四十六、乳母の間
澪は、乳母の間で目を覚ました。真耶佳の宮の中だ。昨夜、八反目の御館から戻った月葉が此処に案内して呉れた。
「お早う御座います、澪さま」
目を覚ますのを待っていたかの様に、月葉が入って来る。此れからは朝餉も、宮に持って来る様申し付けて参りました。そう言われて、澪はもう八反目が居る御館には戻る事が無いのを知った。
望んだ事。けれど少し、真耶佳に申し訳無い。亜耶にも、辛い頼み事をして仕舞った。表情が昏くなった澪に、月葉がもう直ぐ真耶佳さまがお目覚めです、と言う。
「私は湯を使って参りますので、側女達が来る迄の間お願い致しますね」
月葉なりに、澪を気遣って行ったのだ。独りで考える時間と、考えなくて済む慌ただしさを両方呉れた。
澪は乳母の間を出て、見慣れた宮の水鏡へ向かう。亜耶は未だ、寝て居るだろう。そう思ったのに意外にも、澪、と亜耶の声が聞こえた。
「亜耶さま…」
「此れから、お父様と話してくるわ。その前に、聞きたかったの」
何を、聞きたかったのか。澪はまだ回らぬ頭で、はい、と答える。
「澪は、次の夫が時記兄様でも良い?」
其れは、既に見えた未来を慮る問い掛け。澪の意思を、尊重して呉れて居るのだ。
「時記さま、に、妹にして頂けるのなら、幸せです」
此の思いを口にして良いのか。澪は迷い乍らも、本心を述べた。
「分かったわ。時記兄様の意思は、心配しなくて良いわよ」
理解するまでに、数拍掛かった。時記の意思は、心配無い、と云う事は。
「時記兄様は、澪を好いているわ」
亜耶の言葉で、澪は顔を赤くした。未だ八反目は生きて居て、夜離れもして居無いのに。八反目の弟、亜耶と真耶佳の兄が、澪を好いていると聞いて、こんなに嬉しいとは。
「少しは明るい未来が見えた?」
「はい…」
控え目に答えるが、心の臓はばくばくと音を立てて居る。途端に、宮の門まで小埜瀬と共に馬で遣って来る時記が見えた。其の日がきっと、夜離れと新しい婚いの日に成るのだろう。
「見えたみたいね」
其れでは、私と大蛇は行くわね。そう言い残して、亜耶は水鏡の向こうから消えた。
さて、真耶佳が起きて来ない。側女も一人二人と現れるのだが、真耶佳はまるで此処に居無いかの様に閨から出て来ないのだ。
「あの…」
昨日真名を知ったばかりの側女に声を掛ける。いつも真耶佳さまは、いつ頃起こすのですか、と。
「澪さまが来る時には起きて居られますけど、月葉さまがお戻りに成る直前までは閨に…」
その間に、私達は掃除をするのです。側女は、笑顔で答えて呉れた。朝の掃除は当番制らしく、全ての側女が揃う頃には月葉も戻って来ると言う。ならば未だ、真耶佳は起こさなくて良いかと云う気になった。
只でさえ、望みに望んだ独り寝なのだ。もう少し位、楽しませて差し上げても、と。
しかし、側女が全員揃っても、朝餉が来ても、月葉が戻っても真耶佳は起きて来ない。
「今日は長めに湯を使ったのですけど…起こしましょうか」
月葉は月葉なりに気を遣って、湯殿に長居した様だ。その内澪が起こす事も有るかも知れないと云う事で、月葉が呼ぶ。大王が共に寝て居る時の所作、声の掛け方を教わり、澪も月葉に続いて閨に入った。
閨の窓は開け放たれ、気持ちの良い風が入っている。窓の反対側の広い寝座の上で、真耶佳はすやすやと眠って居た。
「普段余程、無理をされて居るのですね…」
「そうですね、けれど起こさなければ、また夜眠れなく成ります」
言って、月葉は真耶佳さま、と声を掛ける。其の程度では起きない真耶佳が、少し身動ぎをした。続けて真耶佳さま、と言われて、真耶佳はやっと、ゆるゆると目を開けた。
「澪…」
何故か真耶佳は、起こした月葉では無く澪を呼ぶ。手招きする仕草をしたので、澪は真耶佳に近付いた。
「澪、夜離れして良いのよ…時記兄様が来るから」
「はい、真耶佳さま」
未だ夢現なのだろう。真耶佳はまた目を閉じようとする。しかし月葉は其れを許さず、真耶佳さま、と三度目の声を掛けた。
流石に真耶佳も、もう寝て居る訳には行かないと思ったのだろう。朝餉はとっくに来ています、と言われると、仕方無しに寝座を降りた。




