五十三、時記兄様
去り際の八反目の様子を聞き乍ら、亜耶は眉を顰めた。水鏡の向こう、澪の左手に違和感を感じた為だ。
「時記兄様は、近くに居る?」
「はい、先程湯をお使いになって、今は涼んで居られます」
其れを聞いて、亜耶は少なくとも澪は大丈夫、と感じた。横に座る大蛇は、何故か屋内なのに太刀を帯びて居る。詰まり、そう云う事だ。
突然澪が、痛い、と声を上げた。矢張り、左腕の腕輪を押さえている。慌ただしく時記が走ってきて、澪の左腕に巻き付く黒い靄を祓った。
「亜耶、そちらにも行くかも知れない。兄上だ!」
其の声が届くか届かないかの内に、大蛇が立ち上がり靄に向けて太刀を薙ぐ。靄は二つに割れて消えたが、死に際ですらこの有様。此の後亜耶には、何が起こるか分からない。
八反目の霊は、亜耶が構うと悦ぶのだ。幽閉されてから今までに遣って来た生霊も皆、巫王や大蛇に祓われていた。
「澪、腕輪の下の痣、やっと消えたわよ」
「そう、なのですか?」
もうとっくに消えたと思って居た。澪はそう云うが、あれは八反目の執念だ。其れも、綿津見神の腕輪で抑えねばならない程、強い。
「澪はもう、一の兄様に縛られる必要は無いわ。時記兄様も居るし、大丈夫よ」
亜耶が言うと澪は、有り難う御座います、と泣いた。亜耶が引き起こした事なのに、亜耶は酷く後悔して居るのに。何度も礼を言い、必死で笑う澪を見かねたのか。時記が横から澪の肩を抱く。
いつか忌屋で見た夢は、此れだったのだ。今度こそ澪は、幸せになる。何も知らない娘としてで無く、女として母として。
「そうだ、気になっていたのだけれど」
不意に、時記が声を上げた。澪の腹の子はこんなに父を求めているのに、兄上は何をして居たんだろう、と。
「一の兄様を求めて居無かったのでは無くて?」
「如何だろう…澪、触れるよ」
既に肩を抱いているのに声を掛けると云う事は、腹に触れると言って居るのだろう。案の定、時記が澪の腹に触れるのが見えた。
すると、虹色の輪が澪の腹と時記の手を包む。わあ、と澪が嬉しげな声を上げた。
「父と認めて呉れたね」
時記が、澪に向かって微笑み掛ける。
「はい、確かに女子の声でお父様、と…」
亜耶にも声聞こえて居たが、二人の世界に水を差すのも何だ。亜耶は祝りの紋を、黙って描く。八反目では、こうは行かなかっただろう。
「亜耶さま、私やっと、この子の母になれた気がします」
「綿津見神様の思う澪の幸せが、やっと其の子と噛み合ったのね」
時記兄様のお陰ね、と亜耶が言うと、澪はまた顔を真っ赤にした。亜耶のお陰だよ、と時記には言い返されたが、亜耶は禍事を招いた身だ。
「澪には時記兄様でなければ、ならなかったのよ」
私やお父様を許してね。そう後悔を告げた亜耶に、澪は出会わせて呉れただけで充分だ、と幸せを露わにした。
もう御館には赴かない様釘を刺して、亜耶は優しく微笑んだ。
八反目の亡骸は、目を剥き泡を吹いて、床を掻いた状態で見付かったと月葉から聞いた。見付けたのは、夕餉を持って行った従者。不運だったとしか言いようが無い。
あと十日も待てば、八反目の亡骸は杜に戻るだろう。其の時には、神殿の前で燃やす。其れは事前に決めてあった。
当初は族人達の前で燃やそうかとも話し合われたが、其れは綾と大龍彦に止められた。禍つ霊が、何をしでかすか分からない。そう言われて、巫王も亜耶も得心が行った。
「黒い靄は、あれで終わりじゃねえ」
大蛇が薙いだ時、何も手応えが無かったと言うのだ。詰まりは亡骸に未だ、憑いている。
「そんな物を運ばされる小埜瀬さまも、不憫ね…」
「彼奴、昔っから要領悪いんだよ」
そう云えば、大蛇は小埜瀬の幼い頃も知って居るのだ。巫王に付いて回る、無邪気な子供だったという。
「長老の列に入った途端、物忌みとはね…」
帰って来たら、好きなだけ酒を飲ませて遣ろう。大蛇も其れが良いと言う。亜耶は巫王に進言する事にした。




