九十五、梅見への誘い
悟織が、枝垂れ梅が咲いたと真耶佳に知らせてきた。白梅の方は綻んだ程度だが、紅梅はもう見事と。
「お継母様、お父様と皇子と見に行くと宜しいかと」
「然うね。暁の王がお戻りに成られたら先ず眠るでしょうから、其の後に話してみるわ」
真耶佳が和やかに答えても、悟織は何か言いたげだ。巫覡ならではの表情。真耶佳には、杜で幾度も見覚えがあった。
「悟織、如何したの?」
「澪さまから…魚の杜の子守歌を亜耶さまに習ったと聞いて…私も習いたいのです」
消え入る様な声で、悟織は言った。妻籠生まれの自分が望むのは、綿津見神に申し訳ないと思っているのだろう。けれど、真尋も杜の子を生む身。真尋に教えたいのは、想像に難くない。
「良いけれど…私の歌の不得手に驚かないでね」
「そんな事は気になりません。昨日歌われて居たお継母様の歌声は、美しかったです」
妙に力の入った言い回しに、悟織は真耶佳を持ち上げて居る訳では無いのが知れる。本当に良い子だと、真耶佳は感心して仕舞った。同時に、水鏡の前で歌うのは皆に聞かれるのだとも。少し赤くなり乍ら真耶佳は、有り難うと言った。
「悟織は歌が得意なの?」
「いいえ…あまり聞いた事が無いので、正直得意では無いです」
此方も歌を詠む事は苦にならないそうだ。真耶佳は自分と同じ、と笑って仕舞う。芳名は、子守歌が得意では無かったのか。そう聞くと、南出津賀姫がいい顔を為なかったと返って来た。何処までも身勝手な悟織の実の母に、少なからず腹が立つ。南の大豪族の子守歌は忘れて良い。そんな事が思わず口を突いて出そうになった真耶佳だった。
夕餉の刻の前に、大王は帰ってきた。四方拝、元始祭と続けて疲労は溜まった様だ。夕餉を食べたら直ぐに眠りたい。其の大王の望みを真耶佳は叶える事とした。
「真耶佳、梅が咲いていたぞ。菜花ももうじき咲きそうだ。其方と見に行きたい」
「まあ、私も暁の王をお誘いしようと思っておりました」
そっと悟織に目配せすると、大王は全てを察した様だ。悟織に礼を言い、共に来るかと誘っている。
「私は遊馬と真尋と毎朝見ています。お継母様と皇子と水入らずで見ては如何かと」
「其の気遣い、有り難く思う」
「お父様のお気遣いこそ、有り難いですわ」
父娘の間の険も、だいぶ緩んだ二人の遣り取り。真耶佳は嬉しくなって、暖かく見詰めた。
悟織は聡い娘だ。大王の娘に相応しい。けれど今は皇女では無いから、月の忌みが来る。澪が言って居たのは、明後日から。三晩留守にする間澪に預かると言われ、真尋は喜んでいた。多分其の会話の時に、子守歌の話も聞いたのだろう。亜耶に教えて貰うのは、悟織が帰って来てから。真耶佳は然う、独り決めした。
「然う言えば、悟織。真尋は自分を四つだと思っていると澪から聞いたわ」
「そうなのです、お継母様。幾ら正しても聞き入れなくて…」
「三つよね?」
「ええ、確かに私が産屋に入ったのは大晦ですが、真尋が産声を上げたのは一番鶏が鳴いてからで…」
「其れでは、也耶と一つ違いと思っても仕方無いわね。也耶は年の瀬の生まれだし」
「でも、私は未だ十五です…」
「亜耶が三つだと言えば聞くかしら?」
「如何でしょう…、試してみる価値はありそうですね?」
継母と継娘はこそこそと相談し合い、悟織が忌屋に居る間に水鏡で頼む事にした。亜耶は笑うだろうが、真尋の為にも正して置いた方が良い。然う思っての事だった。
