№11・龍神の逆鱗・上
『逆鱗』。
少々の教養がある人間ならだれでも知っている言葉だろう。
もとは龍の鱗の一部で、触れられるとその龍は怒り狂うという。
人間でさえ手の付けられようのない怒りようになるというのに、龍ならばどうなるのかは想像に難くない。
「……で、今回は『龍神の逆鱗』ってわけね」
ブランチのパンケーキをほおばりながら、メルランスがつぶやく。
「そうなんです……やっぱり難しい相手なんですか?」
南野が尋ねると、パンケーキを平らげたメルランスが、ふう、と息をつく。
「龍神にもランクがあるからね、低級の龍神を狙えば何とかなりそうだけど……」
「龍神か! 腕が鳴るな!」
「私、生で龍神なんて見たことないんですよ! どんな生き物なんだろう?」
メルランスの憂慮も気にせず、好き放題に期待を寄せる二人に、南野は一抹を感じていた。
「とはいえ、龍神は龍神、相応の覚悟がないと相手にできないよ。そこらへんの川を守護してる龍神だって立派な龍。それも逆鱗なんて、戦闘は避けられないだろうね」
「うう、今回もお願いすることになりそうです……」
申し訳なさそうな顔をする南野に、メルランスは肩をすくめて見せた。
「なにも正面切ってせん滅するわけじゃないんだから、逆鱗を引っぺがしたら即座に逃げればいいだけ。『レアアイテム図鑑』がある以上、難しくはないよ」
そうは言っても、メルランスの表情は険しい。これはずいぶんと難しい獲物らしかった。
「……お願いしますね」
「任せといて」
神妙な顔の南野を元気づけるように、メルランスは快活に笑って見せた。
「じゃ、行くとしますか」
景気づけに背中を叩かれて、四人は『レアアイテム図鑑』に手を置いて目を閉じた。
空気が変わる。軽やかな風が吹く新緑の香りがした。
「森……?」
いぶかし気につぶやいて目を開けると、そこは深い森の中だった。覆い茂る樹で辺りは薄暗い。
『レアアイテム図鑑』が導いたということは、この近くに龍神がいるということだろう。
「洞窟か何かに住んでるかもしれない。それらしいところを探そう」
短剣で下草を払いながら歩き出すメルランスに、キリト、南野、キーシャが続く。少し蒸し暑いのは草いきれのせいだろうか。時折獣道を見つけて進みながら、近くに見える大きな岸壁を目指して歩く。
やがて視界が開け、大きな洞穴らしき穴が岸壁に開いているのが見えた。相当深いのか、奥底からうめき声のような風音がする。
「たぶんここだよ。うまくすれば眠ってるかもしれない」
メルランスはキーシャに照明を頼むと、短剣を片手に洞穴の中に踏み入っていった。南野たちもそれに続く。
普通洞窟というと蝙蝠や虫が生息しているはずなのに、その気配が全くない。完全なる静寂の中に、ぴた、ぴた、と水が滴る音だけが響く。
薄暗い闇にほの青い光だけが頼りだ。先行する光球に導かれて、深い洞穴の奥深くへと進んでいく。
大きな岩の手前で、メルランスが一行を手で制した。獲物を発見したのだろう。
「……え、おいおいおい……!」
キリトが明らかに狼狽した声を上げる。
その視線の先にいたのは、金の鱗を持つ巨大な龍だった。眠っているらしく、とぐろを巻いて微動だにしない。
「黄金龍なんて聞いてないぞ……!」
青ざめているところを見ると、相当な高位の龍なのだろう。メルランスも若干青い顔をしている。
「こりゃ厄介だわ……」
「見るからに強そうですもんね……」
南野も同意する。太く鋭い鉤爪、ずらりと並んだ牙、金の光を帯びる鋼のような鱗。並の冒険者では太刀打ちできない相手であることは確かだ。
しかしそうも言っていられない。今回の獲物はこいつなのだから。
四人は円陣を組んで作戦会議に入った。
「いい? この位置からじゃ喉元の逆鱗は狙えない。一旦起こさなきゃ。これが一番危険な仕事になるんだけど……」
「俺が引き受けよう! スリル……わくわくするじゃないか!」
キリトが意気揚々と名乗りを上げる。取り合えず第一陣は彼に任せておけばいいだろう。
「龍神が起きたところで目くらましをする。キーシャ、何でもいいから強力な魔法乱発して。当たらなくてもいいから、辺りを粉々にする勢いで」
「わかりました」
「で、目くらましに寝起きの龍神が戸惑ってるうちに、あたしが懐に入って逆鱗をむしり取ってくる。そうしたら洞窟が崩れる前に速攻で『レアアイテム図鑑』を使って元の場所に戻る……それでいい?」
「いいもなにも、メルランスさんが頼りなんですからそれでいきましょうよ」
南野が返事をすると、メルランスは小さくうなずいた。
「余計な戦闘は避けること。黄金龍なんて相手にしてたら命がいくつあっても足りないからね。みんな、持ち場を離れないで」
「承知!」
「わかりました!」
唱和する三人。南野だけが戦力外で、己の無力さをまた思い知らされる。
「キリト、合図したら静かに一撃入れて。あんたバフ以外の魔法使えるの?」
「ふっ、それなりにな。頼りにするがいい」
「そう、なら……とっとと行け、ジョン!」
「ジョンって言うな!」
短く抗議の声を上げたのち、細剣を振るって印を切り呪文を唱えるキリト。
「『第百三十楽章の音色よ! 創生神ファルマントの加護のもと、虚空を切り裂く霹靂の咆哮の旋律を解き放て!』……蒼雷爆閃光ぅぅぅぅぅぅっ!!」
「あっ、バカ! 静かにって言ったでしょ!!」
言ったときにはもう遅かった。バカでかい技名に目を覚ました龍神は、かっ、と目を見開くとその巨体をもたげて起き上がる。
キリトが放った極太の青い雷は黄金色の鱗に阻まれてあえなく散ってしまった。
「くっ、こいつに一番槍を任せたのがそもそもの間違いだった……!」
「う、うるさい! そもそも技名を叫ぶのは……!」
「つべこべ言うなヘタレ!! これで完全に龍神が起きちゃったじゃない!」
「お、俺のせいなのか!?」
「そーだそーだあんたのせいだよ畜生!! キーシャ! 予定通り目くらまし! 魔法乱発して!」
「は、はい!」
メルランスの声に、今度はキーシャが詠唱を開始する。複雑な印を切って、
「『第百十二楽章の音色よ! 創生神ファルマントの加護のもと、紅蓮の大華の鮮やかさのごとき旋律を解き放て!』」
す、と龍神を指さすキーシャだったが、案の定魔法はまったく別の方向へと飛んで行った。……ちょうど南野たちの背後、今しがた入ってきた洞穴の入口へと。
でたらめな量の爆炎が岸壁を直撃し、轟音とともに降り注いだ土砂で入り口が埋まる。
「なんでぇぇぇぇぇぇぇ!?」
「あああああ!! すいません、すいません!!」
半泣きで絶叫するメルランスに、キーシャが平謝りした。