九、耳飾り
後味が悪くて仕方が無い。澪は良いと云ったけれど、亜耶は自分の嫌う男を宛がったのだ。事を成し遂げたと、神殿に報告し乍らも亜耶の気は晴れない。
八反目の思い込みが、あそこまでとも予想して居なかった。妹姫を見分けずに、啜り泣く娘を乱暴に扱うとも。
「大丈夫だよ、亜耶」
綾が優しく慰めて呉れるが、亜耶は俯いた侭だ。
先が、見えないのだ。仲の良い妹背に成る。子は授かる。けれど、闇見は其処で途切れて仕舞う。
そしてもう一人の兄、時記の顔が断片的に浮かんでは消える。八反目と母を同じくする時記にも、大王に仕えると云う兆しが見えるのだ。
「亜耶、考え過ぎないで。綿津見神様に任せれば大丈夫」
「…こうなる事が、分かって居たの?」
「さあね」
綾が言葉を濁すのは、肯定の合図。其れは幼くから分かって居た。
「澪を、傷付けたわ…」
「珍しいね、そんなに誰かに入れ込むなんて。どんな娘だか、僕も早く会いたいな」
明日の宴まで待てないよ、と綾は無邪気に言う。肉を食らう時以外は割と無表情な綾だが、目が輝いて居る処を見ると本当に早く会いたいのだろう。
「明日、禊を終えたら連れて来る…」
「待ってるよ。じゃあ明日の禊ぎの前に、亜耶には遣る事が有るでしょ?」
す、と衣の囊を指さして、綾が言う。もっと着飾る事。そう云われて、亜耶はやっと耳飾りの事を思い出した。罪悪感で忘れて居たのだ。
付けるのは良いのだが、もう直ぐ膿み易い季節に成る。明日の宴の前に氷室に行って、氷を取ってくるべきか。
「着けて上げる」
遠慮無く囊に手を入れた綾が、耳飾りを摘まみ出した。冷んやりとした綾の手が、亜耶の耳に触れる。
「凍て付かせる。我慢して」
徐々に耳朶の感覚が無くなり、耳飾りのしゃらん、と云う音が耳元で聞こえ出した。
「綾…凍て付くって、いつまで?」
「傷が塞がるまで。膿まない様にね」
「…有り難う」
亜耶の気を逸らす為に、こうして呉れたのだ。其れが分かって居て、礼を言ったのに。
「此れで、氷室に行かなくて済むでしょ?」
まるで方向が外れた返答が、神の御遣いからは反って来た。
玉石とは、出会いの儀が有る。昔、綾が教えて呉れた事だ。清水で浄めて心の拍を合わせるのだと。
だから、禊の前だったのだ。澪にも、明日の禊の折りに簪を持たせなければ。
禊に使う泉には、神山から邑に流れる川と同じ澄んだ水が湧いている。元々川底だったのか玉石も沢山落ちているし、澪の気も晴れるだろう。
「ねえ、澪は柘榴石が好きなの。何かお下がりは無い?」
「其れは、明日のお楽しみ」
「禊の後でも良いの?」
笑って肯いた綾の事だ、浄めて置いて呉れるのだろう。綾には嫉妬もするが、同時に信頼も寄せて居る。任せて置けば大丈夫。先程の綾の言葉を、口の中で転がした。
「おい、もう明かり落とすぞ」
不意に不機嫌そうな大龍彦の声がして、白波の髪が現れた。毎日の如くぶっきらぼうな物言いに、亜耶の心が淡く揺れる。
「…飾ったのか、耳」
「うん…派手?」
「髪型で良く見えねえ。綾みたいに、髪結って遣ろうか?」
そう云えば綾は、いつも綺麗な蝶髷を結って居る。夫に結わせて居たのか。少し妬ましい、けれど申し出は嬉しい。
久し振りに大龍彦に触れられる。そう思って心が躍った。細い櫛を持って、大龍彦が亜耶の肩に触れた、其の時。
ぱちん。
「痛ぇっ!」
「え…?」
「大龍彦…?」
弾いた、確かに。勾玉に弾かれたのだ、只人ならざる大龍彦が。只人に比べれば遙かに被害は小さいが、大龍彦は今まで弾かれた事など一度も無かった。
「嘘、でしょ…?」
哀しくて、亜耶は呟いた。けれど、花の顔を蒼白にしていちばん驚いて居たのは、綾だった。