四十九、無垢
時記があんなに甘い事を言うなんて、と亜耶は驚いて居た。大蛇は時記も大人になった、と喜びを顕わにする。
「でもそうね、澪と玉の緒を結んだのは、最初から時記兄様だったのだわ…」
「澪は産女だけれど、未だ無垢だった。兄上がどんな扱いをして居たのかは、知らないけれど」
時記の闇見に、亜耶と大蛇がそんな事が有るのか、と問い掛ける。時記は頷いて、澪に取っては共寝は苦痛だっただろう、と言った。
「確かに…真耶佳に教えなければいけなくなった時、澪は昏い顔をしたと言って居たわ」
「八反目との話は、聞いた事が無いのか、亜耶?」
小さな幸せばかりよ、と亜耶が答える。八反目が孕みを喜んだ、八反目がお務め後に迎えに来てくれた、そんな物ばかり。
「どれも当然の事じゃねえか」
「兄上は、手に入れたら顧みない所が有るから…」
恐らくは澪の孕みも、八反目に取っては宮に発言権を持つ為の善事だったのだろう。時記は、そう言って空を睨んだ。
「今宵、大王が来たら、真耶佳が直訴するでしょう。大王の方も、事のあらましは知って居られる」
明日は八反目を事問いに呼び出し、澪の荷物を運び出させて呉れる。夜離れには、大王も荷担して下さる。
「え、兄上は御館に居るの?務めの時間に?」
「宮下に居るわ。澪と会わせろと、来る者来る者に詰め寄っているみたい」
大王の先触れには、酷く放り出されたみたいね。亜耶はそう言って、同情の欠片も見せずに嗤う。
「今更、だよね。兄上」
「何をしてるのか、一々自覚が足りねえんだ、彼奴は」
女関係で失態を演じ、更には妹を取り戻そうと足掻く。命は、限られているのに。
「ねえ大蛇、お願いが有るの」
「何だ」
「七日後に、神山に咲く、雨に透ける花を採ってきて頂戴」
大蛇と時記には其れだけで伝わった様で、大蛇は快く了承した。
決まったならば、荷を纏めなければ。そう言って、時記が帰って行ったのは昼餉前の事。今日は卵の入った白粥だよ、と時記は嬉しそうに言い残して行った。
時記にとっても、杜の飯を食らうのはあと数日。追い掛けて行った大蛇が熊の乾し肉を渡し、礼を言われたと云う。
「彼奴は昔から、魚の方が好きだったんだけどな…」
「では、宴の折には魚を多くして貰うわ」
宮では、魚が新鮮で無いと真耶佳が怒って居るから。しばしの別れの餞別に。亜耶が淋しそうに言うから、大蛇は亜耶を抱き寄せた。
「大丈夫よ、今は大蛇が居る」
大蛇の胸で、亜耶は淋しく幸せに呟いた。




