五、澪
朱い縞の模様の衣に、朱い裳。太い襷を斜めに掛けた船巫女は、沓も履かずに海の水で手遊んで居た。
顔には日焼け止めの茶色い塗り物に、頬に縦横に入った朱色の巫女の証。けれど其の目に光は失せていて、此の航海で霊力を使い切ったのが見て取れた。
「…名は、何と云うの」
近寄って来る気配は、感じていただろう。少女は小さく澪、と呟いて、亜耶を見上げた。
「白衣の、神人さま…!」
目を合わせてから大層驚くので、此の少女も何らかの予兆を得ていたのだと知れた。
「亜耶、よ。神人では無く、魚の杜の巫女」
「其れでも貴女は、私めを救って下さると婆様の予言で聞きました…!」
婆様、と云うのは西の民の巫女だろうか。自然に澪の口から溢れ出でた呼称は、畏れに満ちていた。
「霊力が潰えると、予言されたのね?」
澪は、涙目で何度も頷く。きっと、船出の時には半信半疑だったに違いない。
「澪、貴女は何を見るの?」
「鬼道、です。以前は、昼間でも星が読めて…っ」
「今は、見えないのね?」
堰が切れたのか、遂には号泣し乍ら澪はうん、うん、と頷く。背中を撫でて遣り乍ら、亜耶は安心する様小さく話し掛けた。
「明日の船出では、船は海原で大時化に遭うわ。歌の流れる海峡も越えられない」
きっと、澪は船の中で懸命に祈って居たのだろう。海の怪が、極上の歌で男達を誘う間も。
「亜耶さま、私は、帰るのが…怖いっ」
「帰らなくて良いの。私は貴女を迎えに来たのだから」
涙でぐしゃぐしゃに為った朱を拭い乍ら、澪が首を傾げる。突然こんな事を言い出す東の巫女に、驚かない筈も無い、と亜耶は笑う。
「貴女が乗ってきたのは、どの船?」
言葉も無くし、驚きの剰り涙さえも忘れて澪は一隻の、一際大きな船を指さした。
「そう、少し待っていてね」
言うと、亜耶は澪の乗ってきたと言う船にずかずかと乗り込んだ。
澪が乗ってきたと言う船は、頗る立派な物だった。三本の帆柱を頌え、今は休まされた櫂がずらりと並んでいる。其の中央の帆柱の下に、小さな箱形の部屋と中に大事そうに祠が在る。此処は、綿津見神に旅の安全を祈る場所だろう。
「おい、積み荷なら全部下ろしたぞ!此処で何をしている!」
「貴方が、此の船の主?」
海の男に怒鳴られても動じない、厳しく美しい娘に男は眉を顰める。
「そうだが、何の用だ…?」
鼻白んだ船の主の前で、亜耶は掌をそっと差し出し、其処に異世の榊の枝を呼んだ。
「な…っ、お前、何者だ!?」
「杜の巫女。聞いて居るでしょう、商いの相手は?」
「か…巫覡の族の…かっ神人!?」
「巫女だと言っているでしょう。其れより、あなた方が明後日の夜に贄にする船巫女を呉れたら、旅の安全を証して上げる」
明後日に贄にする。心当たりが無かったのか、主は言葉を失った。
「澪の霊力は潰えたわ。明日船出すれば、この船は海の藻屑ね」
船出を二日遅らせなさい、と亜耶は静かに畳み掛けた。
「出来ないのなら、此の榊を樒に変えてあげても良いのよ」
亜耶の掌の上で、榊の枝が形を変えていく。墓に供える木に為る前に、主は待て、と言った。
直ぐさま枝は、榊に戻る。話は決まった。そう、互いの目が言っていた。
船を下りた亜耶に、澪が駆け寄って来た。もう大丈夫、と笑う亜耶に、澪はまた涙を流す。
「でも、あの船の主は気性が荒くて…っ」
「祠には綿津見神さまへの榊を浮かべて来たわ。船出も二日遅らすって」
凄い、と澪の目が輝く。婆の予言通りに為らなかったらと、不安で仕方無かったろうに。
「では、杜へ帰る前に、姉姫の処に行って良いかしら?額飾りを選んでいるの」
「はい…!」
姉とは、こんな気持ちに為る物だろうか。澪の無邪気さに、亜耶は少し罪悪感を覚えた。