四十二、残暑
亜耶から聞いた兎の燻し方は、厨の者の頭を痛くさせたらしい。囲いになる物、と呟き乍ら、其方此方を漁って居る。伝えに来た澪の存在は、忘れ去られて仕舞った様だ。
「あの、無理ならば塩で焼くだけでも…」
澪がそう声を掛けると、大王の手前其れは出来ないと言う。何故ならば、大王も燻した兎をご所望だから。
大王は近頃、杜の食生活にも興味を持たれて居る。澪も気付いては居たが、此処まで顕著だとは。真耶佳への愛情が、杜への興味にまで発展して仕舞ったのだろう。
どうにかする、と豪語した族人を見届け、澪は宮へと戻った。少し、哀れと思い乍ら。
「澪、厨は如何だった?」
「未だ熱が籠もっていて、暑かったです」
声を掛けて来た真耶佳が、そうではないのよと笑う。亜耶の悪阻が治まったと聞いて、幾分顔色が良くなった上に笑う様にもなった。
「兎は人数分燻せそうかしら、って聞いたの」
澪の勘違いに、月葉も口元を領巾で覆って、肩が小刻みに震えて居る。笑いを隠して居るのだ。澪は途端に恥ずかしくなって、厨の者の様子を早口で捲し立てた。
「まあ、そんなに手が掛かるの」
真耶佳は持ち前のおっとりとした口調で言うが、其の目は少し心配そうだ。大王が無理を言った所為で、と思って居るのが手に見て取れる。
「昼餉にして仕舞えば、務めに出ている者の分は要らないのですが」
「そうね、昼食べる者と夜食べる者に分けた方が、良いかも知れないわ」
其れでは、その様に伝えて来ます。そう言ってもう一度階を下りようとした澪を、月葉が止めた。澪さまは、少しお休み下さい、と。月葉が各務に、何事かを指示して出て行く。
「澪さま、どうぞ」
各務から渡されたのは、よく冷えた水菓子だった。厨が暑いと言ったので、月葉が気を遣ったのだろう。
「有り難う、各務」
小忠実な側女にも礼を言うと、恐れ多い、と恐縮して居る。
「各務、貴女も飲みなさいな。働き詰めでしょう?」
真耶佳が各務に、口にする物を勧める。其れは迚も意味の有る事だ。未だ、真耶佳と澪に直接触れたり、食事を出す事を許される側女は各務一人。二、三人には増えて呉れないと、今後困る。
そんな真耶佳の思いを汲み取ったのか、各務は遠慮し乍らも水菓子に口を付けた。見て居た他の側女達から、ああ、と羨みの声が上がる。いつかは自分も。そう思って呉れる側女が増えると良い、と澪は思った。其れこそが、真耶佳の狙いなのだから。
そう云えば、桑の実以外の水菓子など如何したのか。澪の問いに、月葉が答えた。
「今宵は月待ちの宴だそうで、大王が来られないのですよ」
大王が、妻を連れずに参加する数少ない集い。其の詫びに、果実水を持たせた、と。
「すっきりしていて美味しいわよね、この水菓子」
「ええ、山桃の様な味がします」
「でも果実は一種類では無いみたい」
真耶佳の言葉に、澪は頷いた。梨の皮や柘榴も入って居るのでは、と。其れに、真耶佳の味覚が戻って来たからこそ美味なのだろうとも。
気をよくした真耶佳は、月葉に耳打ちする。月葉が各務を呼んで、更に耳打ちした。
「皆、此方に集まりなさい。真耶佳姫が、大王の下さった水菓子を分けて下さるそうよ」
各務が普段とは違う良く通る声で言うと、側女達が我先にと集まって来る。
「今日は皆、小忠実に働いたものね。床まで塵一つ無いわ」
真耶佳が側女を褒め、各務が注ぐ器を月葉が側女に配る。勿論、先程各務が飲んだ量より遙かに少ない。其れでも側女達を鼓舞するには充分だったらしく、皆満足そうだった。一人ずつ真耶佳に頭を下げるなんて、以前は想像だにしなかった事だ。
「澪さま」
水菓子を飲み終わった側女から、不意に声が掛かる。澪が振り向くと、其処には年若い側女が居た。
「澪さまは身重で居られるのですから、今日の様な雑用は私共にお任せ下さい」
ずっと、心苦しいと思って居りました。そう言われると、澪の方も仕事を頼み易くなる。裳を胸下で着ける様になったのも、側女の心苦しさに大きく関わって居る様だ。
「其れでは、頼める仕事が有った時にはお願いします」
澪がそう応えると側女は頭を下げ、仲間内で仕事の分担などを話し始めた。各務を除いた側女は六人だから、澪と月葉に三人ずつ小間使いが出来る事になる。
側女達の話に聞き耳を立てて居た真耶佳が、亜耶の言う通りねえ、と言ったのを澪は聞き逃さなかった。




