二十七、幸せ
大蛇は、だいぶ身綺麗になって帰って来た。黒い衣や袴は相変わらずだが、着崩れて居無い。美豆良を結う程髪を伸ばして居無かったのが幸いして、身なりだけ整えて逃げて来られたと云う。
「質問攻めに遭った、って時記兄様が言って居たけど」
「ああ、今頃代わりに時記が答えてる」
「そう…」
惘れる亜耶に、腹が減ったと大蛇は漏らす。疾うに夕餉は運ばれて来て居るので、亜耶が赤粥を碗に移して差し出した。
「焼き貝は冷めて仕舞っているわよ」
「構わねえ。食おうぜ」
閨に灯りを点す事を重ねて、亜耶と大蛇は此処までは来た。そして今は、共に同じ物を同じ時に食す。此れが幸せなのか、と亜耶は微笑んだ。未来の見えなかった過去など、遠い昔の様だ。
「どうした、亜耶。そんなに赤粥が嬉しいのか?」
大蛇の恍けた問い掛けに、違うわよ、と言い返し乍らも亜耶は幸せを隠さない。
「ただ幸せだと思っただけよ」
亜耶がらしくない事を言ってみると、大蛇が見事に噎せた。此れからもからかおう、と密かに心に決めた亜耶だった。
雨の季節が終わったら、宴が有る。其れを巫王は大蛇に伝え忘れた様だ。熊の肉に目が眩んだとしか思えない失態に、大蛇は呆然として居る。
「俺が…あの舞台に上るのか…?」
「そうよ、今まで幾度も見てきたでしょう」
見てきたは見てきたが、と大蛇の歯切れは悪い。子が生まれた時も上るのよ、と亜耶が更に追い打ちを掛けると、頭を抱えて仕舞った。
「どうしたの、大蛇?」
「今までは、一部の人間にしか見えねえから好き勝手遣ってたんだが…」
其れが如何したの、と亜耶が更に問おうとすると、不意に水鏡が揺れた。大蛇は此れ幸いとばかりに亜耶の背を押す。
「澪、助かったぜ」
行き成り言われた澪は、はい?と聞き返した。其れを気にせず大蛇は、亜耶に用だろ、と取り次いで呉れる。
「いえ…今日はもう下がるので、ご挨拶しようかと…」
「側女の話も片付いたのね?」
「はい。其れから、真耶佳さまに次の月の忌みが見えないのです」
亜耶は暫し沈黙し、真耶佳の忌みの気配を探る。確かに、見えない。孕みの卦も近付いている。
「今晩では無いわ」
短く言って、澪の不安の原因を探ろうとすると、水鏡の向こうに黒い針が見えた。宮外からの妬み嫉みの呪いだと、亜耶は直ぐに気付いた。月葉と澪では祓い切れないのだろう。
「真耶佳には、鏡を手放さない様言って」
「はい、亜耶さま」
「澪も、無理はしないでね」
澪はもう一度はい、と答えて退出して行った。大王が通う頻度が高くなればなる程、黒い針は増えるだろう。送り主に返すか、と亜耶は思案する。しかし、宮は大王の神気を得た不思議な場所なのだ。亜耶の霊力が、正しく作用するか分からない。
「如何した物かしら…」
憂い事が増えた。真耶佳は浄められた月長石と鏡を持って居るとは云え、只人だ。
明日、神殿で相談しよう。そう決めて亜耶は、大蛇の狼狽をすっかり忘れた。