そんな中、井波と宇土、万木が来て夕餉を並べていく。芳名は未だに宮で食事を取っていない。悟織と遊馬が説得しても、畏れ多いと聞かないそうだ。
「ねえ悟織、貴女が忌屋に居る間、芳名が真尋の食事を手伝って呉れないと困ると言伝しても良い?」
悟織ははっとした顔を為て、真耶佳の魂胆に気付いた様だ。直ぐに頷いて、大后から呼ばれれば来るだろうと請け合った。其の侭済し崩しにとは行かないかも知れないが、直会の様な食事を大王が望んでいると知れば。独り寂しく御館で食事をさせるのは、皆気が引けている。厨の手間も多い。然う圧して行こうと真耶佳と悟織はまた頷き合った。早く眠りたい大王が、真耶佳と悟織を呼んでいる。二人は直ぐに、いつもの場所に座った。真耶佳は長椅子、悟織は真尋の隣。此の中に芳名も加わったら、どんなに良いかと思い乍ら。
大王と真耶佳は皇子を連れ、食後直ぐに閨に移動した。片付けは側女達に任せたが、其の後は各自好きな様にと言い置いて。月葉は加古香を送って行くので、閨の番人になるのが遅い。そんな時。
「ははうえ、子守歌を歌って呉れ」
皇子はすっかり味を占め、真耶佳にねだった。
「子守歌とな?真耶佳はずっと歌って居無かったでは無いか」
大王が不思議そうに身を起こす。真耶佳は昼の水鏡での遣り取りを掻い摘まんで聞かせ、大王を納得させた。そして、あろう事か大王まで真耶佳に子守歌を所望する。
「真耶佳、歌って呉れ。我も其方の美しい声で眠りに就きたい」
もう半分眠った様な大王が、身を起こしてまで懇願為たのだ、真耶佳とて歌わない訳にはいかない。両側に二人を寝かせ、真耶佳は座ったまま恐る恐る歌う。皇子の腹は、ぽんぽんと叩き乍ら。すると二人は、直ぐに寝息を立て始めた。子守歌など必要なかったのではと思う真耶佳だったが、二人の安堵しきった寝息を聞いているとどうでも良くなってくる。二人共に良い子、と言って真耶佳も眠りに就いた。其の眠りは、普段より穏やかだった。
一夜が明け、大王は普段通りの朝を取り戻していた。真耶佳はと言えば、夕べ早く眠りに就いた皇子に夜明け前に起こされ、子守歌、と呪文の様に言われる始末。
「朝霞、子守歌とは母を困らせる為のものでは無い。眠りに就く前に頼んで、一度歌って貰うのみだ」
大王の言葉に、皇子は少し項垂れた。真耶佳も頑として二度目は歌わなかったので、皇子も納得半分と云った所か。
「夕べはちちうえと共に歌って貰ったのだから、一回分には…」
「なっている。産女の母を困らすな」
また同母妹しか要らぬのかといじけるかと思われた皇子だったが、少し落ち込んだだけで其の言葉は発しなかった。ただ真耶佳に明け方前に起こした事を詫び、小さくなっている。
「子守歌があると、未だ眠れる様な気がしてしまうのだ」
「気の所為よ、朝霞。一度目覚めたら、昼寝の時間まで眠気は来ないわ」
「昼寝の時には歌って呉れるか、ははうえ?」
「澪が歌って呉れるわ」
又しても挫かれた皇子の我が侭。少ししつこすぎるが故に挫かれた事に、いつか皇子は気付くか忘れるか。もう赤子の域を脱した皇子に、真耶佳は手厚過ぎる位だと思った。
「真耶佳、朝霞、朝餉が終わったら梅見に行かぬか?」
「参りましょう、暁の王。私、枝垂れ梅が咲くのを心待ちに為ていたんです」
「ちちうえ、ははうえ、連れて行って下さるのか?」
「勿論だ。其方も梅の咲いたくらいは分かるであろう?」
皇子は元気よく頷き、いそいそと朝餉を待った。襁褓を替えられる時も、非常に聞き分けが良かった。




