、相手は仲間だ。尊敬も信頼もしているし憎からず思っているが、そんな風に見たことは一度たりともない。
そんな気持ちで彼女の要望に応えるのは不誠実と言えよう。
「……ごめんなさい、メルランスさん」
強引にからだを引きはがし、南野は謝った。
「どうしてあなたがそういう気持ちになったのかは知りませんが、俺はあなたをそんな風に扱いたくない。だから……」
言いかけた、そのときだった。急転直下、メルランスは南野の胸倉をつかむとその場に引きずり倒した。女性とはいえ冒険者だ、ちから負けしてその場に押し倒されると、彼女は南野のからだに馬乗りになって首に手をかけた。
ぐ、とその手にちからがこもる。
「……ぐっ……!」
なぜ、と問うこともできずにいると、メルランスは鼻先が触れ合うほどに顔を近づけて笑った。
「それじゃあ、殺してあげる。殺して、あたしはあんたを食べるの。それなら、ずっといっしょにいられる……」
「……そんっ……なっ……!」
「いいでしょ? ねえ、愛してるの。愛して愛して愛して、頭おかしくなっちゃいそうなの。好きなの。いとおしいの。あんたのこと愛してるの。だから、ずっといっしょにいよう?」
意識が遠のく。これは明らかに異常だ。彼女になにがあったというのだろう。
このまま彼女の血肉となって死んでいくのか……
そうあきらめかけていた時、扉を開く音がした。
「おう、南野。なんや物音がしたんじゃが……」
まだウエイトレス姿のメアがその光景を目にする。目にした瞬間、混乱したのか一瞬動きがフリーズした。それから、
「……お邪魔みたいじゃのう」
帰ろうとする彼女を引き留めようと必死に声を絞り出した。
「……たす、け……!」
その言葉と『首を絞められている』という状況から、彼女もなにか異常な気配を感じ取ったらしい。きびすを返し、部屋に戻ると、ひょい、とメルランスを南野から引きはがす。
「離せっ! あたしはこいつといっしょになるんだ! 離せぇぇぇぇぇぇっ!!」
「がほっ、ごほっ……!」
床にへたり込んだまま喉を抑える南野。メルランスは狂ったように暴れているが、メアの膂力の前ではなんの効果もない。
これはどう見てもおかしい。何かあったに違いない。
思い当たるのはあの未亡人……『マハジッカの媚薬』だ。
もしそれを飲んでしまったのならなんとか解毒しなければならない。
「メアさん、そのままメルランスさんを抑えておいてください! 俺はキーシャさんを呼んできます!」
「離せぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
髪を振り乱して暴れるメルランスとメアを置いて、南野は夜の街を走った。
教会学校でわけを話してキーシャを連れてくると、すぐに解毒の魔法をかけてもらう。
「『第百十五楽章の音色よ、創生神ファルマントの加護のもと、荊を飲み干した愚者を救済する旋律を解き放て』」
夜着姿のキーシャが手をかざすと、ぽう、とメルランスの額辺りが光る。だんだんと動きが鈍くなっていき、やがてがっくりと気を失ってしまった。
ようやく一息ついた南野は、椅子に腰を下ろしてつぶやく。
「どうして『マハジッカの媚薬』がメルランスさんに……」
「……ごめんなさいっ!」
いきなりキーシャに謝られた。思いっきり頭を下げられて、南野の頭に疑問符が踊る。
「ええと……どういうことですか?」
おそるおそる尋ねると、キーシャは頭を下げたまま説明した。
「昨日、南野さんとメルランスさん、ちょっと険悪だったから……それで私、仲直りできればいいなと思って、ふたりがいないうちにメルランスさんのエールに『マハジッカの媚薬』を少しだけ混ぜたんです……それが、こんなことになるなんて……」
心底申し訳なさそうに言われると、怒るに怒れない。そもそも、善意でやったことを怒るつもりは南野にはなかった。そういうことかと納得しながら、南野はうなだれるキーシャの肩に手を置いた。
「その気持ちはうれしいです。けどまさか、こんなことになるなんて俺も思ってなかったです……メルランスさんの記憶がないといいんですけど」
「通常、媚薬を盛られてる間の記憶はないと思いますけど……」
「じゃあ、なかったことにしましょう。メルランスさんは今夜、酔っぱらって俺の部屋に来てそのままなにもせず寝てしまった。これでいいでしょう?」
そう片付けて、南野は気を失っているメルランスに部屋着のワンピースを着せた。自分の寝床にしようとしていた毛布の上に横たえると、そっと布団をかけてやる。
「本当に、ごめんなさい……」
「謝らないでください。俺もびっくりしましたけど……何事もなかったから大丈夫です」
「おう、こいつこの騒ぎでまだ寝とるぞ」
メアがベッドの上でいびきをかいているキリトを指さした。ぐうぐうと気持ちよさそうに寝ている。ある意味大物かもしれない。
「それにしても、すごいですね『マハジッカの媚薬』の威力……」
「ですね。迂闊に使うべきじゃない。『死ぬほど愛される』っていうのは、こういうことだったんですから」
つまりは、飲ませた相手をヤンデレ化させる薬だということだ。しかも極めて過激な。殺して食って腹の中でいっしょにいる、なんて常軌を逸している。
そこで、はっとした。
あの未亡人の不思議な笑み……もしかしたら、彼女もまた『マハジッカの媚薬』を飲んだのかもしれない。だとしたら、死んだ主人というのは……
そこまで考えて、恐怖のあまり思考をシャットダウンした。
あとにはただ、脳裏に嫣然としたあの赤い笑みだけが焼き付いていた。