九十六、神夢と涙
巫王は虚ろな目で帰って来た。陸での宴は、夜通し行われたのだ。目の下には、うっすらと隈も見える。
「襲は脱がなかったぞ」
出迎えた亜耶達親子に、巫王は意気揚々とは行かないまでも誇らしげに報告する。八和尊は、満足げに目を細めていた。
「御爺、居無い、寂しい」
「帰って来たぞ、八和尊。嬉しいか?」
「半々」
素直に嬉しいと云えば良い物を、八和尊は巫王をがっくりとさせる。大蛇は考え倦ねた挙げ句、八和尊を巫王に抱かせた。寝不足の巫王の腕は危うくは無いかと危惧したのだろう。大丈夫だと亜耶が言うと、大蛇は其の侭神殿に向き直る。
「おい兄者、綾、纏向に持ってく魚の話だ」
「神饌は無いの?」
直ぐに綾が出てきて口を尖らせるが、神饌ならば昨日供えている。大龍彦は不服は無い、と言った。綾も夫の意向に従う様だ。腹癒せの様に飛沫の鼻を擽って、嚔を浴びていた。
巫王が、去年井波に瘡魚を持って行くと約束したと言うと、其れは許される。ただ、貝の類いは今年は無しだとも。大蛇は時記に鰙を食べさせたいと言う。そちらは山津見神と相談しろと綾に一蹴された。綿津見神が許すのは、海の魚に限った事。川魚は山津見神次第だそうだ。
「山津見の爺さんなら反対は為ねえだろうけど…」
「だったら山を登れば良いじゃ無い。僕達は答えられないんだから」
「亜耶、良いか?」
「明後日ならば、平気よ」
「大蝦は、また俺が捕って来て遣る。生きた侭凍てつかせれば良い」
大龍彦が話を纏めて、後は冬の漁り次第。巫王は目まぐるしく巡る会話の波に、付いて来ている様子では無かった。
「お父様、今日は女御館でお休みになって。厨にも話は通してあるわ」
「眠いだろう。八津代?話は済んだから、さっさと暖まろうぜ」
綾が、又甘やかして、と視線で言う。大龍彦も同様だ。けれど巫王は途端に笑顔になって、軽い足取りで白浜を後にした。
亜耶の目的は、巫王の夢を盗む事。其の為に女御館に連れて来た。巫王は今日、神夢を見る。美茜に関する夢だ。其の侭に為ておけば、また以前の様に憔悴しかねない。美茜の定めで巫王を憔悴させる事は、亜耶の本意では無い。亜耶も辛いが、盗まねば。そう思っていた。
「亜耶、私はどんな神夢でも受け容れる覚悟は出来ているよ」
巫王は不意に、然う言う。娘の懸念を察したのだろう。真逆、苦しみを亜耶にだけ背負わせる事はしない。巫王は哀しく笑って然う云った。亜耶は黙って頷いて、巫王を寝座へと導く。腰を折られた計画も、全ては定めと悟って。
「私が魘されても、見守って呉れ」
「分かったわ、お父様」
「大蛇に八和尊も」
「八津代…」
八和尊は、未だ何のことだか分からずにきょとんとしている。亜耶は美茜の事は、目隠し為ていた。話すのも八和尊が寝静まった後にだけ。今は未だ、知らなくて良いとは母の思いだ。直ぐに巫王は眠りに就き、健やかな寝息が女御館を支配した。其れも、暫しの事。
巫王が魘されるのは早かった。うう、と唸り何かを掴もうと挙げられた手が虚空を切る。美茜を掴もうと為たのだ。黄泉路へと赴く孫娘を見るのは辛かろう。しかも、生めと言ったのは巫王だ。
「御爺…?」
八和尊が不思議そうに、巫王の方を見る。亜耶は黙って首を横に振って、八和尊をも眠らせた。決して美茜の夢が入って来ぬ様に、目隠しの術を二重に掛けて。
そして魘される巫王の声は、不意にやんだ。神夢が終わりを告げたのだ。昨日の疲れもあり、巫王は未だ此の侭眠る。亜耶は巫王の額に指先を充て、羽張の夢に替えた。今度は巫王の口許が、少しばかり笑みの形を浮かべる。羽張との時間はそんなに幸せだったか、と。亜耶はまた、哀しくなった。
「おい亜耶、水鏡が揺れてるぞ」
「ああ、真耶佳と悟織ね。今行くわ」
亜耶は哀しみを振り払い、穏やかな笑みを顔に貼り付ける。何が有ったかなど、二人に悟られなくて良い。其の一心だった。
「待たせてごめんなさいね」
先に大蛇が繋いで置いて呉れた水鏡に、亜耶は普段通りに言った。普段通り、その筈だった。しかし、悟織が怪訝そうな顔をする。真耶佳も話し出す事はしない。
