八、八反目
花の香を纏い、湯殿を出た時には月が昇っていた。澪と同じ香を醸す事が目的だった亜耶は、胸から一抹の罪悪感を消そうと試みるが巧く行かない。
婆が繕って呉れると言う新しい衣や薄麻の上衣に心躍らそうとするのだが、今宵此れから行う事は気が重いのだ。
女御館の前で二人と別れ、亜耶は神殿に向かう。薄明かりに照らされた其処では既に綾が待って居て、紅の端切れを一枚呉れた。
「事が終わるまで誰も立ち入らせては駄目。…後悔は無いね?」
綾の問い掛けに深く頷き、神夢を実行すべく亜耶は八反目の元へと奔る。いけ好かない、けれどこうするしか無い。
「八反目の王子」
呼び掛けた八反目は、亜耶の姿を見ると驚いた顔をした。
「今宵…皆が寝静まってから」
紅の端切れを差し出し、お待ちしています、と続けた。花湯の香は強く、風下に居る八反目にも届く。
「芳しいな」
是の証として、端切れは八反目の手の内に収まった。
妹姫から声を掛けられたのは初めてかも知れない、と八反目は喜んで居た。しかもあれだけ自分を毛嫌いして居た妹姫だ。漸く真心が通じたか、と女御館に向かう足も軽くなる。
八反目は、真耶佳と共に大王の膝元に赴く。大王に仕える形と成る為、里下がりは当分許されない。
どうしても出立の前に、最愛の妹姫の破瓜を行いたかった。異腹の妹姫に、幼い頃から焦がれて居たのだ。
握り締めた端切れは肌の熱を吸って熱く、夢では無いと八反目を勇気付ける。高い誇りと誉れを生まれ持った妹姫は、今宵を逃せば二度と許さないだろう。
女御館の入口で舎人に端切れを見せると、其の侭奪い取られた。けれど道は塞がれなかったので、御館の中に歩を進める。
渡された端切れは紅。目の前の布連も紅だ。
「亜耶」
小さな声で呼ぶと、横たわった人影がびくりと身を震わせた。月明かりの下にあの忌々しい勾玉は無く、外してくれたのかと喜ぶ。
「誘ったのはお前だろう」
そう云って八反目は細い手首を掴み、一夜限りの思いを遂げた。妹姫の流した赤黒い血に、胸を占める充足感。
こんな物では終わらせない。積年の思いは、遺恨にも似ている。忙しく身動ぎをする八反目の下で、花の香を纏った妹姫は嗚咽して居た。
するりと、紅の間に人が立ち入る気配がした。八反目は亜耶を抱き締めて身構える。夜盗か、其れとも舎人が妙な気を起こしたか。
「妹背に成られませ」
聞き違える筈の無い声が降って来て、部屋にぽう、と明かりが灯った。
其処には、指先一つで油に火を入れた影。八反目が抱き締めて居る筈の亜耶が、平静と立って居た。
「亜耶…!?では、此の娘は…」
「澪、と申します。一の兄様の妹となる娘です」
亜耶の後ろからは真耶佳も出て来て、同じく澪との婚いを求めた。
「一の兄様の子が、大王の子の乳兄弟と成るのです。兄様は、そう云った話がお好きでしょう」
亜耶がしゃがんで、澪の様子を伺う。抱き潰されていて、意識が無い。
「可愛いと思って此処まで抱いたのでしょう。妹背の言挙げを為さいませ」
澪には事前に了承を取って有ったが、此の様な扱いを受けては恐ろしかっただろう。嗚咽は、亜耶や真耶佳にも届いて居た。
八反目に抱き締められた侭の澪の頬に触れて、亜耶はごめん、と呟いた。