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魚の杜の巫女  作者: 楡 依雫
水鏡篇 二の章

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九十四、子守歌

 (みお)の歌声は美しい。其れは祝詞(のりと)を歌う時の亜耶に似ている。一方、普段から亜耶に似た声を持つ真耶佳(まやか)は、歌が苦手だ。詠むのに大して苦は無い。歌うのが苦手なのだ。だから皇子(みこ)への子守歌も澪に任せてきたし、亜耶も其れで良しと為てきた。

 しかし今日水鏡で皇子と向き合ってみて、亜耶は其れではいけないと気付いた。澪は歌って呉れるのに、何故母は歌って呉れぬのか。同母妹(いろも)になら歌うのか。そんな疑問が皇子の中には満ちていた。

「真耶佳、皇子に子守歌を歌ってお上げなさいな」

「えっ…」

 急に言われた真耶佳は、言葉を失っている。亜耶は真耶佳の音痴を知っているからだ。其れは遺伝とも言える物で、羽鳥(はとり)も大層歌が下手だった。亜耶などは、羽鳥が歌う度に結界を強めて耳を塞いだ程だ。知っている筈の亜耶が、何故そんな事を。真耶佳の目は、然う言って居る。

「子守歌は、澪に任せて居るわ」

 案の定真耶佳は、難色を示す。だが皇子は、真耶佳の子守歌を望んでいる。閨で優しく腹を叩かれ乍ら、眠りに淀みたいと。

「真耶佳、羽鳥が歌う時、貴女は耳を塞がなかった。母の歌とは、然う云う物なの」

「確かに耳は塞がなかったわ…其の術が、無かったから。でも…」

「皇子、ははうえの歌、聞きたいわよね」

「勿論だ!ははうえは我に歌って呉れぬ。同母妹にならば歌うかも知れぬのに」

朝霞(あさか)…そんな事は…」

 聞けば、大王(おおきみ)も子守歌は歌えないと云う。歌わないのでは無い、知らないのだ。大王の乳母(めのと)果敢無(はかな)くなるのが早かった。大王の記憶には残って居無い。母も鼻炎がちで、歌など歌う(いとま)が無かった。

「真耶佳が歌うしか無いわね」

 狼狽える真耶佳を飛び越えて、亜耶は結論を出す。どんなに下手でも、真耶佳の耳に羽鳥の歌は残っている筈だ。

「澪…」

 真耶佳が隣に座す澪に、助けを求める。澪は真耶佳が歌を苦手とするとは、思って居無かった様だ。乳母の務めとして皇子にも子守歌を歌っていただけ。皇子が望むのなら、真耶佳が歌うべきだと思っているのが水鏡(みずかがみ)でも知れる。

「真耶佳さま、皇子に歌って差し上げるべきです」

 皇子の自我が発達してきて、澪の歌では哀しいと云う。それならば母なる真耶佳が、と澪は言った。

 水鏡の向こう、未だ決心が付かない真耶佳に亜耶は言い募る。

「あと八年しか共に居る事は出来無いのよ?今を逸して如何(どう)するの」

 真耶佳は少し下を向いて、逡巡していた。その間も、皇子の期待に満ちた視線は真耶佳に注がれる。

「朝霞、母は歌が不得手なの」

「構わぬぞ、ははうえ」

「其れで良いのなら、今宵から私が子守歌を歌うわ…」

 最後は溜息の様に、真耶佳は言った。亜耶に取っては一歩を踏み出した真耶佳は、目指す垂乳根(たらちね)像に近付いて居ると思う。然う言うと真耶佳は、やっと笑顔らしき物を零した。




 所で、と真耶佳が言った。話を変えるのかと思いきや、未だ歌の話だ。

「亜耶は誰の歌を手本にしたの?お父様は女御館(おなみたち)で歌など歌わなかったじゃない」

「ああ、私は綾から習ったのよ。舞いも、術も、歌もね」

「巧い手本があれば、自ずと巧くなると言うわね。私も霊眼(まなこ)を塞がずに、神殿(かむどの)に通いたかったわ…」

「羽鳥が果敢無くなった後なら、お父様に頼めば出来たかも知れないけれど…」

 其処で水鏡の此方側の大蛇(おろと)が動き出した。八和尊(やかずほ)襁褓(むつ)の時間だ。会話には最初から参加していないので、大蛇は軽い挨拶のみで寝座(じんざ)に向かう。代わりに水鏡ににゅっと顔を出したのは、飛沫(しぶき)だ。飛沫が真耶佳の方を見て、何かを訴えている。

