№10・歪曲する運命の魔導書・下
ぐわん、と脳の中で何かが反転し、視界が暗闇に落ちる。意識は完全に現実を離れ、無限の谷底へと落下していく感覚だけがあった。
声も上げられず落ちていく南野の脳裏に、なにかが浮かんできた。
白くまばゆく発光する人影だ。
神様だ、と言われたら信じられる気がする圧倒的なプレッシャーがその存在にはあった。
『へえ、面白い客が来た。何百年ぶりだろう』
人影は男のような、女のような、ディストーションがかかったかのような声で南野に語り掛ける。
『ようこそ、ここは歪曲する運命の渦中……とはいえ、君はすでにずいぶんとねじ曲がった運命の中にあるようだ』
声が出ない。落下する感覚と聴覚だけが研ぎ澄まされている。
人影はが少し笑ったような気配がした。
『言っておくけど、僕……いや、俺、いや、私は神でもない。悪魔でもない。いわんや人でもない。ただ運命を制御するだけのプログラムのような存在だよ』
そんな存在が何の用だ、と尋ねようとした。が、今の南野には無理な相談だった。
『ふぅん……変わったちからを持っているようだ。この歪んだ世界でそのちからがどう働くか、それは君次第だよ』
光の形をした人影はそう言うと、落下し続ける南野に背を向けて笑みの色を濃くした。
『ねじ曲がった運命、数奇なちから……しかしね、この本を開いたからには君の運命はより歪曲していくことになる。いい意味でも悪い意味でもね。君は変わらないだろう。変わるのは運命だ。流転する運命の荒波に、君がどう立ち向かっていくか、なかなか興味深い……』
待て、と止めようとした。が、その瞬間光の人影は跡形もなく脳裏から消えてしまった。
同時に、落下する感覚と暗闇も消え去る。
「……さん、南野さん!!」
気が付くと、床にへたり込んでがくがくとキーシャに揺さぶられていた。
「……あれ?」
「あれ?じゃありませんよ!! どうして開いちゃったんですか!!」
「いや……なんだか、不思議な存在に出会って……」
「不思議な存在? しっかりしてください!」
珍しくキーシャに怒られて、南野の意識が次第に明確になっていく。
「『歪曲する運命の魔導書』……」
手にしているのは古代文字で書かれた表紙の古書だ。さすがにもう一度開く勇気はない。まじまじと見つめて先ほどの体験を思い出す。
「俺の運命はますます歪んでいくって……」
「……なにがあったかは知りませんが、禁書と呼ばれるほどの魔導書です、運命を捻じ曲げる魔法がかかっていてもおかしくありません」
ちからが抜けたように肩を落とすキーシャに、南野はちからなく笑いかけた。
「まあ、もともと俺の運命はねじ曲がっているって言われましたけどね」
不思議なちからがある、とも言われた。今はまだなんの自覚もないが、もしかしたら自分はとんでもないことに首を突っ込んでいるのかもしれない。
『歪曲する運命の魔導書』をリュックに放り込んで、まだふらつく足取りで立ち上がると、南野はキーシャの肩に手を置いた。
「運命は変えられる。変わらないのは俺です。俺さえねじ曲がらなければどんな運命にも立ち向かえる気がするんです」
「南野さん……」
「迂闊に本を開いたことは謝ります」
「……運命が狂うんですよ?」
「もとから狂ってます」
苦笑いして、南野はぽんぽんとキーシャの肩を叩いた。
「ま、死んでないならいいんじゃない? とっとと帰ろうよ。ここかび臭いし」
「そうですね」
いまだに釈然としない顔をしているキーシャの手を引いて、南野は『レアアイテム図鑑』に手を置いた。
目を開けると、いつもの酒場の光景が目に映る。
「さあ、とりあえずキリトさんの治療をしないと。精気ってどうやったら戻るんですか?」
「栄養付けて眠ること。風邪と同じだよ」
「ならよかった」
意外と大したことはなさそうだ。南野はキリトのからだを担いで医務室へと連れて行った。
「どうしたの、キーシャ?」
メルランスが問いかけると、キーシャは目を伏せて小さくつぶやいた。
「……なにごともなければいいんだけど」
「なんか言った?」
「い、いえ、なにも!」
とっさに平静を装って笑顔を取り繕うキーシャ。
歪曲する運命……それを南野がどうたどるのか、彼女にはわからない。
しかし、彼自身がねじ曲がらない限り、その運命も乗り越えていけるという。
神の戯れか、悪魔のいたずらか。
もとより数奇な運命に導かれてこの地に流れ着いた南野の行く末を案じながら、キーシャは小さくため息をついた。