№04・サバラの泉・3
ずる、ずる、とメルランスのからだを引きずりながら廊下を進む。軽かったはずのからだがだんだんと重くなっていくような錯覚を覚える。照明の光球が消えていないところを見ると、まだメルランスの意識はあるのだろうか。
しばらく歩くと、また何かを踏んだ。がこここ、と不吉な音がして、壁が開いていく。これはマズいと踏んで、渾身の力を込めてダッシュする。
案の定、さっきまでいた場所になにか粘液のようなものが降り注いだ。熱した油だろうか、じゅう、と床を焼いて煙を立てている。
一足遅ければ危なかった、と胸をなでおろし、またメルランスを担いで廊下を歩いていく。
足取りがどんどん重くなっていく。自分の体力のなさを痛感しつつ、それでもなお歩く。右へ折れ、左へ折れ、迷宮の奥深くへと。
たまらず壁に手をつくと、またがこん、と音がした。嫌な予感にせっつかれて振り返ると、天井に穴が開いていた。どさ、となにかが落ちてくる。
「……う、あ……」
目を見開き、後ずさった。それは半分腐乱した犬のゾンビだった。脳漿と眼球をこぼしながらも、前足で石の床を掻いて今にも飛びかかってきそうだ。
南野は全速力で走りだした。怖くて振り返れないが、犬の素早い足音が追いかけてきている。追いつかれたら一巻の終わりだ。
足が上がらなくなっている。つまずきそうになりながらも、南野は走った。犬のうなり声が背後から聞こえてくる。息が上がって、呼吸困難で死にそうだ。それでも足を止めない。
今、南野はひとりでいるわけではない。命の恩人を肩に担いでいるのだ、そう簡単に音を上げることはできない。
「階段だ……!」
第二階層はこれで終わりなのだろう、下へと降りる階段が見えてきた。折れそうになる足を叱咤して、ちからの限りスピードを上げる。
もつれた足で階段を降りきることができたのは奇跡だった。しかしゾンビ犬もついてきたらしく、まだ背後の足音が消えない。
もう南野の足も限界に近づいていた。メルランスもさっきから時折血を吐くばかりでなにも言わない。
いっそ迎撃するか? しかしなんの武器もない自分に何ができる?
己の無力さに歯噛みしながらも、南野には走ることしかできない。これではたとえ『サバラの泉』にたどり着いたとしても犬の餌だ。
絶望にとらわれそうになった南野の前に、さらなる困難が顔を出した。
暗がりからのそりと現れたのは、豚のような頭をした小さな人型のモンスターだった。粗末な斧を持ち、ぼろきれをまとっている。ゴブリンというやつだろうか、ゲームで見たことがあった。
ゴブリンはぶひ、と鳴きながらこちらを威嚇している。ゾンビ犬とゴブリン、完全に挟み撃ちの形だ。これで退路は完全に断たれた。
「……くっ……!」
苦い顔をして立ち止まる。すでに息は上がりきり、体力は残り少ない。
「……にげて」
「メルランスさん?」
久方ぶりに声を出したメルランスは、ちからなくそう言った。
「……あたしを置いて逃げれば、なんとか……追いつかれないかもしれない……」
「バカ言わないでください……!」
「……ハッ……あんたに、なにが、できるって……いうの?」
「……やってやりますよ」
「…………」
「ああもう、やってやりますよ!!」
こうなればもうヤケクソだった。メルランスを下ろした南野は、彼女から短剣を借り、握りしめる。鉄の塊は想像以上に重く、冷たく、硬かった。構えなんてものもなく、まるで古い映画のチンピラのように腰だめに短剣を持つ。
「……やってやる、ああ、やってやるとも!! 俺にだってできるんだ!! やってやる、やってやる……! さあ来い!!」
剣先が震えている。刃物なんて包丁くらいしか持ったことがない。今からこれでモンスターをやっつけるのだ。やっつけてやらなければならないのだ。
まず飛びかかってきたのはゾンビ犬の方だった。粘液まみれの長い舌を垂れ、大きくあぎとを開けて襲い掛かってくる。
逃げ出したくなる衝動に駆られながらも、南野はぶんぶんと短剣を振り回した。ざく、と嫌な感触がして、運よく刃物に当たったゾンビ犬が腹から血を流しながら後ずさる。前足で床を掻きながら、二撃目の機会をうかがっている。
ゴブリンの方はこちらの様子をうかがっているようだった。犬とは違って多少の知能はあるらしい。
犬が疾駆する。右に左に跳ねていて軌道がわからない。南野が目を白黒させている間に、ゾンビ犬の前足が南野を押し倒した。
背中から床に叩きつけられて、肺の中の空気が絞り出される。ぐるぐるとうなるゾンビ犬の生えそろった牙がすぐ間近にあった。よだれがぽたりと頬に垂れ、腐った玉ねぎのような息がかかる。
万事休すだ。ここで犬に食い殺されて、終わり。シンプルで残酷な結末だ。
しかし、ここで自分が倒れてしまえば、メルランスはどうなる? 同じように犬の腹の中に納まるのだろうか? それとも出血で死ぬ方が先か?
彼女は命を懸けてくれた。だとしたら、自分はそれに報いなくてはならない。大切なものを差し出してもらったら、それなりの対価を払う。そうでなくては、『大切なもの』の価値を貶めてしまうことになる。
やってやる、やってやるとも……!
南野はかろうじて取り落とさなかった短剣を握りしめ、
「うわああああああ!!」
裏返った声を上げて、その剣先を思い切りゾンビ犬の腹に突き立てた。
ず、と肉やはらわたを貫く嫌な感触があった。ゾンビ犬は低いうめき声をあげてひっくり返る。南野はその上にまたがって、また短剣を振り上げた。
「このっ……! この……!!」
何度も何度も、短剣を腹に突き立てる。腐った血が飛び散り、臓物がこぼれた。ゾンビ犬が痙攣して血を吐きながら動かなくなっても、南野は短剣を振り下ろし続けた。
……ようやく南野が動きを止めたころには、ゾンビ犬は刺し傷だらけになっていた。もう微動だにせず、はらわたをまき散らして血の海に沈んでいる。南野自身も血まみれになっていた。
素人が殺人を犯すときは、こうして執拗に被害者を刺すのだという。今その心理が理解できた。理解できたところで、自分が何かのいのちを積極的に奪ったのだという事実がのしかかってくる。モンスターといえど、いのちはいのちだ。
「……う、」
たまらず、南野は嘔吐した。ろくに食べていないので出るのは胃液だけだったが、それでもダンジョンの床に吐しゃ物をぶちまけた。泣いてえづきながら、しばらく吐き続ける。
その地獄のような有り様を見ていたゴブリンは、ぴぎぃ!と声を上げて引き返していった。なにか異質極まりないものを感じ取ったのだろう。連戦はとてもじゃないが無理だったので僥倖だった。
胃の中のものをあらかた吐き出し終えると、南野はようやく我に返った。ふらふらと短剣を拾い、メルランスの鞘に戻すと、彼女を肩に担いで再び歩き出す。
「……いかなきゃ……」
目の前の光球が揺らめいている。がっくりとうつむいているメルランスの意識が途切れかかっているのだろう。急がなければ。