№03・バハムートの鱗・中
海を行くガレー船のようにゆったりと空を泳ぐバハムートを見上げ、南野は途方に暮れた。
「どうすりゃいいんだ……!」
「魔王に比べればまだマシな相手だと思うけど……」
「だって言葉通じないんですよ!?」
「あーーーーーーーもう!!」
南野の及び腰にとうとうメルランスがキレた。胸倉をつかんでがくがく揺さぶってくる。
「魔王を相手にしてたときの度胸はどうしたの!?」
「だって、言葉通じたし……!」
「あたしにとってはどっちも同じ! あたしが飛翔魔法であんたを引っ張っていって、ちょっと一枚だけ鱗をもらって撤収! 簡単なことでしょ!?」
「と、飛ぶんですか!?」
「当たり前じゃない!」
「俺、高いところはちょっと……」
「つべこべ言わない! ほら、行くよ!」
言うが早いか、メルランスは呼吸を整えて、複雑な印を切り始めた。
「『第二百八楽章の音色よ! 創生神ファルマントの加護のもと、空を泳ぐがごとき旋律を解き放て!』」
変わった節回しで呪文らしきものを叫ぶと、足元に大小さまざまな魔法陣が青白く浮かび上がる。次の瞬間、メルランスの足が重力の鎖を断ち切り、ふわりとからだが持ち上がった。
「これが、魔法……!」
「感心するのはあとにして。早く行くよ!」
「ちょ、ま、ホント高いところは……!」
怖気づく南野の腕を、メルランスは容赦なく取って急上昇した。ものすごいスピードで空が近づき、地面が遠くなる。足元の感覚がないことのなんと恐ろしいことか。
「うわあああああ!?」
「うるっさい! 見えてきたよ!」
南野は涙目になっているが、メルランスはやる気のようだ。見れば、バハムートの巨体が確実に迫ってきている。きらきらときらめく鱗目すらも目視できる距離だ。
ごうごうとうなる上空の風に吹かれながら、南野はなんとか鱗へ手を伸ばした。
「この巨体だから、鱗一枚はがれたところで髪の毛一本抜かれたくらいの感覚しかない! ちゃちゃっとやって!」
指示を受けて、南野は高さへの恐怖をこらえながら鱗に触れた手にちからを込めた。ぐ、ぐ、と引き抜くと、うちわくらいの大きさの虹色に輝く鱗が剥がれ落ちる。
「逃げるよ!」
バハムートはまとわりついた人間二匹にはまったく気付いていない。メルランスは上空でからだを翻すと、南野の腕を離さずまっすぐ地上へと戻ってきた。
やっと足の裏に地面の硬さを感じると、南野は鱗を抱えたままその場にへたり込む。
「……しぬかとおもった……」
「大げさだよ。それより、お宝は落としてないでしょうね?」
もちろん、と鱗を掲げる。バハムートの鱗は七色にきらめいていた。
それを認めたメルランスは、上出来、とうなずいて南野の腕を引き立たせる。
「獲物が手に入れば長居は無用だよ」
「わかってますよ」
バハムートに見つからないうちにと、二人は『レアアイテム図鑑』に手を置いて目を閉じた。
違和感の後に目を開けると、そこはもといた酒場の一角だった。手の中にはちゃんとバハムートの鱗がある。
「これで今日の仕事は完了?」
「はい。正直生きた心地がしませんでしたが……ありがとうございました」
丁寧に頭を下げると、南野は鱗をポケットに入れようとした。が、大きすぎて入らない。なにか道具袋的なものを用意しなければな、と思っていると、まだメルランスが去らずにその場に立っていた。
「どうしたんですか?」
「……ねえ」
隣のスツールに腰を下ろし、メルランスはやんわりと南野の腕にしなだれかかってきた。確実に『女』を意識するような触れ方に、ついどぎまぎしてしまう。
知っている。これはいつか断り切れずにつれていかれたキャバクラで、女の子が高級なバッグをおねだりするときと同じ手つきだ。
メルランスは妖しく微笑みながら、南野の手をゆっくりと握った。
「その『バハムートの鱗』、あたしたちで売っちゃわない?」
「え……それは……」
言いよどむ南野に、かぶせるように言葉を継ぐメルランス。
「『緑の魔女』に渡したって銅貨一枚の得にもならないよ。落としたってことにして、また取りに行けばいいの。バハムートはこの世に一匹しかいないから国で保護されてるの。そう簡単には捕まらない。けど、その『レアアイテム図鑑』があれば……」
「ちょ、それって密漁じゃないですか!」
「誰でもやってることだよ。見たでしょ、ところどころ鱗がはがれてるの。バハムートに遭遇した運のいい冒険者がはぎとったんだ。とにかくどこにいるかわからないからね、鱗一枚で金貨50枚にはなる」
「金貨50枚……」
「あんただって、そろそろお金が欲しいところでしょ? いつまでも酒場の雑用で物置小屋に置いてもらうわけ? だから……ね?」
握った手にちからがこもる。しかしキャバ嬢と決定的に違うのは、短剣を握るごつごつとした手であるということだ。
どんな修羅場もひとりで生き抜いてきた、とその手が語っていた。
たしかに、『緑の魔女』の言うがままにレアアイテムを集めても、南野が元の世界に帰れるだけだ。いや、それすらもあやふやだった。ならば、この世界で生きていくためにお金を稼がなければならない。メルランスの言う通り、いつまでも酒場の厄介になっているわけにはいかないのだ。
――しかし、南野はメルランスの手をやんわりと押しのけた。少し不機嫌そうに目を細める彼女に、南野は真っ向から向き合って告げる。
「いやです」
「……なんで? お金欲しくないの?」
「たしかにお金は欲しいです。ですが、コレクションというのはお金だけですべて集められるものじゃないんです。運と……縁、っていうんですかね。そういうタイミングが重なって、俺の手の中に集まってくるんです」
目を丸くするメルランスの碧をまっすぐに見つめて、南野は語り続ける。
「俺はね、そういう『縁』をなにより大事に思ってるんです。それはお金には決して換えられない。そうやって手に入れたコレクションを、俺は手放したくないんです」
「…………」
口をつぐむメルランスの手を、今度は南野が強く握り返した。
「あなたと出会ったのだって、『縁』です。運命だなんだというのは俺は信じませんが、たしかに俺たちは出会うべくして出会った。だから、あなたのことだって手放すつもりはない……それに、これは信用の問題なんです」
「……信用?」
「そう。『緑の魔女』は俺を信用してこの仕事を託してくれました。信用というのは失くすのは簡単ですが、回復するのはとても難しい。そして、信用がなければだれも俺の言葉には耳を貸してくれない。助けてくれない。だから、というわけじゃないですけど、俺は信用を失くすようなことはしたくないんです。俺を信用してくれた『緑の魔女』に答えたいんです」
「……変なやつ」
「はは、それがジャパニーズ・ビジネスマンのさがなんですよ。それに、あなただって、簡単に裏切るような人間と仕事をするのはいやでしょう? 信用というのは連鎖的になくなったりつながったりしますからね」
呆気に取られるメルランスを前に、南野は笑って言った。
「ここであなたの提案に乗ったら、『ああ、こいつは金のためなら平気で裏切るような人間なんだな』って思うでしょう。そして、俺を信用できなくなる。そうやって仕事をするの、いやなんです。だから、俺はあなたの提案には乗らない」
まっすぐにメルランスの目を見て、南野は言葉を切った。彼女は南野を値踏みするように目をすがめてこっちを見つめ返してくる。