六十四、宮の閂
澪は、朝から腹に違和感を抱えていた。奥が引き絞れられる様に、偶に痛い。時記には訴えて有ったが、未だ生まれる時では無いと言われた。
湯殿の端女達に、相談しようか如何しようか。迷い乍ら、階の方に行こうとした時。
「澪、避けて!」
「澪さま、避けて下さい!」
水鏡と月葉の両方から、急いた声が掛かる。頭が付いて行かない澪は、後ろから誰かに引き倒されて抱き留められた。視野の隅に映った赤い脚結で時記と分かったが、何故。
「ひっ…」
目の前を見ると、血に濡れた槍がぎりぎりの所で澪に向けられて居た。手元から見上げていけば、地味な顔にけばけばしい化粧をした女が澪に槍を向けて居る。澪が不思議な目で女を見て、其処からは早かった。
時記が素早く刃の元を取って半周回し、持ち主から槍を奪い取る。そして澪を丁寧に床に置くと、槍を突き付けた女に向き直ったのだ。形勢逆転は、一瞬だった。
「扱いに慣れて居無いね。貴女は大王の何?」
時記の声には怒りが溢れて居て、澪でさえ背筋が寒くなった。
「み、つ、き…」
月葉の声で、人の名らしい物が呟かれる。女がびくりと身を震わせた。
「望月姫と云うのですね。御魂に名が刻まれて居ります」
「そう、望月姫。私の妹に何をする気だった?」
槍は、時記の手の中。今度は逆に、望月姫の喉元に突き付けられる。
「…そちらは真耶佳姫ではないのか」
望月姫は後ろに回った側女らに、後ろから抑えられ乍ら悔しげに呟いた。真耶佳と澪を違える。亜耶の言っていたのは、此の事だったか。
「舎人を傷付けて、閂を開けさせたんだね」
澪にも、側女達が駆け寄って来る。お怪我は有りませんか、と各務に聞かれて、頷くのがやっとだ。
「真耶佳姫に目通りを願う」
望月姫は、尚も言う。孕んで尚大王を手放さない不届き者に、会わせろと唾を飛ばして騒いだ。
「目通りを願うにしては、随分物騒な物をお持ちでは無いか」
時記が、更に刃を近付ける。ぐう、と唸りを上げた望月姫に、時記の怒りは収まらない様だ。
「真耶佳ならば、私だわ」
側女達に止められ乍ら、真耶佳が前に出て来た。私の妹姫に何をしようとしたの、と。此方も大いに怒って居る。
「大王を返せ!」
望月姫が、真耶佳に向けて叫んだ。
「通われた事も無いのに返せとは、どう云う意味でしょう?」
月葉が、真耶佳の代わりに答える。神人の力で、望月姫を透かし見て居るのだろう。望月姫は、屈辱に顔を真っ赤にした。
「七年お通いが無ければ、諦めれば良い物を…真耶佳さまを妬むなど」
月葉は、望月姫を鼻で嗤った。愛されない女は、愛されない侭。其れが此処の宿命だ。
「此処で唯一ご自由に動けるのは、暁の王だけよ。私が返す返さないの問題では無いわ」
「お前が呼ばって居るのでは無いか!」
「暁の王は、呼ばれて此処に来た事など無いわ。私から誘った事も無い」
貴女が呼ばっても、お出でにならないのと同じよ。真耶佳の言葉にも、容赦は無い。
「お前が…お前さえ居無ければ…!」
「醜女も結局縊られた。卑万里も勿論同じ道。望月姫は如何済されるのです?」
大豪族の娘だから縊られないと思って、此処に来たのでしょう、と。月葉が冷たく口にする。
大王の子を、母親ごと殺めようと企んだ、其れは罪になる。例え、人違いで澪を殺めたとしても罪の重さは同じ。何も見えなくなって居る望月姫に、月葉が突き付ける現実は厳しい。
望月姫が力を無くし始めた所で、舎人が呼んだらしき近衛の者達が宮に雪崩れ込んで来た。固唾を飲んで見守って居た澪も、漸く力を抜く。
「澪さま!?」
矢張り、腹が痛い。誰かに呼ばれたのに答える事も出来ず、澪は痛みの海に墜ちて行った。




