五、不穏な朝
可笑しい。今宵は大王からの初めてのお通いが有る日なのに、水鏡が亜耶を呼ばない。
月葉が止めたのは見えて居た。何故止めるのかと、声を上げる事も出来た。しかし未来をも見る月葉のこと、何か考えが有るのだろう。
澪に最初の夜の事を教えさせるのは酷な気がしたが、亜耶はひたすら黙って居た。水鏡を覗きっ放しなので、遂に大蛇から声が掛かる。
「おい、魚が冷めるぞ。禊から戻ってから、ずっとそれじゃねえか」
大蛇は、自分の食は自分で調達して来る。今朝は、誰かが祝り事だと言って、朝餉にまで魚を乗せたのだ。
其の誰かは、夕べの記憶を綺麗に無くして居る様だ。人に飲ませるだけ飲ませて、管を巻いて仕舞ったのだから。
「いっそ、二日酔いで魚なんか食べられなければ良いのに」
「おい亜耶、八津代を呪うな」
初孫だし、嬉しかったんだろうよ、と大蛇は言う。
巫王は今年、三十六に成る。初孫を得るには、少し遅い年だ。そう考えると二十の八反目は、妹背の姫を定めるのが随分遅かった。巫王も良く許した物だ。陸の姫を娶るのを、巫王は余り好しとして居ない。自分が二人娶って、懲りたのだそうだ。
「時記兄様も、今年十八よね…」
「もう、そんなになるか」
「成るわよ」
「でも時記も、大王に仕えるんじゃ無かったか?」
「其れが何故だかは、分からないのだけどね…」
簡単に返事をして、亜耶は頂きます、と羹に口を付けた。
「安心しろ、今日は朝から肉食えなんて言わねえから」
「有り難いわ」
何とはなしに会話は終わって仕舞って、後は二人で朝餉を終えるのみ。水鏡はその間も、揺れる事は無かった。
きっと魚が供えられただろうと神殿を訪れると、既に綾が鱗を濡らす準備をして居た。長衣に着替え、袴を脱ぐ。
「裳ぐらい着けて呉れれば良いのに…」
「あれ、嫌いなんだ。鱗に絡むから」
言うが早いか供えられた魚を鷲掴みして、亜耶に渡す。付いて来い、と云う意味だ。神籬では無いが、鱗を濡らすのに亜耶の見送りは不可欠となって居る。傍迷惑な話だ。
最近は陸からの舟を気にして、二人とも最初から高浜に行って呉れる。崖の淵で魚を求められ、二人に渡した。すると、下の白浜で食べるのだろう、二人が崖を飛んだ。
大龍彦が何段飛びかで崖を下りるのに対し、綾は一飛びで海に入る。飛び込み際、綾の足が尾鰭に変わり、碧く光った。鱗が美しいのだ。
矢張り、綾には敵わない。其れを見せ付けられた気分だった。
女御館に戻ると、手前で大蛇が鳥を捌いて居た。いつの間に山に入ったのか。大蛇の手の中に在る鳥は羽の色が迚も地味で、亜耶は自分の様だと思った。真耶佳と澪は頼って呉れない、大龍彦への夢も潰えた。大蛇に屠られて終わる位が、丁度良いのかも知れない。
「亜耶?早かったな」
「うん、二人で高浜を下りて行ったから」
「鱗、濡らしに行ってんのか?」
「そう」
返事をするだけして、亜耶は御館に入る。すると水鏡が揺れていて、亜耶は呼ばれて居たのだと知った。
「ごめんなさい、待たせて」
「亜耶さま、よく独りでお耐えになりました」
慌てて覗いた水鏡の相手は月葉で、側には真耶佳も澪も控えて居る様だった。
「何の事…?」
言われた意味が分からず、絶句した亜耶に月葉が笑った。




