二十九、霧雨
此の季節、夜は短い。亜耶は禊を禁じられてから、めっきり朝が遅くなった。今朝は食事を取ったら神殿に行こう。そう思って居たのに、運ばれて来て居た粥がすっかり冷めてから目を覚ました。
側に大蛇は居無い。また、山にでも行っているのだろうか。大蛇の行動は人目に付く様になっても余り変わらず、却って安堵している亜耶が居る。
「どうした、亜耶。魂離りでもした様な顔して」
亜耶が布連を潜ると、丁度大蛇が御館に入ってきた所だった。手には、昨日の肉の残りの焼き立てを持って居る。笹の葉に乗せられていると云う事は、神饌か。
「魂離りなどしてないわ。寝過ぎたと思って」
確かに、と大蛇は笑う。以前の亜耶なら、もう邑内を歩き回って居た頃だと。
「粥、温め直して遣ろうか?」
「いいえ、此の侭食べるわ」
其れより、その肉は如何したの。亜耶が問うと、大蛇は思った通り神饌だと言った。神殿に行く事は昨夜の内に話して有ったので、亜耶も然程驚かない。
「一緒に行く?」
「いいや、俺はいい」
そう、とだけ言って、亜耶は粥を口に運んだ。冷めた粥には、冷めた粥なりの美味さが有る。赤粥は特に、冷めた時の甘みが強い。好く楽しんで、亜耶は食事を終えた。
外は、霧雨。亜耶は大蛇が作って呉れた笹の包みを抱いて、早足で神殿へと向かう。宿り木の緑は濃さを増し、もう直ぐ夏が来ると教えていた。
「亜耶、こんな天気の中如何したの」
神殿に着くと、綾のそんな言葉で迎えられた。大龍彦は無言で布を持って来て、亜耶の頭に掛ける。綾の耳には、鱗の耳飾り。戒めだろうか、と亜耶は訝しむ。
「少し、冷えるわね」
「当たり前でしょう?霧雨の中、襲も掛けずに来たんだから」
どうやら綾は、亜耶が産女らしくない行動を取ったのが気に食わない様だ。亜耶も、御館を出る時には霧雨だからと油断して居た。
「ああ、そうだ、此れ大蛇から」
亜耶は大事に持って居た未だ温かい包みを、神饌として祭壇に置く。直ぐに解いて中身を確認するのは、大龍彦だ。
「…此れ、何の肉だ?」
「熊よ…」
彼奴はまだ、そんな物仕留めて来るのか、と大龍彦は惘れた顔をした。綾は、美味しいなら良いじゃ無い、と平然として居る。
「神籬?」
「此処は神殿でしょ。正式な神饌だわ」
綾、海に入りたいの?と。亜耶が聞く。綾は否定しない。しかしもう、綾には尾鰭も鱗も無い。水に入る理由が無いのだ。
「余った肉は、乾してるの。乾し肉が出来たら、浜辺に付き合って上げても良いわ」
その代わり、裳を着けてね。亜耶が言うと、綾が頷いた。酷く喜んで居る様に見える。
「じゃあ、綾の裳を縫わなければね」
「…実は、綿津見神様から頂いて来てるんだ」
綾は一度神殿の中に入ると、光沢の有る碧い裳を持って出て来た。上背の有る綾の為の物だから、随分と長く見える。
「美しいわ…。じゃ、其れを着けてね」
「分かった。もう鱗には引っ掛からないから、大丈夫だと思う」
鱗、と言って思い出したのか、綾がちょっと待ってて、と神殿の奥にまた下がる。戻って来た時には、頼んでいた鱗の額飾りを持って居た。
「はい、亜耶。約束の物」
「約束って…三つも頼んでないわ」
妬み嫉みの黒い針、気になるんでしょう?そう綾に言われて、亜耶は黙って仕舞う。
「此処までする必要は無いと思うけどね、真耶佳も綿津見神様の腕輪をして居るし」
でも、亜耶が心配するなら送りなよ、と綾が言う。この程度の物なら、水鏡に沈めれば向こうに着くから、と。
「有り難う」
亜耶が礼を言うと、綾はいつも通り何て事無いよ、と微笑んだ。




