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魚の杜の巫女  作者: 楡 依雫
水鏡篇 二の章

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九十六、神夢と涙

 巫王(ふおう)は虚ろな目で帰って来た。(くが)での宴は、夜通し行われたのだ。目の下には、うっすらと隈も見える。

(おすい)は脱がなかったぞ」

 出迎えた亜耶達親子に、巫王は意気揚々とは行かないまでも誇らしげに報告する。八和尊(やかずほ)は、満足げに目を細めていた。

御爺(おんじい)、居無い、寂しい」

「帰って来たぞ、八和尊。嬉しいか?」

「半々」

 素直に嬉しいと云えば良い物を、八和尊は巫王をがっくりとさせる。大蛇(おろと)は考え倦ねた挙げ句、八和尊を巫王に抱かせた。寝不足の巫王の腕は危うくは無いかと危惧したのだろう。大丈夫だと亜耶が言うと、大蛇は其の侭神殿(かむどの)に向き直る。

「おい兄者、綾、纏向(まきむく)に持ってく魚の話だ」

神饌(みせ)は無いの?」

 直ぐに綾が出てきて口を尖らせるが、神饌ならば昨日供えている。大龍彦(おおつちひこ)は不服は無い、と言った。綾も(つま)の意向に従う様だ。腹癒せの様に飛沫(しぶき)の鼻を擽って、(くさめ)を浴びていた。

 巫王が、去年井波(いなみ)瘡魚(かさご)を持って行くと約束したと言うと、其れは許される。ただ、貝の類いは今年は無しだとも。大蛇は時記(ときふさ)(わかさぎ)を食べさせたいと言う。そちらは山津見神(やまつみのかみ)と相談しろと綾に一蹴された。綿津見神(わたつみのかみ)が許すのは、海の魚に限った事。川魚は山津見神次第だそうだ。

「山津見の爺さんなら反対は為ねえだろうけど…」

「だったら山を登れば良いじゃ無い。僕達は答えられないんだから」

「亜耶、良いか?」

「明後日ならば、平気よ」

大蝦(おおえび)は、また俺が捕って来て遣る。生きた侭凍てつかせれば良い」

 大龍彦が話を纏めて、後は冬の漁り次第。巫王は目まぐるしく巡る会話の波に、付いて来ている様子では無かった。

「お父様、今日は女御館(おなみたち)でお休みになって。(くりや)にも話は通してあるわ」

「眠いだろう。八津代(やつしろ)?話は済んだから、さっさと暖まろうぜ」

 綾が、又甘やかして、と視線で言う。大龍彦も同様だ。けれど巫王は途端に笑顔になって、軽い足取りで白浜を後にした。




 亜耶の目的は、巫王の夢を盗む事。其の為に女御館に連れて来た。巫王は今日、神夢(かむゆめ)を見る。美茜(みあけ)に関する夢だ。其の侭に為ておけば、また以前の様に憔悴しかねない。美茜の定めで巫王を憔悴させる事は、亜耶の本意では無い。亜耶も辛いが、盗まねば。そう思っていた。

「亜耶、私はどんな神夢でも受け容れる覚悟は出来ているよ」

 巫王は不意に、然う言う。娘の懸念を察したのだろう。真逆、苦しみを亜耶にだけ背負わせる事はしない。巫王は哀しく笑って然う云った。亜耶は黙って頷いて、巫王を寝座(じんざ)へと導く。腰を折られた計画も、全ては定めと悟って。

「私が(うな)されても、見守って呉れ」

「分かったわ、お父様」

「大蛇に八和尊も」

「八津代…」

 八和尊は、未だ何のことだか分からずにきょとんとしている。亜耶は美茜の事は、目隠し為ていた。話すのも八和尊が寝静まった後にだけ。今は未だ、知らなくて良いとは母の思いだ。直ぐに巫王は眠りに就き、健やかな寝息が女御館を支配した。其れも、暫しの事。

 巫王が魘されるのは早かった。うう、と唸り何かを掴もうと挙げられた手が虚空を切る。美茜を掴もうと為たのだ。黄泉路へと赴く孫娘を見るのは辛かろう。しかも、生めと言ったのは巫王だ。

「御爺…?」

 八和尊が不思議そうに、巫王の方を見る。亜耶は黙って首を横に振って、八和尊をも眠らせた。決して美茜の夢が入って来ぬ様に、目隠しの術を二重(ふたえ)に掛けて。

 そして魘される巫王の声は、不意にやんだ。神夢が終わりを告げたのだ。昨日の疲れもあり、巫王は未だ此の侭眠る。亜耶は巫王の額に指先を充て、羽張(はばり)の夢に替えた。今度は巫王の口許が、少しばかり笑みの形を浮かべる。羽張との時間はそんなに幸せだったか、と。亜耶はまた、哀しくなった。

