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魚の杜の巫女  作者: 楡 依雫
水鏡篇

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五十二、夜離れ

 時記(ときふさ)()った、と亜耶から聞いて四日目の朝。水鏡(みずかがみ)に、不思議な花が浮かんできた。恐らくは白い花なのだろうが、花片が透けているのだ。

(みお)、時記兄様が来たら、其れを持って一緒に一の兄様の所に行きなさい」

 何の花だかは、時記兄様が知って居るから、と亜耶は少し固い口調で言った。

「時記さまが、今日着くのですね…」

「ええ、旅路に問題は無いわ」

 水鏡から拾い上げた花は徐々に乾いて、透けていた花片が白く成っていく。不思議そうにする澪に、亜耶が神山(かむやま)に咲く花だと教えて呉れた。

「此れから湯殿(ゆどの)に行くのですけど…」

「着くのは昼過ぎよ。綺麗にして貰っていらっしゃい」

 意味ありげに笑う亜耶に、澪は顔を真っ赤にする。我乍ら、生娘でも有るまいし、と澪は思った。

「時記兄様が言っていたわ、澪は無垢だって」

 其の通りね。そう言って亜耶はまた笑う。無垢だなんてとんでもない、と澪は思ったが、時記にそう見られて居るのは嬉しくも有った。

「さ、澪。花を水に挿して、行っていらっしゃい」

 会話を透かし見て居るかの様に、丁度良く真耶佳(まやか)にも呼ばれる。澪は慌てて小さな器に花を挿し、着替えを抱えて湯殿に向かった。




 亜耶の言った通り、昼過ぎに宮内(みやうち)(にわか)に騒がしくなった。大王(おおきみ)に伝えて置いたお陰で舎人(とねり)には話が通って居たのだが、一人が馬上で倒れたと云う。

「と、時記さまは…」

 知らせに来た従者(ずさ)に澪が慌てて問うと、無事だよ、と柔らかい声がした。(きざはし)を上がって来る、白い(きぬ)に、赤い脚結(あゆい)。日に透ける茶色い髪と茶色い目は、待ち望んだ時記其の人。

「お待たせ、澪」

 安堵して駆け寄った澪は、其の侭時記に抱き着いて仕舞った。抱き締められ、頭を撫でられてから気付く不躾な自分。良く見れば、時記は大きな荷まで背負っている。しかし時記の胸は離れ難く、恋しい(もり)の匂いがした。

「兄様、一人倒れたとは…」

 澪より少しだけ冷静な真耶佳(まやか)が、時記に聞く。

「ああ、小埜瀬(おのせ)さまだよ。眠らずの術を四日分しか掛けて居無いからね」

 暫くは起きないそうだよ、と時記は澪を離さずに言う。自分は五日分の眠らずの術を受けたから、今宵大王にご挨拶出来るかな、と時記は柔らかく笑った。

「其れで、兄上が頑張っているって云う御館(みたち)は何処?」

 時記の腕の中で、澪が身を固くする。真耶佳は此の宮の向かいよ、と答えてから澪の様子を見た。

「澪、どうする?兄様が一心地着いてからにする?」

 真耶佳が心配して声を掛けると、澪は覚悟は出来て居ます、と小さく震える。

「亜耶さまに、花を貰ったのです。其れを持って行けと…」

 澪が水鏡の横を指さすと、時記はああ、と言った。

「丁度良い花だよね。亜耶も、怒って居たからね」

 ああまで怒らせなければ、もう少し命も持ったのに。時記も巫覡(かんなぎ)らしく、残酷な事を冷静に口にする。時記の腕が緩んだのを合図に、澪は花を取りに行った。




 数日振り、幾月か過ごした御館の階を澪は上がっていた。水に透ける花を手に持って、今は未だ(つま)である人の元へ。

 階から一番近い間に居る八反目(やため)が、厭でも目に入る。相好を崩して、酒を飲んでいるのだろうか。此方を向く気配は無い。

「八反目さま」

 階を上りきった所で、澪は声を掛ける。八反目は直ぐに振り向き、澪、と這い寄って来た。触れられる、すんでの所で澪は真横に避ける。

「何故だ、澪…お前を待って居たのに…」

「もう触れられたく有りません。夜離(よが)れしましょう」

 澪は、自分でも驚く程毅然と言った。そして、亜耶から貰った花を床に置き、八反目の方へ押し出す。

「此れ、は…?」

「見覚えが有りませんか、兄上。昔私から取り上げた、(わか)(ぐさ)ですよ」

 急に現れた時記に、八反目は茫然として居る。八反目が時記から取り上げた物など、数知れない。覚えて居るはずも無かろう、と時記は溜息を吐く。

「別、れ…?」

「ええ、今を以て、澪は私の(いも)です」

 途端に、八反目の形相が一変した。時記は澪を庇って、背に隠す。しかし八反目は何を言う事も出来ず、屈辱を噛み締めて歯軋りして居た。

「其れから、もう一つ」

 八反目の目が、ぎょろりと動いて時記を捉える。此れ以上が有る物か、と歯を食い縛り乍ら言う八反目に、時記は現実を告げた。

「亜耶が、妹背の言挙げをしましたよ。相手は兄上とは違って一途な人です」

 腹の子も、もう四月(よつき)になります。其れを聞いた途端、八反目の全身から力が抜けた。床に頽れ、何故、何故、何故、と繰り返す。

 亜耶は夫など持たぬのでは無かったのか。時記の子が杜を継ぐのでは無かったのか。妄言を繰り返す八反目は、最早正気では無い。

 八反目を残して階を下り乍ら、時記は兄だった者を、澪は夫だった者を見捨てた。

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