№04・サバラの泉・4
もう限界はとっくに超えているはずなのに、足は機械的に前に進む。血の跡を床に引きながら、ただ前に。
不思議なことに、入り組んでいるはずのダンジョン第三階層は迷わず進めた。『なんとなくこっちのような気がする』というひどく不確かな確信があったからだ。それは南野の蒐集狂としての鼻だったのかもしれない。
さいわい、泉に着くまでに他のモンスターは出てこなかった。罠もかわせるようなものばかりで、何かの加護が働いたとしか思えなかった。
「……ついた……!」
開けた場所に出る。そこは図鑑に載っていた通り、水汲み場のようなところだった。女神をかたどった彫刻の水がめから、絶え間なく水が流れ出している。濁りのないきれいな水だ。
南野は急いでメルランスのからだを床に横たえると、一瞬躊躇した後、穴の開いた胸鎧を外して服の前を開いた。小ぶりで白い乳房は、ぽっかりと開いて今も血を垂れ流す穴のせいで痛々しいものにしか見えない。
メルランスの顔色はすっかり青ざめていた。今朝まで闊達に動き回っていたときの彼女が嘘のような、彫像じみた風情だった。
「ちょっとだけ、我慢してくださいね……!」
そう言い残して、南野は水汲み場へと向かい、両手で水をすくう。手の中に水が満ちると、泉の水は一瞬だけ金粉をまいたかのように黄金色に輝いた。慌ててその水を運び、メルランスの胸に開いた穴にそっと垂らしていく。
ちょろちょろと落とされる水が穴へと流れ込んでいくと、ゆっくりと傷口の周りの肉がうごめき始めた。うごめき、盛り上がり、つながり、ふさがっていく。
何度か水汲み場と往復しているうちに、メルランスの傷はすっかり消えていた。肺にたまった血もなんとかなったのか、呼吸の音も正常だ。血まみれの肌や衣服が悪い夢のように見えた。
「……よかった……」
ほっとした南野はついその場にへたり込んでしまった。ここに来るまでの緊張の糸が切れてしまったのか、顔を覆って泣き出してしまう。
「……なに、泣いてんの、あんた……?」
「えう?」
鼻水をすすりながら顔を上げると、メルランスが目を覚ましていた。まだぼんやりしているのか、まなざしの焦点が合っていないが。
「め”っ、め”っ……!」
「ちゃんと喋りなよ……」
呆れたように言いながら、メルランスは億劫そうに体を起こす。
そこで服を脱がされていたことに気付いたのか、ばっと胸元を腕で覆い隠して顔を赤くした。
「みみみみみ、見た!?」
「えっ? えっ? いや、その! だって非常事態ですし……!」
「見たんだ!」
「仕方がなかったんですよ!」
「見たんでしょ!?」
「いや、見ましたけど……!」
「見たんだ! そして『うわっ、洗濯板……』とか思ったんでしょ!!」
「いやいやいやいやいや!? そこまで思ってませんよ!? っていうかそんな暇ないですし! 非常につつましやかでかわいらしい胸だとは思いましたけど……」
「つつましやかで悪かったな!!」
肺を貫かれて死にかけたことより、そちらの方が大問題のようだった。乙女心はわからない。南野がどぎまぎしているうちに、メルランスは大いに不満そうな顔で服を着てしまった。
「……あの、ごめんなさい……」
「ふん! 今更謝ったって遅い!!」
大変におかんむりである。南野は慌てて訂正した。
「そうじゃなくて! いや、見たこともそうなんですけど……俺をかばって、こんな目に遭って……」
「ああ、そんなこと」
こうべを垂れていた南野に、メルランスはあっけらかんと答えた。それでは南野の気が済まないので、再度謝罪する。
「本当に、すみませんでした……! 俺がもっとメルランスさんの言うことを聞いていれば……」
「あのねえ」
うなだれる南野にずいっと詰め寄り、メルランスはため息をつく。
「冒険者たるもの、こういう形で危険な目に遭って、もしかしたら死んじゃうことくらい覚悟はしてるの。とっさにあんたをかばったことを悪い判断だったとは思わないし、現にあんたはきちんと目的地にたどり着いた。それでいいじゃない」
「そ、それは結果論で……!」
「結果オーライ! 誰だって初めてのダンジョンはこんなもんだよ。あたしだって散々パーティのみんなに迷惑かけた。けど、その時の経験があったからこそ、こうしていっぱしの冒険者としてやっていけてる。だから、今度はあたしが誰かを助ける番なんだよ」
「メルランスさん……」
「ああもう、なにが言いたいかって言うと、冒険者舐めんな!ってこと! 危ない橋渡ってお金稼ごうとしてるんだから、とっくにそういう覚悟はしてんの!」
それで話は終わりだ、とばかりにメルランスはそっぽを向いてしまった。南野にはそれ以上何も言うことができない。これ以上の謝罪は彼女の冒険者としてのプライドに傷をつけてしまう。
所在なさげにうつむいていると、メルランスは穴の開いた胸鎧をつまみ上げてため息をついた。
「にしても、これはどうにもならないな……買い直しかな。ああー、あたしのお金ー!」
「あ、でも! ほら、この泉を汲んで持ち帰って、売りさばけば!」
「どうやって?」
「えっ? ……ああー」
そうだった。持ち帰るための容器がない。まさか水瓶を背負ってダンジョン攻略をするわけにもいかず、結局持ち帰る手段がないのだ。
「あたしとしたことが……! くっ! 水瓶いっぱい持ち帰ったら金貨30枚にはなるのに……!」
「っていうか、持ち帰れなかったら今回のミッションは失敗ってことに……!?」
「ああ、それくらいなら手持ちの水筒があるから、それに入れていけば大丈夫でしょ」
腰から革袋を取り出すメルランスを見て、ほっと安堵のため息をつく。
「けど、すごいですねその泉。メルランスさんの傷なんて一瞬で治りましたよ。傷跡も残ってない」
「……一瞬で?」
泉の水を汲みながら、メルランスは軽く目を見開いた。
「ええ、すぐに治りました。さすがは『サバラの泉』ですね」
「…………」
「なにかおかしいですか?」
むっつりと押し黙るメルランスに問いかけると、彼女は考え込んだあとで口を開いた。
「あたしの知ってる『サバラの泉』は、そんなに一瞬で傷を癒すたぐいのものじゃない。ある程度長期的に使って、傷や病を癒すものだよ。瞬く間に傷を癒すなんて、フェニックスの尾羽や万能薬、あるいは高度な魔法じゃなきゃ無理」
「でも、現に治りましたよ? 水が金色に光って……」
しかし、メルランスの手にたまっている水は一向に光る気配がない。
この現象は、南野の手によってのみ引き起こされたらしい。
「……あんた、何者なの?」
レアアイテムのちからを最大限に引き出す能力。
……そんなわけないか。ただの奇跡だ。
胸のざわつきを抑えながら、南野はただ黙って自分の手を見つめていた。