№03・バハムートの鱗・上
「おっはよー」
翌日、よく眠れたらしいメルランスが明るい声で酒場にやってきた。
「……おはようございます」
対して南野はあまり眠れなかったため、目の下にくまができていた。声にも覇気がない。
「なに、どうしたの? 景気悪い顔しちゃって」
すっかり打ち解けた様子のメルランスが南野の肩を叩く。
「……いえ、物置部屋の寝心地が最悪で……」
「なぁんだ、そんなこと。冒険者はいつどこでもぐっすり眠れる才能が必要不可欠だよ!」
とことん甘やかすつもりはないらしい。ばーん!と背中を叩かれて、南野は思わずモップを片手につんのめった。
「で、今日も雑用なわけ?」
「泊めてもらってますからね」
掃除が終わったら芋の皮むきと皿洗いが待っている。このままこの酒場に就職してしまいそうな勢いだ。しかし寝床と食事があるだけマシだと思った方がいい。
床をモップ掛けしていると、浮ついた調子のメルランスがカウンターから声をかけてきた。
「で、今日はどんなレアアイテムを集めに行くの?」
「そうですね……」
一旦モップをカウンターに立てかけて、南野は『レアアイテム図鑑』を開いた。
昨日集めた『魔王の名刺』の次のページをめくると、そこにぼんやりと図解と説明文が浮かび上がってくる。
「『バハムートの鱗』……?」
巨大な魚のような、竜のような生き物の図解の下には、『世界を支えるという巨獣、バハムートの鱗は、様々な魔力特性を付与する剣や鎧の材料となる』と書かれていた。
「バハムート!?」
メルランスがひっくり返った声を上げる。つられてびっくりした南野は、ついモップを倒してしまった。
「そんなに難しい相手なんですか?」
尋ねると、メルランスはぶんぶんと首を縦に振る。
「相手は神話級のモンスターだよ。ひとに危害を加えることはめったにないけど、少なくとも人間のひとりやふたりくらい一撃で殺せる」
「話は……通じないですよね」
「モンスターの言葉がわかればレイジーデイジー賞ものだよ」
そのレイジーデイジー賞がなんなのかはわからなかったが、とにかく今はバハムートだ。改めて図録を見ると、比較的穏やかそうなモンスターに見えてくる。
「凶暴な相手でないのなら、鱗くらいならこっそりといただいて逃げれば……」
「そんな生易しい相手じゃないからね」
「うっ……!」
熟練の冒険者であるメルランスが言うのだ、生半可な気持ちで挑んでは本当に殺されてしまうだろう。この世界で死んでしまって元の世界の自分がどうなるのかはわからないが、きっと死ぬのは痛い。
「けど、集めなきゃ……」
「まあ、そうなるよね」
すでに南野の蒐集狂としての性質を理解しかけているのか、メルランスはげんなりとため息をついた。
「たしかに、鱗一枚くらいならわからないかもしれない。さっと行って、さっと取って、さっと帰ってくる。作戦はこれでいい?」
「そんな杜撰な作戦、聞いたことないです……」
「とにかく! 戦闘は絶対に避けること! あんたはなんにもできないんだから、無理しない!」
「はい……」
ずばっと無力を指摘されて、南野は気弱げに肩を落とした。
それから雑用を終えて、昼頃にはふたりはカウンターで『レアアイテム図鑑』を囲んでいた。
「いい? 気付かれないようにそぅーっとだよ?」
「わかってます」
この『レアアイテム図鑑』でバハムートのいるところまで転送されるはずだ。エンカウントは一瞬だろう。そこが勝負だ。
南野とメルランスは図鑑に手を置いて目を閉じた。
再び目を開けると、そこは草木一本もない岩肌がむき出しのごつごつとした荒野だった。
「ここに……?」
バハムートがいるのだろうか。辺りを見回してもそれらしいモンスターはいない。
ふと、日が陰った。雲でも出てきたのだろうかと空を見上げる。
――それは、雲ではないが、雲くらいの大きさをしていた。
低く空を飛ぶのは、図録にあった通りの、魚のような竜のような姿の生き物だ。ただし、とにかく巨大だった。子供のころに見た飛行船より大きい。まさに空を覆うほどの大きさだ。
ずらりと並んだ牙の隙間から、ふしゅう、と息をこぼすバハムート。それは小さな嵐を巻き起こし、地上の砂塵を巻き上げる。
縦に三つずつ並んだ真っ赤な瞳が、ぎらり、と陽光を反射してきらめいた。
「…………」
放心した状態で空を見上げていた南野は、次の瞬間岩陰にメルランスを引っ張り込んですごい勢いでまくしたてた。
「無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理!!」
ぶんぶか首を横に振ると、すがるようなまなざしでメルランスを見つめる。
「なんですかあのでっかいの!? しかも空飛んでますよ!? めちゃくちゃいかついし! あんなのから鱗取るなんて無理ですよ!」
「なにさ、神話級の難しい相手だって言ったでしょ?」
「それにしたって大きすぎますよ! しかも強いんでしょ!?」
「強いね」
「火とか吐くんでしょ!?」
「火は吐かないけど……」
「吐かないんですか!?」
「レーザーブレスはがんがん吐いてくるね」
「レーザーブレス……!」
とにかく強いことはわかった。理解した後で絶望する。