「真耶佳、今歌ってみて」

「え?」

「飛沫が霊力(ちから)を入れてくれたみたい。私にも結果は分からないけれど、悪い方には転ばない筈よ」

「………分かったわ」

 真耶佳は覚悟を決めた顔で、皇子を抱いて子守歌を歌い出した。其の声は澄んで、矢張り美しい声だと亜耶は思う。声音は堅いし音程は危ういが、羽鳥の歌よりずっと真面(まとも)だ。ぽん、ぽん、と腹を叩かれた皇子は、迚も満足そうだった。

「飛沫…有り難う」

 歌い終えた真耶佳は、真っ先に然う言った。其の頃には飛沫は毛繕いに夢中で、聞いていたかも怪しい。しかし、歌い慣れれば良いのだと亜耶と澪に言われて、真耶佳は満更でも無い様子だった。

「亜耶さまはどんな子守歌を歌うのですか?」

 ふと、澪が聞いてきた。綾に習ったと聞いて、興味が湧いたのだろう。歌ってみよと言われた訳では無いので、亜耶は手短に答える。

「綾の母、(さざなみ)の歌っていたと云う歌よ。迚もゆっくりしているから、八和尊も眠り易いみたい」

「亜耶の歌声を聞く度に、懐かしくなるな」

 八和尊の襁褓を替え、戻って来た大蛇が不意に言う。大蛇も、漣に育てられたのだ。懐かしいと云うのは其れ故。

「では其れは、(れっき)とした(いお)(もり)の子守歌なのですね…」

「今度、教えてあげるわ。歌ってみたいのでしょう、澪?」

「はい…時記(ときふさ)さまの歌う子守歌は(くが)のものだと仰有って居ました。魚の杜の子守歌、私も也耶(やや)秀真(ほつま)に聞かせたいです…」

 澪と也耶は、其処で微笑み合った。也耶は杜に帰るのだから、知りたいのは当然。そして。

「我も聴きたい!亜耶、今歌え!」

「皇子…」

 亜耶は困った顔を為て、しかし歌い始めた。最初は低く、徐々に高く、最後に又低く。亜耶の子守歌は独特で、しかし聞き馴染みを感じさせる物。皆一様に聞き惚れていた。

「亜耶、素晴らしいぞ!流石ははうえの妹姫(おとひめ)

「お褒めに預り光栄ですわ、皇子」

「矢張り一度では覚えられませんね…亜耶さま、今後ご教授お願いします」

「私も…教えて欲しいわ。杜子(とうこ)は杜で子を生むのでしょう?」

 放って置いても綾が教えるとは、亜耶には言えなかった。澪と時記が未だ、杜子の定められた人を秘して居るから。

 そうね、と素っ気なく言って傍らを見れば、大蛇の膝の上で八和尊が寝息を立てている。霊力は込めていない積もりだったのに、此の八和尊の反応。条件反射と言った方が良いのかも知れない。澪や真耶佳に教える時も、時と場合を選ぶべきだと亜耶は思った。




 水鏡での会話が終わり、八和尊がようやっと起きた頃に夕餉が来た。氷冴(ひさえ)が廊下まで入って置いていくのも、もう慣れた。寧ろ、最初からこうして置けば良かったとすら亜耶は思う。菜摘(なつみ)(つま)は信用出来るし、膳を持って寒さに震えさせる事も無い。

「氷冴、有り難う」

「い、いいえ、此方こそ助かります!」

 大蛇相手には緊張の欠片も無い氷冴だが、亜耶となると話は別の様だ。恐縮させて仕舞った、と亜耶は少し悔いた。其処で足元に絡み付いてきた飛沫に言う。

「今日は乳粥よ。菜摘みの日より早いのに、菜花が入っているわ」

 言われた飛沫は、首を傾げる。然う言えば飛沫は、菜花を食べた事が無い。どんな反応をするのか。亜耶は少し、楽しみになった。

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