「おい亜耶、水鏡(みずかがみ)が揺れてるぞ」

「ああ、真耶佳(まやか)悟織(さとり)ね。今行くわ」

 亜耶は哀しみを振り払い、穏やかな笑みを顔に貼り付ける。何が有ったかなど、二人に悟られなくて良い。其の一心だった。

「待たせてごめんなさいね」

 先に大蛇が繋いで置いて呉れた水鏡に、亜耶は普段通りに言った。普段通り、その筈だった。しかし、悟織が怪訝そうな顔をする。真耶佳も話し出す事はしない。

「亜耶さま…お疲れですか?」

「違うわ、此れは亜耶が都合の悪い事を隠す時の顔よ」

 真耶佳と悟織は、難無く亜耶の強がりを挫いた。けれど用件ならば、亜耶にも分かって居る。さっさと話し出そうとすると、又も止められる。

「亜耶さま、無理をせずとも良いのですよ。継姪(めい)に、話して見る気は御座いませんか」

「そうよ亜耶、姉姫(えひめ)にもその辛さの源を話して」

 真耶佳と悟織は食い下がる。本当に知らぬで良い事なの、との呟きは、容れられなかった。

「亜耶、今泣きたいでしょう?」

 真耶佳の声に、慈愛が籠もる。その一言を切欠に、亜耶はぽろぽろと涙を零した。こんな事は、予定には無かったのに。闇見(くらみ)にも無かったのに。然う思い乍ら、亜耶は領巾(ひれ)で涙を拭う。

「貴女は未だ、十七なの。輿入れした時の私と同じ年。未だ、(おびと)ぶらなくて良いのよ」

「…お父様が神夢を、先程まで見ていたの。美茜の最期の夢」

「覗き見したの?」

「流れ込んできたわ…」

巫覡(かんなぎ)とは、時として不便ね。哀しい未来も、知らされて仕舞うなんて」

「本当は、お父様から夢を盗む積もりでお招きしたの。けれど、お父様も背負うと眠りに就かれた…。今は、羽張さまの夢を見ているわ」

「お父様だけ?亜耶は、自分に夢を見せないの?」

「私は…望んだ夢を見る事は少ないわ」

 真耶佳は其処で溜息を吐いた。不器用な妹姫(おとひめ)に、酬いない父の寝穢さに対してだ。

「お父様は昨夜、陸で一晩中宴に召されてお疲れだもの。仕方無いわ」

 此の時、亜耶の口許には諦観の笑みが浮かんでいた。そんな亜耶を見て、真耶佳は眉根を寄せる。

「お父様は、いつ頃起きてくるの?」

「夕餉前、かしら」

「然うしたら、亜耶もお父様から望む夢を貰いなさい。どうせ羽張さまの夢は、貴女が見せたんでしょう?其れでお相子」

 真耶佳が水鏡の向こうで、ぽんと手を打った。亜耶に取っても辛い話は、此れで終わり。そんな合図の様に、亜耶は感じた。だから亜耶は、今度こそ正真正銘の笑顔で言う。

真尋(まひろ)は今年で四つよ」

「え?三つでは無いのですか!?」

「そうよ。十一の大晦(おおつごもり)に、悟織は産屋(うぶや)に入った。夜が明ける前に産み落として居るわね。其れが、真尋の生まれよ」

「けれど…一番鶏が鳴くまで、真尋は泣かなくて…」

南出津賀姫(ないづがひめ)が、口を塞いでいたもの」

「あの(ひと)が!?どう云う事ですか、亜耶さま!?」

 亜耶は悟織の頭に上った熱を冷ます為、ふう、と息を吐いてから続けた。

「南出津賀姫は、娘が十一のうちに子を生んだ事を認めたくなかった。しかも、自分の決めた夫では無い男との子。ともすればとの思いも有ったみたいね。けれど芳名(よしな)が手を引き剥がして、真尋に息をさせた。息が整うまで、泣く事は叶わなかったのよ」

「そんな…」

 悟織の顔が、みるみる赤と青に染まっていく。其れは然うだ、娘を喪っていたかも知れないのだから。

「そして南出津賀姫は、一番鶏が鳴いた後の産声だったから真尋は初春(はつはる)の生まれだと言い含めた。せめて十二で生んだ事にしようと」

「真尋は、其れを知って…?」

「知っているわ。(あま)(かみ)様が教えたもの」

 今度は、悟織が涙を流す番だ。悔し涙。真尋に知られている事が、心に重くのし掛かって居るのだろう。望まれた生まれでは無いと、真尋が思っているかも知れない。そんな不安が流れ込んで来る。

「真尋は、父母(ちちはは)の愛を疑った事は無いわ」

 悟織がぱっと顔を上げた。亜耶は優しい微笑みで、真尋が父母に付いて語った言葉を繰り返す。すると、悟織の涙の種類が変わった。今度は、嬉し涙だ。

「亜耶さま、有り難う御座います…」

「ねえ、此の事…(あかとき)(きみ)にお話しても良い?真尋には目を掛けているから、知りたいと思うのよ」

「はい、お継母(かあ)さま。お父様にもお話し下さい。芳名の覚えも上がると思いますし…」

遊馬(あすま)を育てたと云うだけで、覚えは良くてよ」

 真耶佳が言うと、悟織は少しだけ笑った。もう、悟織も大丈夫。亜耶はふと、先程の哀しみが形を潜め、安堵している自分に気付いた。

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