「亜耶さま…お疲れですか?」
「違うわ、此れは亜耶が都合の悪い事を隠す時の顔よ」
真耶佳と悟織は、難無く亜耶の強がりを挫いた。けれど用件ならば、亜耶にも分かって居る。さっさと話し出そうとすると、又も止められる。
「亜耶さま、無理をせずとも良いのですよ。継姪に、話して見る気は御座いませんか」
「そうよ亜耶、姉姫にもその辛さの源を話して」
真耶佳と悟織は食い下がる。本当に知らぬで良い事なの、との呟きは、容れられなかった。
「亜耶、今泣きたいでしょう?」
真耶佳の声に、慈愛が籠もる。その一言を切欠に、亜耶はぽろぽろと涙を零した。こんな事は、予定には無かったのに。闇見にも無かったのに。然う思い乍ら、亜耶は領巾で涙を拭う。
「貴女は未だ、十七なの。輿入れした時の私と同じ年。未だ、長ぶらなくて良いのよ」
「…お父様が神夢を、先程まで見ていたの。美茜の最期の夢」
「覗き見したの?」
「流れ込んできたわ…」
「巫覡とは、時として不便ね。哀しい未来も、知らされて仕舞うなんて」
「本当は、お父様から夢を盗む積もりでお招きしたの。けれど、お父様も背負うと眠りに就かれた…。今は、羽張さまの夢を見ているわ」
「お父様だけ?亜耶は、自分に夢を見せないの?」
「私は…望んだ夢を見る事は少ないわ」
真耶佳は其処で溜息を吐いた。不器用な妹姫に、酬いない父の寝穢さに対してだ。
「お父様は昨夜、陸で一晩中宴に召されてお疲れだもの。仕方無いわ」
此の時、亜耶の口許には諦観の笑みが浮かんでいた。そんな亜耶を見て、真耶佳は眉根を寄せる。
「お父様は、いつ頃起きてくるの?」
「夕餉前、かしら」
「然うしたら、亜耶もお父様から望む夢を貰いなさい。どうせ羽張さまの夢は、貴女が見せたんでしょう?其れでお相子」
真耶佳が水鏡の向こうで、ぽんと手を打った。亜耶に取っても辛い話は、此れで終わり。そんな合図の様に、亜耶は感じた。だから亜耶は、今度こそ正真正銘の笑顔で言う。
「真尋は今年で四つよ」
「え?三つでは無いのですか!?」
「そうよ。十一の大晦に、悟織は産屋に入った。夜が明ける前に産み落として居るわね。其れが、真尋の生まれよ」
「けれど…一番鶏が鳴くまで、真尋は泣かなくて…」
「南出津賀姫が、口を塞いでいたもの」
「あの女が!?どう云う事ですか、亜耶さま!?」
亜耶は悟織の頭に上った熱を冷ます為、ふう、と息を吐いてから続けた。
「南出津賀姫は、娘が十一のうちに子を生んだ事を認めたくなかった。しかも、自分の決めた夫では無い男との子。ともすればとの思いも有ったみたいね。けれど芳名が手を引き剥がして、真尋に息をさせた。息が整うまで、泣く事は叶わなかったのよ」
「そんな…」
悟織の顔が、みるみる赤と青に染まっていく。其れは然うだ、娘を喪っていたかも知れないのだから。
「そして南出津賀姫は、一番鶏が鳴いた後の産声だったから真尋は初春の生まれだと言い含めた。せめて十二で生んだ事にしようと」
「真尋は、其れを知って…?」
「知っているわ。天つ神様が教えたもの」
今度は、悟織が涙を流す番だ。悔し涙。真尋に知られている事が、心に重くのし掛かって居るのだろう。望まれた生まれでは無いと、真尋が思っているかも知れない。そんな不安が流れ込んで来る。
「真尋は、父母の愛を疑った事は無いわ」
悟織がぱっと顔を上げた。亜耶は優しい微笑みで、真尋が父母に付いて語った言葉を繰り返す。すると、悟織の涙の種類が変わった。今度は、嬉し涙だ。
「亜耶さま、有り難う御座います…」
「ねえ、此の事…暁の王にお話しても良い?真尋には目を掛けているから、知りたいと思うのよ」
「はい、お継母さま。お父様にもお話し下さい。芳名の覚えも上がると思いますし…」
「遊馬を育てたと云うだけで、覚えは良くてよ」
真耶佳が言うと、悟織は少しだけ笑った。もう、悟織も大丈夫。亜耶はふと、先程の哀しみが形を潜め、安堵している自分に気付いた。




