六十七、冬の禊
神殿の前は、迚も静かだった。夕刻、綾が祈りを終えるまで。
「亜耶、生まれた」
階を下りて来た綾が、短くそう告げた。澪は、と聞くと無事だという。
「月長石の勾玉を持ってる。もう直ぐ水鏡で、知らせが有るよ」
まさか、大蛇まで禊に赴くとはね。そう言って綾は笑った。巫王も大蛇も酷く体を冷やした様で、大龍彦の熾した火に当たっている。見かねた亜耶が異世火で乾かそうとしたら、綾が止めたのだ。無茶をした罰だと云う。
「亜耶以外の巫覡が冬に禊をしない理由が、やっと分かったぜ…」
人の身になって初めて感じる寒さが、大蛇の体力を奪って居る様だ。巫王は、言葉も無くがたがたと震えて居る。
「三人とも、もう水鏡の前に行って温まりなよ。澪が産屋から出るのは、夜明け頃だから」
「そう…お父様、大蛇、戻りましょう」
亜耶も冷えたでしょ、と綾が異世火を寄越す。綾の熾す異世火は碧くて、いつも美しい。有り難く受け取った亜耶は、巫王と大蛇を急かして女御館へ戻った。
亜耶の間に入ると、既に水鏡が揺れていた。覗き込めば月葉で、やっと繋がった、と言う。
「時記兄様は?」
一番に知らせを呉れる筈の人の名を挙げると、産屋の前で澪を待って居ると云う。夜も冷えると云うのに、朝まで待つ気なのか。心配になった亜耶だが、月葉は近くで火が焚かれて居るから平気だと言う。
「巫女姫様がお生まれですよ」
「ええ、月長石の勾玉を持って居るそうね」
月葉は、話が早い、と喜んだ。
「時記さまは既に、父としてのご自覚をお持ちの様です」
此れには、巫王が一番嬉しげな顔をした。八反目の様な無自覚な行動は、絶対に無いと確信したからだ。
「良い父になる。卜うまでも無い」
巫王の言葉に、月葉も大きく頷いた。生まれる前から良き父で在られますよ、と。
「名は、何とする」
「気が早いわ、お父様」
澪も未だ、産屋の中なのだし。そう亜耶が咎めると、巫王は少し落ち着いた様だ。初孫だからと急かす物では無い、そう気付いたのだろう。
「時記さまは今、喜びの遣り場にお困りです。亜耶さま方も、お覚悟を」
月葉が笑い乍ら、時記の今を教えて呉れる。あの時記が其処まで感情を昂ぶらせるなど、亜耶は想像もした事が無かった。其れだけ澪や腹の子を愛しんで、幾月かを過ごしたのだ。
「此方からも、祝いの品を贈りたいわ」
「先日届いた婆からの産着にも、澪さまは充分お喜びでしたが…」
「いや、贈る。巫王の名で掻き集められる物なら、何でも贈って見せる」
何を澪と時記が喜ぶか。食べ物は出て来るのだが、子の物となると中々出て来ない。
ふと、大蛇が言った。耳飾りは、早い内に開けて置いた方が良いんじゃ無えか、と。亜耶と澪が耳を凍てつかせてまで開けたのを、覚えて居るのだ。其れには巫王も確かに、と言う。
「月長石の耳飾りを贈るわ。私達より軽い物を。月葉は何か欲しい物は無いの?」
「何故、私ですか」
「こんなに真耶佳と澪に尽くして呉れて居るのよ、機会が有れば贈りたいじゃない」
亜耶は大真面目に言ったのに、月葉はふふ、と笑った。
「月葉…」
「いいえ、亜耶さまらしいと思いまして」
悪意は無い、と強調し乍ら謝られる。其れから月葉は少し考え込んで、階の向かいに置く大きな鏡が欲しい、と言った。
其れは禍事除けの意味も有り、侵入者の来訪を告げる物でも有る。此度の事に、責任を感じているのだ。
「では、其れは宮への贈り物よ。月葉の物、考えて置いてね」
もう直ぐ大王が来られるんでしょう、と亜耶は会話を切ろうとした。すると月葉が亜耶さま、と止める。
「亜耶さま、お許し下さるのならば私も、綾様の鱗が欲しいです」
「分かった、綾に頼んで置くわ。真耶佳が子を生んだ時にも聞くから、其の時までに別の物も考えて置いてね」
「お気遣いを、頂きすぎです…」
「月葉が居無ければ、今頃宮はこんなに纏まって居無いわ。功績の証よ」
月葉は其れを聞いて、深々と亜耶に頭を下げた。珍しく目元に、光る物が見えた気がしたが、月葉は直ぐ其れを隠す。
「では、いつもと違うお出迎えだろうけど…」
「澪さまの代わりを、務めさせてさせて頂きます」
言って礼をすると、月葉は階の頂へと向かって行った。




