五十一、眠らずの術
宴の前に、巫王の御館に集まるのはいつもの事。ただ大蛇は、婆が繕った新品の黒衣を着せられて落ち着かない様子だ。何故か、黒い脚結まで新調されている。亜耶はと云えば、此方も新品の葡萄茶の上衣を着て居る。夜は冷える様に成ったから、と婆の気遣いだ。
夫を見付ければ、巫女姫は色衣を着て良い。其れは杜の、暗黙の了解だ。
時記、大蛇、亜耶と揃った所で、宮の様子が話し合われる。八反目は事問いに遭い、幽閉されたと。澪は宮の乳母の間に住まうを許されて、荷物の運び出しも終わったと聞いた。
ただ、八反目は北の庵に幽閉される筈が、御館で澪を待つの一点張りだと云う。何処までも往生際が悪い、と亜耶は惘れて居た。
「其れでは私は、先ず宮に澪を迎えに行けば良いのだね」
「ええ、澪も一人では怖いと言って居たから、お願い」
「亜耶の婚いを伝えるのは、いつにする?」
「夜離れの話が纏まってからが良いわ」
一の兄様が、澪に何をするか分からないから。そう言って亜耶は、夜離れの直後に八反目の前で妹背の言挙げをして仕舞うべきだと断じた。
そうこうして居る内に、宴が始まった。泰然と座る様に見える大蛇だが、掌に汗を掻いているのを亜耶は知って居る。
舞台の上の者に酒は振る舞われず、小埜瀬は意気消沈している様だ。其れとは関係無しに、族人達は好きなだけ酒を飲む。羨ましげな視線を送る小埜瀬だが、巫王から事のあらましは伝えてある。時記を宮まで先導する、と自ら言い出したそうだ。
「大蛇、もう食事に手を付けて良いわよ」
「ああ…」
普段と違って余り食の進まない大蛇の横で、時記は必死に出された物を食らって居る。四日間走り通しになるのだ、腹は膨らまして置くに超した事は無い。
「大蛇、粥貰っても良い?」
「ああ、良いが…食い過ぎで眠くなって、馬から落ちんなよ?」
「其れは心配無いよ」
時記との間に巫王を挟んで座っていた小埜瀬も、時記を見習って食い始める。宮に着くまで、馬は止められないからだ。
何でも、巫王が借りた早馬二頭と二人に、眠らずの術を掛けるらしい。其れで、眠らずで八日掛かる道程を、更に半分の四日で行くのだ。
亜耶は掛けた事の無い術だが、巫王は幾度か試した事が有ると言う。亜耶が真耶佳の霊眼を開く様な物か、と聞いたら、同じ要領だと返された。ただ、眠らずの術は後日反動が来るらしい。忘れた日数分の眠気に襲われ、数日起きられないと云う。
だから、亜耶は頼んだ。時記には五日間の眠りを忘れさせて呉れと。
宮に着いても、直ぐに眠ってしまうのでは意味が無い。澪との事を片付けてから、眠って欲しいのだ。
「大蛇、此の分なら貴男より時記兄様が旅立った事の方が、邑の噂になるわ」
「其れは、有り難いな」
そう言って少し笑った大蛇は、澪が今度こそ幸せになると良い、と言った。
「して見せる、私が」
時記にも聞こえて居たのだろう、決意に満ちた声で言う。
「澪は時記兄様の元で、幸せになるわ。必ずよ」
亜耶が応じて、時記を後押しした。本当は互いの気持ちが分かっている二人には、必要の無い後押しかも知れない。けれど、亜耶は伝えて欲しかった。遠く杜で、澪の幸せを願って居ると。
宴が捌けると、舞台の上に居た物は皆、白浜に下りた。時記は綾と大龍彦に暫しの別れを告げる為、神殿に祈る。
「時記兄様、気を付けて。小埜瀬さま、お願い致します」
「元気でやれよ」
亜耶と大蛇は、此処で見送る。巫王が灯りを灯した小舟に、二人は乗り込んで行った。




