№04・サバラの泉・2
「『第二十八楽章の音色よ。創生神ファルマントの加護の元、小人のたいまつに明かりをともす旋律を解き放て』」
印を切りつつ静かに唱えたメルランスは、ふぅ、と目の前の闇に息吹を吹き込んだ。すると、ぼんやりと赤い炎の球のようなものが浮かぶ。照明の魔法だろうか、便利なものだと嘆息する南野。
腰の鞘から短剣を抜いき、メルランスは慎重な足取りで歩き始める。古びた石造りのダンジョンはそこかしこから水がしたたり落ちていて、その足元には苔がむしていた。かつん、かつん、一歩歩くごとに薄闇に足音が反響する。
「……大丈夫ですよね? 急に物陰からわー!ってなにか出てきたりしないですよね?」
「あんたねえ、ビビりすぎ。こんな低階層にはほとんどいないよ。いたとしても弱っちいのだけ」
後ろから子供のようにメルランスの服のすそをつかんでおそるおそる歩く南野に、彼女は呆れた声をかけた。そうは言っても、南野にとってはゾンビ射殺ゲームのフィールドを歩いているようにしか感じられない。
時折壁や床を短剣の先で叩きながら、メルランスは危うげもなく進んだ。もうこの階層は終わりなのか、下へと続く階段が現れた。
「ここから先はちょっと気を引き締めていかないとね。『サバラの泉』は地下第三階層だから、そう遠くはないけど……単独攻略、っていうか足手まとい付きの攻略だから」
「うう、ご迷惑をおかけします……」
階段を下りながら申し訳なさそうに頭を下げる。
まっすぐに伸びる廊下を進んでいると、奥の暗がりから小さい何かが集団で飛んできた。キキキキ!と鳴き声を上げている。
「うひっ!?」
「落ち着いて。ただの吸血蝙蝠の群れだよ」
飛びのこうとする南野を手で制して、メルランスは再び印を切った。よく見ると指先が青白く光っていて、呼吸を整えているのか、ふ、ふ、と短い息が聞こえる。
「『第百二十九楽章の音色よ! 創生神ファルマントの加護の元、萌ゆる炎の輝きの旋律を解き放て!』」
腕を振ると、握りこぶしほどの大きさの火球が飛んで行った。吸血蝙蝠の群れの真ん中に着弾すると、小さく爆ぜて炎を巻き起こす。蝙蝠たちは断末魔を上げてぼろぼろと床の上に焼け落ちた。
「……はぁー、やっぱり魔法って心強いですね……」
「そう? 訓練すれば誰だって使えるし、この短剣と同じ道具だよ。当たり前の存在」
何でもない風に言うメルランスに、南野は尊敬のまなざしを送った。
「さすが冒険者……! よ、よし! この調子でどんどん行きましょう!」
先ほどまでのビビリの反動か、南野は調子づいた。ついぐいぐいと先行してしまう。
「あっ、バカ! その床は……!」
メルランスが声を上げるよりも、南野が床を踏む方が早かった。がこん、と何かが作動する音がする。
「えっ?」
振り返ろうとした瞬間、背中を強く押された。たまらず前方に倒れ込む。
「いたたた……なにするんですか、メルランスさ、ん……」
言いかけて、絶句する。
壁から飛び出したいくつもの槍。薄暗がりにひたひたとこだまする血が滴る音。
メルランスは、槍のひとつに胸を貫かれていた。磔のような状態で、かふ、と血を吐き、苦し気に眉根を寄せている。
「メルランスさん!!」
慌てて駆け寄ると、壁の仕掛けは引っ込んでいって、どさ、とメルランスのからだが床に倒れ伏した。
助け起こし、からだを揺さぶる。茫洋としたまなざしでこちらを見上げるメルランスは、口の端から血を流しながらつぶやいた。
「……迂闊……この、あたしとしたことが……こんな低層階の罠に……かふっ」
「しゃべらないでください! ええと、止血、止血を……!」
伸ばした手は血で真っ赤に染まっている。床にもどんどん血だまりができていく。向こうの世界では、普通に生活していたらあり得ない量の出血だ。
そうだ、ここは普通の世界じゃない。血の赤に教えられて、改めてぞっとする。
なにか布のようなものは、と探していると、メルランスがまたがふがふと血を吐いた。
「……肺に、血がたまってる……普通に止血したんじゃ、ダメ……」
「そんな! じゃあ、どうすれば!?」
「……高度な回復魔法が、使えれば、何とかなるけど……あたしは使えないし……こんな状態じゃ、使えたって、集中できない……」
どうすれば、どうすればいい? 混乱しながらも、南野は必死に考えた。
……あるじゃないか、傷を癒す手段が。
「メルランスさん、少しの間我慢してくださいね」
絶えず血を吐き続けるメルランスを肩に担いで、南野は歩き出した。思った以上に軽い。血を失ったせいだろうか?
「……げふっ……あんた、なにを……?」
「『サバラの泉』までたどり着けば、どんな傷だって治せます! それまでの間、少しの辛抱ですよ」
「……あんたひとりで、第三階層まで行くつもり……?」
「他に方法はありません!」
「……無理、だよ……第二階層はまだしも……第三階層に入ったらそれなりのモンスターも出てくるし……罠だって……」
「このままじゃふたりとも野垂れ死にです! なにがなんでも第三階層までたどり着かなきゃ!」
「……ふん、勝手にしなよ……」
それっきり、メルランスは何も言わなくなった。南野の安物のスーツにはべったりと血がしみ込んでいる。今まで生きてきて見たこともないほどの血だ。
メルランスは南野をかばってこうなった。自分のせいだ。だとしたら、自分がなんとかしなければ。捨て置くことなどできない。