三話 神撃の③
このようなこと、考えもしなかった。
死んだその後で、天国か地獄の二択が待っていた。
そのようなことは死者に訊ねず、諭さず、神様の独断で決めといて欲しかったな。
こんな場面に登場して話せる神様がいる。
それなら死相でも察知して、死ぬ前に現れて助けとなって欲しかった。
死んだら、家族は悲嘆に暮れて悲しむだろう。
それは考えたが、この身は火葬場で灰になる。
ただ、それだけで終わると普通に思っていたから。
だから悔しいんだ。……死ぬことを選択することが。
だから切ないんだ。……多くの未練を残したまま、この結果に至ったことが。
胸の奥がキュッと苦しい。
絶え間なく患う慢性の渇きが、悔し涙さえ枯渇させる。
眼の奥に深々と降り積もる雪景色。
晴れ間を知らない極寒の凍土に閉ざされたあの日。
友を思う気持ちは霜焼けで麻痺してしまった。
もう何も取り戻せない。
巻き戻したくもない歴史に胸が潰れる思いだった。
不屈再燃のエネルギーは、貪欲な吸血鬼に吸い尽くされた。
どこにも引き返せない。
悲痛の連鎖はいつしか黄金の歯車を腐食させていた。
もう誰の心とも一切かみ合わない。
いつしか誰かに愛されたいという願望は、僕の未来記から儚く去った。
一手戻して悪夢から脱却?
しかしそれは完全なる蘇生の一手ではない。
辛い現実に再来すれば、繰り返しの恐怖は牙を砥ぎはじめ、更なる悪夢がすぐさま構築される。
ほんとうに哀れだ。
さみしくて、とても虚しいんだ。弱さとは悪であり、犯罪であるかの様だ。
生きて苦しんでいたときよりもその事を痛感する。
この事がたとえ夢だったとして、目覚めてみたら赤ん坊だったとしても、これまでの恐怖をうまく回避して生きるには、あの街から遠ざからなくてはダメなんだ。
だけど、それは夜逃げという選択になるだけだ。
両親にも辛い過去があって引っ越しを無理強いすることができなかった。
縛られた心があった。
奪われた自由があった。
囚われた夢があった。
引き裂かれた愛があった。
だが死後もそれだけは変わらず残る。変わらず引き継ぐのだ。運命とは皮肉なもので、理不尽な事からだけは逃れられないのだ。そして──。
死を求めた瞬間にフッと自分の中に舞い戻るのだ。
求めたなら手にせよ、と。
──赤く染まるものが背中を押すのだ。
死に向かい気持ちが詰めて行くにつれて、もうだれも自分を侵せないという絶対的な心理が見方をしてくれる様になっていく。
「ふっふふ……死は、死こそが無敵なのだ」自分に重なる何者かの声が、確かに背後で揺らめいていた。
「──そうだね、もう普通の人の神経じゃないね。
ぶっ壊れていく人間の哀れな末路に至ったのだろうね」
──ずいぶん前から、僕の部屋には鏡がない。
こんな悲嘆にくれた自分の姿を映したくなかった。
醜い自分を映し出す鏡、見つけ出す鏡、あざ笑う鏡。
過去の影を映す憎き存在の鏡。
影であろうとなかろうと、その物質の存在は過去よりも速く消滅を願った。
ふいに拳に衝撃が走った。赤いものが滲んで床に滴り落ちる。
幻と知っていても鏡に打ち付ける、我が怒りの鉄拳。
只々、惨めな自分がいる事を嫌という程知っている。
鏡に映る醜い自分など二度と見たくない。
僕は自分を映すものが、胸の苦痛の度が増すたびに嫌いになっていった。
雨の日と雨上がりの町も、出歩きたくなかった。
傘をさして必死に弱い自分を守り、身を縮める姿が空しいほど惨めに思えて。
水溜まりに出くわすのも嫌いだった。
いつもうつむき加減だった自分の顔を不意に見るのが嫌だった。
もはや誰かが嫌だと言うよりも、自分を見るのが嫌になって死を選んだに違いない。
ひとりでいる時、本来の苦しみ以上に感傷が幾重にもにじみ出て来て、泣き濡れて、涙なんて何の解決にもならないものと知ってもなお、泣き濡れて。そんな苦しい胸の内に心から明かりを灯そうとしてくれる家族の前では、平静を装っていた。
しかし、この苦しみを僕らにもたらしている張本人の悪魔たちの前では、大きく泣き崩れることもせず、なぜか笑っていた。
必死に誰かと繋がりを保つためにやせ我慢をして平静を装うばかりか、奴らに作り笑顔を見せて。
その作り笑顔のひとつでも、両親の前で捧げることができたならば……。
「ぐううっ……」
はっ! それを思っただけで目頭が熱くなり、涙が浮かんできた。
洪水のようにあっという間に瞳から溢れ出してきて堪えることもできず、手で拭うことすら間に合わなかった。
なぜ、こんなに激しく感情的に⁉
僕は死人じゃないのか?
生死を問う場面を思い返そうとした途端、痛みで破損した心が修復されて再び赤い血が通い始めたように、感情を取り戻す自分がそこにいた。
どうやら僕は十五歳で自殺に及んで、死んでしまったらしい。
これまで一度も死んでみた経験がないので……、そんなこと無いはずなのだけど。
気付くと目の前に死神を名乗る人が居て、しかも、意識がまだはっきりとしないせいもあって、さほどの恐怖心もなく、彼の言うことに静かに耳を傾けている自分がいた。
怖がりのはずなんだけど。
目の前の彼は、見た感じ普通の人間で、柔らかい声と涼しそうな眼差しが、僕の警戒心を甘い水飴のように溶かしてくれているのを感じていた。
『……自殺をすると天国には、なかなか行けないことを』
え!?
深く考え事をしていた訳ではない。少し振り返っていただけだ。
『──かと言って、即地獄行きと言う訳でもないのだ』
それは、どういう意味ですか。
とにかく僕はもう死んでいると言うのに。
いまさら天国へ送るか地獄へ送るかで死神さんを悩ませているのかな?
もしも、なにかしらの理由でまだ人生を進められるなら、少しのわがままを言っても許してもらえないだろうか。そんな欲望がかすかに残っているのも現実だ。
ずっと欲しい能力があったんだ。
神様なら何とかしてほしい。
……これが人間の欲であり、未練というものであろうか。
いじめと言うキーワードで、大体の事には身に覚えがある事を思い出してきた所だった。
どうせ、「生きていた時も生き地獄だった」のだから。
「はっきり言って特殊な力でもない限り、どこへ行っても二の舞い、おしまい、店じまいだ」
僕は一体、これからどこへ送られるのだろう。
この期に及んで、夢みたいな奇跡を本当に期待するほど、子供ではない。
弱音が様々なことを言わせるだけだ。負け犬の遠吠えだよ、死神さん。
さあ、この茶番をとっとと終わらせて。
死神さんと僕のフレンド登録は必要ありませんからね。
これ以上のイベントムービーを挿入させないで下さい。
あなたに「ありがとう。そしてさようなら」と言って、格好良く去りたい。
「死神さん、生き返すとか絶対なしですよ。僕はもう、終わった人なんだ」
このまま死なせてください。帰りたくない。戻るのも行くのも沢山だ。
消滅を、どうか完全消滅を。抹消を、削除を。その願いが最後の於業となる。
それで良いんだ。これ以上の人付き合いは、弱り目に祟り目だから。
格好悪いんだ。