7
「やはり、ここだな…」
イノイはこつこつと乾いた足音を立てながら礼拝堂のなかをゆっくりと歩いた。正面には磨き上げられた十字架が架かっている。荘厳なステンドグラスが陽光を様々な色に染めて輝いていた。
「随分と巧妙に隠されていましたね。それにしても礼拝堂のなかとは」
「まさしく神への冒涜だな」
十字架の真下を注意して視てみると、空間が歪んでいる。イノイにはそれが視える。恐らくここが来るハロウィンの日、年に一度の悪魔たちの狂宴へとつながる扉なのだろう。
「面白い学校だな、ここは」
使役していた悪魔がこの学校に逃げ込んだ時には、忍び込んで捕まえればよいと思っていた。けれど、異様に警備が厳重だった。顔認証にIDカード、そういった類なら魔術でいくらでもごまかせそうなものだが、番犬まで飼っていたのには舌を巻いた。犬という生き物は鼻がきく。人間を鮮やかに騙すような悪魔たちにとって、最も苦戦するのが飼いならされた動物だ。
だから諦めて学生として潜入することにした。書類を揃えたり受験するのは少々面倒だったが、結果的には大正解だった。潜入してみると、まれにみる巨大な悪魔の巣の気配がしたからだ。
「聖人を崇めておきながら、悪魔の寝床となっているとは」
イノイはくくっ…と嘲るように笑う。
「崇拝を集める場所には悪魔が寄ります。美しい教義を語りながら、内には人間のエゴや欲望が渦巻くからでしょう。特に若い人間はエネルギーが強い。過度の抑圧が生み出すものは悪魔たちにとっては上等な獲物になります」
「この学園は上等な獲物に溢れているということか。そのうえ偶然か必然か、魔女の子までいる」
イノイはリンネを思い浮かべた。赤い髪に新緑のような色あいの瞳の、おどおどした小女。もうじき死ぬ予定の彼女。
「もちろん、偶然などありえません。かつて魔女狩りが公然と行われたように、常に魔女は悪魔たちに狙われている。よい獲物であり、宿敵でもあるからです。おかげで今や魔女は伝承でしかお目にかかれない。あのリンネという少女、気になりますか?」
シーリーの言葉に、イノイは首を振った。
「関わる気はない。どうせ近々死ぬ」
「その死が悪魔に捧げられる予定であっても?」
「逐一干渉するほど俺は暇ではないし、無謀でもない」
他人の死の訪れをいたずらに狂わせるつもりはなかった。人はみないずれは死ぬのだから。
「魔女の子は悪魔たちにとっては、それこそ上等な贄になります。しかもあのように若い女の、まっすぐな魂であれば垂涎もの。幾通りにも使いようがあるでしょう」
シーリーはうっとりと目を細めた。口元が淫靡に歪む。その表情はリスといえどまさしく悪魔そのもので、イノイは肩に乗るそのリスを振り払ってしまいたい衝動に駆られる。
「何をさせたい。使い魔のくせに、俺を使おうとしやがって」
「まさか、主様を使うなど恐れ多い。ただわたくしは魔女が他の者の手に渡るのがいささか惜しいだけなのですよ」
「知るか」
シーリーの言葉を切り捨てる。悪魔が視える人間に出会ったのは、イノイにとっても初めてのことだった。リンネが貴重な存在だというのは分かる。だが、だからといってなんだというのだろう。悪魔との関わりを極力避けたいと思っている自分に、魔女が必要なわけがない。リスクを冒してまで助けてやる筋合いはない。
「それでは、敵情視察だ。ダイブするぞ」
イノイは手にしていた黒い衣を頭から被ると、空間の歪みに足を踏み入れた。
夢を喰われていた、と気がついたのはいつのことだったのか。
そもそもイノイには両親がいない。古物商を営みながら、裏では悪魔向けの商品を扱っていた祖父は、イノイが10歳の頃に他界してしまっている。嘆いたことはないが、孤独なのは事実だ。一人で寝て、一人で起きる。見ている世界が違いすぎて友人もできない。唯一気兼ねなく話せるのは使い魔のシーリーだけだ。それも契約の範囲内でのことで、イノイの意識がない時には、シーリーは自由だ。だから夢魔に襲われていたことに気がつくのに一年もかかってしまった。
それにしても、とイノイは未だに首を傾げる。
「俺が寝ている間に俺が襲われたら、シーリー、お前だって困るはずなのにな」
夢が食われた場合、本人には欠けたところができる。その隙間に悪魔が住み着く可能性がある。イノイを陥れようとする悪魔がその夢を手にすることもあるだろう。イノイと主従関係にあるシーリーにとっても、死活問題になりかねない。
「それに関してはわたくしの不手際でございました。面目もございません」
この話題になるとシーリーは恭しく謝罪するのみだ。イノイは小さくため息をついて、「まあ、いいよ」と呟く。
このリスが契約の範囲外の時間を使って何かをしているのには気がついているが、詮索する気もない。悪魔の所業なのだから、気分のよくなるようなことをしている訳がない。
「今回の宴で主様の夢が見つかればいいのですが」
「俺も、大きな宴なのだから、夢の欠片くらい見つかればいいと期待しているよ」
シーリーと言葉を交わしながら、イノイは悪魔の巣に降りたつ。凝ったことに人間たちの世界と対に造ってあるようで、イノイの目の前には悪魔に捧げられる人間たちの絵が描かれたステンドグラスが広がっていた。
「悪趣味な…」
イノイの気配を消してくれる黒い布を目深に被り、そろりと礼拝堂から抜け出す。見通しの良い平野のいたるところに赤い沼が点在している。血液のようにどろりとした液体がぽこぽこと泡立っている。恐らく水辺を好む悪魔たちの住処なのだろう。
「隠れられるような場所がないな」
「この巣を作った主の属性によるものでしょう。森を好む悪魔であれば、森を作るでしょうから」
「厄介なことだ。それに想像より大きい」
地平線へ目を向けると、浮かんでいる城に気づいた。霞がかっていてよく見えないが、あれは誰の居城だろうか。なるほど城主が関わった宴なのであれば、それなりの規模にもなるだろうと納得する。
「あれは第4層の城ですね。城主は水属性の悪魔だったかと」
悪魔の世界には城主たちが君臨している。城主たちは第6層から第1層まで存在しており、居城と大勢の配下を有する。当然其処ら辺の悪魔たちとは段違いで力も強い。イノイとしては最も関わりたくのない相手でもある。
「どうしますか。今回は見合わせましょうか。危険も大きいのでは?」
眉を潜めるイノイの様子を見て、シーリーが尋ねる。
「いや、宴に紛れて探し物をするくらいなら、なんの問題もないだろう」
―――ギイイ
突如、礼拝堂のドアが開いた。イノイは慌てて身を潜ませた。
ゆっくりとした歩調でドアから出てきたのは、猫背の男だった。太った腹に二重あご。襟元まで詰めてあるシャツに白いコック帽。
「あれは―――」
学園で見かけたことのある男だった。